(舞台の上での時が半ば以上過ぎ、桜が少しずつ花びらを落としている。気づけばそこかしこに、紅白の鮮麗やかな旭日旗がひらひらはためいている。…若者が空を見上げると、桜の花に混じって閃く旗に、心許ない手つきで触れようとして……力なく指を落とす。)



 永らく實近も僕を口を利かず、唯車が帝都の錦の街並みを走り抜けた。翳る平和に愛国心の鼓舞の為め、翻る旭日旗の紅と白が煉瓦と春の青空に映え、ますます増える近代的な建築が青天井を歪にしていた。銀座に入ると、帝都随一の百貨店の前に差し掛かり、舶来品の綺羅星のごとく列ぶショウ・ウヰンドウの、そして其の通りを歩く人々の衣類や姿態の、ニルヴァナめいた奇体な、あまやかな馨りの過ぎるのを黙って待った。

 暫し走り、やがて万年町の近くを抜けたとき、警官隊が彷徨ついているのを見た。何だと身を乗り出せば、どうやら貧民街でコレラが流行っているらしい。僕は道端に蹲る貧乏人の襤褸と、先程見た紅白の綺羅を交互に思い返していた。……此れがみやこである。掃き溜めに咲くのが蓮なのだ。

「實近、戻る心算はあるか」ふと思い立って訊くと、實近はすっと顔を逸らした。…日高の園遊会に戻る気はないようだ。まあ日高の令息らと知古のようであるし、實近の気紛れな性質は帝都の華族の中でそれなりに知られたものであるので、大きな咎め立ては無いということを期待しておく。公爵も智近様も、此の末子には変わらず甘いのだ。……その實近が手放したがらない僕にもまた。

 なんとも計算高くなった己れの思考に溜め息をついて椅子に沈み込むと、實近が窓の外を見遣って僕の裾を引いた。駿河が車をゆるゆると減速させて、停まる。

「此処だよ」

 實近は車から降りがてら駿河に、少しこの辺りを回ってくるよう言い付けた。駿河は黙って頭を下げた。

 到着先は、民家と商店が並ぶ下町らしいところの、二階に花燈窓のある、静かな家屋であった。正面の縁側にもはみ出すほどの家具や小物が溢れているので、質屋かと思えば、掲げられている看板には骨董屋とあった。縁の隅で信楽の狸がふっくりと笑っている。實近が其所へ迷い無く足を踏み入れるもので戸惑ったが跡を追った。

 鬱蒼とした木下闇より尚暗い――身動げば体の何処かが何かに当たる。印度更紗や中国の山水画、――王維の印が入っているものはさすがに贋作であろう――李朝の茶碗なぞも少々怪しい。魑魅魍魎跳梁跋扈、全き混沌である。然し、黃昏期のごとく密っそりとしていて好もしく思えた。…

 實近はその透き間をくぐるように歩いて、愛しげに木彫りやらを撫でて囁いた。

「俺は遠い昔、桜花が美薗地に来ておらず、國近兄様がまだ外出なさっていた頃……國近兄様にくッ付いてこの骨董店で種々なものを見るのが慰めだったのだ」

 母上は俺が生まれてすぐに病んで、感染っては不可ないと離されてしまったから、と淋しげに微笑む。

「母上の顔を最も近しく見たのは、ほんの乳飲み子の頃と――母上の葬儀だ」

 硝子囲の温室のような気のする、雨気と埃の香の籠もった不思議な店だ。

「おや」

 店の奥、リモージュ琺瑯の仏蘭西式柱時計に凭れ掛かった男が、僕達を――正しくは實近を見て声をあげた。

 壮年の男である。銀の煙管を持って居たのだが、その蜥蜴の意匠を見てハッとした。國近様の物と同じ、舶来の彫琢であった。

「實坊か」否、今は實近様かな――と男は云い、はにかんで微笑む實近に親しげに歩み寄った。「何時ぶりだろう。如何して最近来なかったんだ」

「井槌さん」

 擽ったそうに實近は笑った。

「大きくなったなあ、見違える。立派な華族様だ。来年はもう士官學校かい?」

「そうだよ。あゝ、井槌さん、もう、子供じゃないのだから…」

 井槌と呼ばれた男は、話しながら親しげな仕種で實近の腰に手を回すもので、男なりのそういう挨拶の作法なのかと考えてしまった。實近はやんわりその腰を抱く手を指で叩いて苦笑する。井槌氏は面白そうに彼を自分の方へ引き寄せたが、不意に、薙刀の傍らに突ッ立つ僕を認めて目を眇めた。

「あれが自慢の弟君かい」

「うん、紹介するのを忘れて居たね。――桜花や、おいで」

 實近が僕を手招く仕種が何処となく國近様と似ていた。僕が歩み寄れば男も面白そうに一歩近付き、凝々と僕の容子を眺めた。僕も間近で相手を見たが、成る程色男である。

「井槌さんだ。昔、よく俺たち兄弟を構って呉れた。…」

 僕は加賀桜花だと名乗りながら、相手と、その周りの店の内装をとくと眺めた。智近様が此のような所に来るとは思えなかったが、國近様なら成る程と思える。然し、目前の井槌氏に構われていたというのがなかなか想像がつかなかった。

「流石は美薗地の児だ。かんばせの白いこと、髪の黒いこと、…」然し、お手付きの女中でも連れてくるようになったかと思えば弟かい、と彼は笑う。「まァ奇麗なべべ着て、女子より上等なんじゃないかね」

 僕は桜唐草に指を這わせて黙ってしまった。単純に褒められたのでないので謙るのもなんだか違うような気もして濁すと、井槌氏は艶っぽく蜥蜴の煙管を喫し、實近に囁いた。「お前の兄様にも顔を出すよう云って呉れ。あまりに御無沙汰じゃあないか」

「國近兄様は……」

 途端口ごもった實近に、敏く男は煙を止めた。

「余程工合が悪いのかい」

 嘘のつけない實近は黙りこくった。

 國近様の容体は近頃目に見えて悪化していた。云い聞かすように春になり暖かくなればと云っていた医者も困り果てる程。食事も口を附ける皿は殆ど無く、重湯のような物を厭そうに少しだけ含んでは残す。夕刻は濡れ縁や庭に出した籐椅子で読書をするのが日課だったのが、日が沈む頃に熱が上がるようになったもので其れが無くなった。今やあの、鈴の組紐に囲われた離れに病と云う綛で監禁されているも同じである。人間との体内の遊戯的駆け引きを愉しむことに飽いた疾病司る悪鬼が一息に決着を着けてしまおうと駒を進めて居るのが判る。死病の前に人は無力なのだ。

 男は煙管を燻らせて短く唸る。國近様と其れなりの知己と見え、眉間に皺が幾重にも寄っていた。

「……若いもんがねえ」

 深山ではやたらと子供が死んだ。若者も死んだ。大概は病である。…帝都では、若者が――しかも、恵まれた生まれの若者が病で死ぬことは悲劇なのだ。

 井槌氏はとん、と指先で煙管を揺らすと、實近に向き直った。

「花道に顔は出したかい」

「未だ。……此れから行こうと思って。……」兄様は居ないけど、と寂しそうに笑った實近は僕の方を見て「桜花がいるからね」と云う。

「兄らしい顔をするようになって」井槌氏は脣辺をちょっとつり上げて、實近の肩をつついた。

「いつまでも昔の俺ではないよ、井槌さん」

 實近は僕の肩に指を添わせて莞爾とした。

「桜花、何か欲しいものはないかい」

 出し抜けに問われて、僕は声を出せずに頚をことんと傾げてしまった。僕は基本が物欲の薄い人間である。家屋中に犇めく魑魅魍魎がこちらを一斉にみている気がした。

 ふと思い付いた、別に僕自身でなくとも、贈り物として誰ぞに遣る物を撰べばよいのである。ここで断ると實近は拗ねるもので――それなら、いつか要り用なものを用立てておくのも手だ。母と妹の顔が浮かんだ――近々好いた相手と婚姻を結ぶだろう妹と、心配を掛けてきた母の顔が。

 二人の生活に必要そうなものはそれとなく公爵に頼んで送ってもらうが、娯楽品はあまり頼めていない。僕は、古くとも褪せぬ、むしろその美の豊潤さを増すきらびやかな品が並ぶ棚の前に寄った。サッと目を引く手のひらより小さいくらいの物がキラリと夜明のごとく光った――相当に上等な帯留めである。七宝の豊かな黒地に螺鈿で桜ばな、珊瑚で点とその実が彩りに嵌められた意匠の、銀の縁がついた横長楕円は西欧のブロォチ風。

「此れがいいのかい、桜花」

「うむ。……」家族にな、と呟くと、實近は首肯して棚の硝子戸をからからと引き開ける。

「桜の花と実か。粋なことをするねェ」

 背後から僕の手元を見た井槌氏は喉の奥で笑って煙管を咥え直し、實近と僕を見比べた。

 数拍遅れて、彼が僕らの名前――桜花と實近の漢字のことを言っているのだと気づいてハッと、柄にもなく狼狽えかけた。實近も驚いたようでおっとりと「そういうことなのかい、桜花」と僕に問うてくる。何がそういうことなのかと聞き返したいが何も言えず、僕がごにょごにょ不明瞭に別に意図したわけではとか云っている間に、實近は代金を取り出していた。

「店主は昼の休みに入ってるから、台の上に署名でもして金を載せときな。お前の名なら信用するさ」

 井槌氏が云って初めて、彼がこの店の店主でないと知った。堂々とした振る舞いにてっきりそうだと思っていたので正直驚いた。

 渡された包みを懐にしまうのを凝っと見ていた井槌氏は、紫煙の向うから唐突に「やはりお前達は似ているね」と云った。

 次いで我々が向かったのは、先刻のやり取りから判るとおり花道という料理店である。明らかに庶民の店という構えに僕は寧ろ親しみを覚えたが、實近や僕の奇妙に上等な装いが人目を惹くように思えてすこし肩身が狭かった。店主らしい相手と實近が井槌氏のときのような問答を交わす。奥の席に腰を落ち着けて注文する實近は慣れて見えた。

「桜花は何にする」

「じゃあ、……此れを」と品書きの文字を指差した、うこぎの新芽の胡麻和えという中々お目にかかれない料理だが、運ばれてきた物を口に運んでみれば此れが大層美味い。思わず箸の速くなるのを抑えて居ると、厨の方を見やれば、僕と同じ位の子が此方を見ていた。童顔の可愛らしい子どもだ。見ていると、彼は僕らの湯呑が空に近いのに気付いて口の長い鉄葉の湯沸かしから、渋茶を注いで、箱根細工の木地盆に載したのを差出した。ついでに、皿に幅広の葉っぱを敷いて、その上に割った瓜を載せたものを出してきた。薄桃色に、また青く透明る、冷い、甘い露の垂りそうな早い瓜だ。有り難うと云うと、はにかんで微笑う様子に、妹を思い出して胸が痛くなった。

 實近が嬉しそうにちまちま瓜を頬ばっているのを見ていると、ふと目があった。僕の見ていることを知った實近は少し照れると、「ここも、たまに國近兄様と来たのだ。…」と店内のあちこちを見遣って悲しそうに笑った。

「智近兄様は御存知だったけど、黙っていて呉れた。

…そう、國近兄様は、何時も煙管を燻らして…未だ若すぎた位だったのに……つんと黙って、俺とは口を利いて呉れなかった」

 實近はそう、悲しげに溢した。國近様が實近を愛していないと僕は思わなかった。少なくとも、奇妙な縁である僕のことを気にかけるよりは多く、實近に心を傾けていたのではないかと感じる。然し、実際のところは本人しか判らぬ。縁は深く絡まっているが赤の他人と、半分だけ血の繋がった弟と、人はどちらの方がより思いを複雑にするのだろう。黙って彼のいうことを聞いていた。

「僕は、ずっと孤独であったのだなあ……」

 瓜を齧っていた實近が、ぽつんと呟いた。子供に還ったような声で、まるで僕の知らないほど幼い彼と時を過ごしている妙な気持ちになったあと――あゝ、これこそが、實近のしたかったことなのだと合点がいった。

 そしてそれは、僕にも嬉しいことであった。

 僕も、かつては孤独な子供時代だった。然し、僕には神のもののごとき手足と自由があり、深山を駆けるときにはまぼろしの翼すらあった。だから僕は――同類として、鳥を、そして近年になっては飛行機も愛するようになった。

 深山の麓には粗末な家があり、其所には妹と母が居る。然し、桜の咲く深山に於いて、僕の傍らにも誰も立つことはなく、――僕はつがいの鳥に憧れることもあった。

 兄の愛に不安を懐きながら、庇護者の不在に塞いで過ごした實近の幼少期は、翼に憧れるに充分だったろう。

「思えば、俺は殆んど屋敷にこもりっぱなしで…用があって出掛けても、飛行機以外の用事はあまり好きでなくてね。俺はこの都のそとを殆ど知らない。――きみの故郷とはどんなものか、桜花」

 そういえば、此処までずぅっと一緒に暮らしていて、僕は殆んど自分の故郷を話したことが無かった。實近が訊かなかったこともある。

「いつか来れば良いだろう」

 そう云うと、實近は目を瞬かせて、「……そうだねえ」と破顔した。相変わらず、花の咲くような微笑だった。僕は仏頂面のままで、「……山が、深くてな」と少しだけ喋った。

「崖があったのだ。鬱蒼とした森を駆けていると、やたらに桜の繁る場所があって、不意に目の前が真っ青になって、其れは晴天なのだ。ハッと立ち止まると、裸足の爪先はもう崖の縁で……落ちたら死ぬるような屏風なのだが、不思議と怖くはない。唯、すうっと気が空へ持っていかれるような、足を止めずに駆ければ、そのまま鳥へ転じて飛び立てそうな気になる、そんな場所がある。

 僕はそこがいっとう気に入りだった」

 そうか、と實近は首肯いた。垂れた眦が優しかった。「いつか見せておくれね。……」

 僕は頚を縦に振って、照れ隠しに瓜に齧りついた。


 ……實近は、本当に園遊会に戻る心算が無かったようで、そつなく花道の裏に車を持ってきていた駿河に屋敷へ戻るよう命じた。僕は呆れ返ったが、實近は「千陽と千景がなんとかしてくれる」と宣った。「僕はあれが顔見せなのだがな」と皮肉げに云ってみると、紅い脣をちょっと尖らし「……別に、桜花を皆に見せびらかす必要などないのだもの」と呟いた。子供か、と返せば、頬をむにっと摘ままれた。

「来年からは、俺も士官學校なのだから――もうこんなことはしないよ。今年までだ」

「そうだといいんだがなあ」

 僕も實近の頬を摘まみ返してむにむにやっていると、實近が僕の頬から手を離し、代わりにそっと頭をなで始めた。僕も頬を揉むのをやめ、されるがままにしてやると、彼は少女が人形を可愛がるように、僕の長く伸ばした黒髪をなで続けた。實近の我が儘は今に始まったことではなく、彼は其れが許されるだけの不思議な気配があった。可愛らしい子供の願いを聞いてやりたくなるような、そんな……。こういうものはもって生まれた才であるし、僕を含め、其れを心地いいと感じる人間ばかりが實近の周りには居た。だからこそ、僕の存在も許されていたのかもしれない。

 車が走り抜けるみやこには、きんきら錦と荒野の襤褸が交互に立ち現れる。日ノ本の光と影。貧民と殿上人。対照的な光景は、或いは僕、加賀桜花と美薗地實近の対比であったのかもしれない。

 …やがて、車は屋敷に帰りついた。相変わらず大きく黒黒と聳える門は、春も爛わである気配を微塵も感じさせぬ。……その奥に閉じ込めるのが病人であるからだろうか。

 國近様の臥せる奥の離れのほうから、心なしが冷たい風が吹くようだった。見舞おうと思ってはいたのだが、ふと足が竦むほどの気配が漂っている。来るなと云う風に、ちりんと硬く鈴が鳴った。實近が隣で脣を噛んだ。……結局、何方からともなく高楼へ足を向けていた。出迎える女中の小袖が春の花のごとく翻るのを横目に、艶やかさの裏に常に潜む死の匂いを嗅ぎとった。…

 ひな壇のごとく緋毛氈を敷いた、丸窓から櫻花の吹き込む、百段階段を上がっていく。遠い上を見ながらふと考えた。人は天を目指す生き物だ。より高みを、形のない幸福を、きんきら錦のみやこを夢みる。そしてとうとう、空を飛んだ。異国より吹き込む嵐のごとき文明が、我々に翼を与えた。ならば、その上は何だろう。青空の上には何が?

 考えているうちに、いつしか、天辺に辿りついている。ぼうっとしている足許に桜の花びらが一枚くっついていた。實近は錦の部屋の襖をゆっくり開け、まばゆい青い畳へ爪先を置いた。月見窓は開いていて、白っぽい昼の光をほんのりと部屋に満たしていた。窓のもとににざり寄ると、實近は青を見上げて、そのあとにふと眼下の帝都の街並みを見下ろした。

「俺は、このみやこしか知らないが――けれど、帝都已みならずに――日ノ本すらも美しく、愛おしく、一層慕わしく思えるのだ――俺は空が好きだけれど、空は広く―宇宙も広く――」

 月見窓からぐいと身を乗り出した。高楼からは帝都が一望できて、まるで實近の御室の飛行機のミニアチュアのごときだった。足許を渺と風が吹き抜けて不意に見慣れたはずの景色が可恐くなった。びらびらと小さな紅白の旗があちこち翻る街並みに慄然として一歩下がると、 實近は却って、更に腰から上を窓の外へ前のめり、抜けるような青空を見上げた。雲往き雲来たり、やがてもう一度、水の如く晴れていく。

「俺は……近頃、この日ノ本に、文明開化という嵐が齎したものについて考えるのだ。

 この世はね…もっと、この先、きっとね…混沌としていくのではないかと思うのだよ。 今よりずぅっと。

 文明開化とは混淆の渦だ。和洋が、老若が、貧富が、男女が、すこぅしずつ混ざり始めて…いつしかひとつになるだろう。これは人には止められぬ流れのような気がする。時の河は余りにはやく烈しい…近頃の時代の変化は瀑布のごときだ。人は海を越え、空を飛び、異国と母国の境目が曖昧になっていく。

 世界は混ざりあっていく。俺たちはやがてひとつになるのだ」

 瞬間、轟と風が逆巻き、月見窓の障子と部屋中の衣桁をがたがたと揺らした。朱色の錦と銀の打掛が旗のように翻った。僕はそれに隠されてしまいそうな實近に一歩近づき、紅白の布をかき分けて彼の傍らに寄った。

「それは不幸か」

 僕の言葉に、實近はハッと此方を向いて、そして……微笑んだ。

「いいや。いいや、桜花。

 俺は…僕は、そうなることがどんなに幸福か知れない。

 こうしてこのまま混ざりあっていけば、いつか人は月へも行くだろう」

 實近は美しく純粋な本質を露わにするように、するりと僕という人称を口にした。僕は――俺は、實近が自分のことを「僕」という瞬間がいっとう好きだった。普段はほんの少しきんきら錦のみやこにありて、若者らしく少し斜に構えて喋る彼が、本当に在りのままで居るようで。それを此の加賀桜花に已み見せてくれたようで。

「僕は…俺は、深山で生まれ、帝都で生きている。…實近、これも混淆か」

 試しとばかりに問えば、あははと笑った實近は首肯いた。「そうだよ、桜花。他には思い付くかい」

「俺は加賀の桜花として、美薗地の實近と並び立っている。これも混淆か」

「そうだよ。そうだよ、桜花。僕が、きみにそう口を利いて貰えることは」

 僕たちは最早、お互いにこの問答を楽しんですらいた。「いつの日か平民も華族も消え失せてしまうに違いないよ。……」嬉し気に囁いた實近が不意に僕を抱き寄せて、僕の髪が二人の間に挟まってするりと絹のように流れ落ちた。實近の微笑と吐息が僕の首筋を撫でる。きっと、僕のそれも同じなのだろう。

「僕はね、いつか僕自身と混淆せらるべきものが現れると…信じていた」

 風が僕らを嬲った。それ故に離すまいとするがごとく、僕は彼の背に腕を回した。我が兄。我が友人。我が半身。

 彼はひとりっきりで、あの高楼で、雨の晩も嵐の夜も耐えていたのだ。

 僕は絡みつく彼の腕と熱を噛みしめながらその、悦ばしき枷のごとき重みを享受していた。深山の自由は既に無く、然し今の僕には實近が居た。渺と風が吹く。

「嵐の夜も傍にいる」

 風に負けじと張り上げた声に、實近の腕の力が強くなる。震える背に、彼の感情を読み取って、息を吐いた。

「俺はお前と在りたい」

 告げた瞬間、火のひとひらのような泪が、ひとつぶ襟の桜を濡らした。

「出逢うまえから、僕はずぅっと、きみとこうしたかった」

 この時の二人のあべこべの口調がまるで僕たち自身も混ざりあったようで、意識が酩酊して空の青に溶ける。夏でないのに陽炎の帳がおりたように景色は揺らぎ、天が紗を垂らして僕たちを蔽った。

 来年から、實近は士官學校に入る。此れまでより僕らは離れることになる。

「僕たちが混淆しているのなら、桜花もいつか空を飛ぶのだね」

「さあなあ。お前のように士官學校へは行かぬかも知れないから」

 實近は少し困惑したように身を離して顔を見た。

「如何して。君はてっきり…」

「……母と妹が居る」

 實近の温順なおもてがくしゃりと歪んだ。「あゝ……」と諦めたような、合点のいったような声を上げて、黒みがちの目を伏せた。

「桜花が美薗地の家に入らないのも、其れが理由なのかな」

 僕は押し黙って居た。実際そうであったろう――見ように依っては、僕の立場に於いて、母と妹は枷と映るのかもしれなかった。

「御二人を帝都に呼ぶというのは如何かな。父上も兄様らも駄目とは言うまい」

 僕は曖昧に頷いた。妹の婚姻と、母の同居の考えについては、まだ實近にも詳しく話していなかった。彼は僕の半身かもしれない。ただ同時に彼は、加賀桜花とは違う、美薗地實近であるのだ。だから代わりに皮肉めかして笑って見せた。

「お前が飛ぶなら、俺は地べたに居るべきだろう」

「そういうものかなあ」

「案ずるなよ。深山からは空もよぅく見える。無論、此の高楼からもな」

「あはは。それなら、空からは地べたがよぅく見えるだろうねえ。……空は、地べたと銀河の狭間だから」

「そうか。なら何もかも見えるだろう。……皆がひとつになるというのもな」

 僕はそう云ってからハッとした。皆がひとつになるのを空から見るとき、それを見ている者はその外に居るのだ。

 實近はそのことに気づいてか気づかないでか、判然としない花のようなあまい微笑で、「見たいなあ」と云った。昔、あの七ツの夜、初めて帝都で見たかの微笑みと同じ……純朴で、然しあの頃よりもほんの少しだけ悲しみを含んだような表情だった。僕は堪らず、彼の胸元に額を摺り寄せた。懐かしい匂いと、見知らぬ気配がどこかに漂っているような、帝都の若者の肉体であった。實近はそうっと僕の体を抱きとめる。…けれど、それだけだ。それ以上には成れぬ。僕はそのことに、靄のように判然しない…しかし其れゆえに余りに膨大な不安を覚えながら、じっと己が肉体を彼に預けていた。

「實近……」

 僕の呼びかけに、實近はふっと面をあげて僕の目を見つめた。黒目には、幽かに歪んだ表情をした僕が映っていた。

「これも、今年までか」

 否と首を振ってほしかった。然し、實近はそうはしなかった。ただ黙って……黙って、叶わぬながら、魂を分け与えようとするがごとく、もう一度僕を抱きしめた。

 何かが確実に変わろうとしつつあった。其れは水の流れに似て……僕がそれに手を差しのべようとも、何も止められないということを、身の裡で理解したのだ。

 桜舞う、一八九七年の春―――日露戦争の火蓋が切られる、五年前のことだった。

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