(草紙の繰られる音がして、年の経過を報せる。心なしか、若者の姿が憂いを帯びた青年らしくなっている。…辺りは桜の幻。ふと、きな臭い鐵の匂い。)



 一八九七年の如月初めのことである。

 美薗地家は俄に慌ただしくなった。朝方、國近様が大量に喀血したのである。板の間に広がった鮮血の形を見て、赤く濡れた脣を不吉に艷めかした國近様は、女中や小間遣らの悲鳴を余所に、乾いた笑い声を幽かに洩らしてその模様に見入って居た。直ぐに医師が呼ばれたが、栄養を摂って空気の良い所で静養しろと云うばかり。療法なぞ無いのは皆知っていた。花やかな小袖の女中達がかんばせを白くして血痕を拭っていた。…僕が邸に来たときに先導した、菫の小袖の女が、はたと眼があって悲しそうな顔をした。手伝おうと言い掛けたが、「桜花様はどうぞ御休みになっていてください」とか細い声で云った。血の滲む手拭いを持って。使用人らは僕のことを實近たちと同じように美薗地の子として扱ってきた。僕は六年経ってもそれに慣れなかった。

 サロンに這入ると、智近様が實近を宥めていたが、彼は堪えきれないと云うように始終鬱ぎ込んでいた。僕はその傍らで黙って、彼等の亡き母親と、そして自分の母について考えていた。……



「癆咳ってのは、不治の病なんだね」

 國近様の喀血の明くる晩、きんきら錦の狭間、月見窓から夜空を見上げつつ、實近様が不意に云い出した。

「……ええ。コレラや麻疹ほど急に命を奪いはしませんが、十二分に死病です」

 僕は算術を解きながら応えた。明而大祥の巷で猛威を振るう流行り病と云えばコレラと麻疹だが、癆咳だって馬鹿に出来ない死人を出していた。

「國近兄様は頑なに入院したがらないのだ。せめて空気の良い田舎のサナトリウムにでもと云ってもきかない。…」

「田舎でも人は病むものだ、實近」

 僕はハッとしたが遅く、母のことを云ったと勘づいた實近が見る間に泪してふるえ始めた。

「……桜花、」

「済まない。済まない、實近。僕が悪かったよ。……」

 皆まで言わせずににざって頭を抱く、熱い額をぐいと胸に圧しつけられる。季節柄綿入れを着ていたが、ぎゅうと抱き込めば泪の染み入るのを感じた。

 あの晩以来、彼は幸福であることを恥じているように思える。僕の母は病なれども生きていて、彼の母は死んでいる。それでも泣くのだ、此の若者は。

 僕らの周りを彩る緋色の錦が吐いた血を思い起こさせる。寶尽くしが夜気に染むのはこの頃の時勢を映してか。…

 露西亜との関係は悪化の一途、巷では相変わらず流行り病や貧困で民草が苦しむがその陰を落としている帝都の繁栄という巨大な塔は益々嵩を増して聳えていく。屍に咲く花は美しいものだ。華の一族と書いて華族と云う、真白な蓮のごとく耀う栄華、其の苗床は深く湿った泥である。其の豪奢、傲岸、魔術と狂瀾の金粉まき散らすような夢の饗宴……。

 美薗地の家も無論その花花の一輪である。錦の花弁を昂然ときらめかし星の蕊を揺らす天雅……。

 國近様の一件からひと月も経たずして既に幾つもの夜会や舞踏会、園遊会が仕掛け花火のごとく次々咲き出でて、上澄みの虚飾を渡り歩く公爵も智近様も、實近も、皆疲れた顔をしていたように思えた。

 實近は特に判り易く憔悴していって、桜の莟綻ぶ春には項垂れた水仙のように清廉な面ざしを曇らせるばかりであった。それでも、十八になる彼は最早殿上人たちの宴からは逃げられぬ。

 丁度その頃、彼は日高という此方もさる華族の邸宅に招かれていた。卯月の観桜の園遊会である。日高家はこの会の為めに庭に珍しい桜ばかりを植えた苑を特別に設け、世話をする庭番も雇っていると云うのだから華族というのは相当な桁外れだが、美薗地家には異国の植物を蒐めた硝子の苑を作っているし、そもそも美薗地家には雨戸を開けるというだけの使用人が居るのである。白々と夜も明け切らぬ内から屋敷の窓を開け始め、午頃まで掛かってようやっと全てを終え、ひと休みしたら又た直ぐに閉め始める――全く以て狂気の沙汰だ。

 僕は伴待ともまち部屋に引っ込んでいる心算つもりだったが、話を聴いていると苑に居なくてはならないらしい。仕方なし、衆目を集める位なら涼傘ひがさでも差し掛けて使用人の振りをしていようと思うのだが、實近は僕を弟として扱う心算らしく傍らを離れない。厄介である。これ迄で、外出する時に實近が僕を伴っているのは、僕が彼付の使用人のようなものであるからだというのが暗黙の了解であった。實近が僕を友人のように扱っても、子供だからと何も云われなかったが、十八になってまで僕を公の場で対等に扱おうとするのは何やら意固地にすら思えた。

 實近は洋装だが、僕は相変わらず彼の設えた和装だった。今日の為めに彼が仕立てた着物は物珍しき桜唐草の半襟、黒紅の市松が裾に覗く。垂らした黒髪もあって、少し女のように見えた。小児の一時は實近に迫らんとしていた身丈も、實近が十七頃から急に若木のごとく伸びたせいで少しく差がある。

 御座敷にあがるのは烏滸がましいので外で桜でも眺めて気儘に待っていようと思ったが、實近が僕を弟と扱う以上話は極めて煩雑になる。僕は美薗地の家の者であり、同時に平民でもあるのだ。……あがって饗応に預れと云われでもしたらどう断ろうとばかり考えてしまう。只黙って坐ってっそり裏で咲く噂ばなしの肴になった方が角は立たないのかも知れなかったが。

 宴までの間、暫時しばらく桜を観て愉しむ時間が用意されている。その間に考えようとぼうっとしていて、ふと隣を見ればなんと居たはずの實近の姿が影もない。仰天して思わず辺りを見渡すが、何処にも居ない。厠かそれとも何か心惹かれるものにふらふら付いていってしまったのか。まずいと思って、僕は取り敢えず付近で實近の気の向きそうな所に向かった。――桜の森である。

 日高の桜の園は壮麗で、帝都の煉瓦の建物が皆桜木に化けてしまったように感じる。八重、枝垂れ、何でも御座れである。……篝火のように上品な喧騒から遠のくように歩を進めれば、葉も新芽の見当たらぬ木肌にほんのりと童女の笑うばかりの白やら薄紅の花びらの巻き上がる中になんだか慄然ぞっとする可怖おそろしさを感じる。このように造り物めいた幻燈の産物のごとき花吹雪に永遠に飲まれてしまうくらいなら、故郷の蒼々と緑繁るなか柘榴の花の深紅に咲き出でたほうが何倍良いか判らなかった。冴え冴えとあくまでひんやりと薄くほほえむ桜……天鵞絨のような贅沢な花びらが僕の身を包んで浚っていってしまうのだ。五官を超えた所にあるだろう其の光景は余りに圧倒的で、謂わば第六官…否、第七官とすら云える人の心の奥深くに浸み亘って終いには其の世界の悠久の美なる闇へ抛り投げてしまう。

 ふと桜の重なる奥から声が聴こえた。春風の幻聴かと思いきや、どうにも聞き覚えのある声だ。

 熱心に話して居るようだったので身を隠した。声はどうやら三人分、青年のものだ。聴いていると、何やら飛行機について話している。

「…プロペラと同調して弾丸をその隙から撃ち出すそうだよ」

「其れじゃあ武器を持ち込むのは時代遅れと云う訳か」

「仏蘭西の飛行士が始めたらしいね。他国は躍起になってその技術を研究しているそうだ」

「そりゃあそうだろう。…」

 よく似た声が交わされる。しっとりとした声が「俺は機銃など無くとも、飛べればいなあ」とのんびり云った。實近のものだった。思わず顔を出す。

「實近は何時もそうだが、唯飛ぶという目的の為めだけでは飛行機は此処まで進歩はしなかっただろうさ。戰だよ。戰が文明を加速させる。電信も汽車も自動車もそうだろう。戰が無ければこんなに急速に世界は発展しなかったろうし、更に云うのなら此の日ノ本だって今のような栄華とは無縁だった」

「でも……」

「はゝ、實近――国家の敵を討つことに何の躊躇いがある。其れに戰争となってもやはり飛行機の本分は飛ぶことさ。きみの望むようにね」

 利発そうな若者の云う、飛びながら撃てば可いことさ。と笑う軽やかな声が桜の花のようにすずしくて可怖おそろしい。

 声の主らがいるのは、桜の園を抜けた矢場の辺りである。矯められた松が画のように美しく彩る光景の中、まるで瓜二つの若者が居る。僕はほうと感嘆した、二人は影武者にでもなれそうなほどよく似ている。

 その若者二人は實近と談じていたが、僕の居る位置から少し離れた桜の群れから年嵩の紳士が現れたのを見てとるなり實近に会釈をして離れた。どうやら、彼らが饗す側の人間だということが判る。一人がちらと此方を見た気がして焦ったが、そのまま去っていった。僕は實近に駆け寄った。「實近様」

 人目があるやもしれぬので、油断なく敬語だ。僕の姿を認めるなり實近は小走りによってきた。

「桜花。済まないね、飲みものを頼もうと少し離れたら思わず話し込んでしまった」

「先刻の御二人は」

「あゝ桜花は初めてなのか。……日高の千陽ちはる千景ちかげというのだ。俺と同い年なんだ」

「良く似ていらっしゃる」

 實近は首を傾げて、そうだねと云う。

「下の千景が俺と同じく士官學校を目指しているのだ。上の千陽は航空工学を學びたいと云う」

 ほう、と低く返事をしてから「士官學校というのは、航空科でしょうか」と問うと首肯き、「俺は昔横須賀で水上機を見て好きになったのだが、彼らは横濱での展示飛行らしい」とはにかんだ。然し直ぐにその悦びを消す。

「なんだか二人とも、昔と雰囲気が変わってしまってね」

 少し悲しそうに微笑んだ。出会った頃から何も変わらぬこの若者は、時の流れが遷ろうのを憂いて居るような黒い目をしている。

 桜の森の下を足早に通り抜け、人のいる場所へ戻った。

 辺りには振袖姿の女人。……吉野山、八重桜と御所車や墨にぼかしの白桜…花筏と流水の浅葱の色が映えている。数少なくとも洋装の婦人もちらほら、開きかけの罌粟の花のような複雑な襞をたっぷり寄せて、釣り鐘草のごとくふくらがった女人の服を見つめていると、實近は頤に手を宛てて独りごちた。

「…ヴァニティ・フェアのようでもあるね」

「虚栄の市…で、御座いましょうか」

「うん。サッカレの小説だよ」

 僕は目を細めて國近様の書斎の洋書を思い返した。嘉永の頃の英國のものである。……中々に響く小説であった。心に矢を受けたような気になった。

「良い見合いの場となりましょう」

 意図を汲んだことに驚き、實近様は僕を見た。「讀んだのかい、桜花」

「是」

 首肯うなずくと、ひりっと春の澄んだ空気が震えた。風が吹いたのである。

 直ぐ隣を振袖の十三四の娘が二人連れ立って通った、實近を一瞥してぱっと雛のようなおもてを赤らめて小鳥のように去っていく。む、と思って實近を見やる。あの少女たちからすれば成程、奴は大層な美男である。控えめながら憂わしげな色香は流石に國近様との血縁を思わせて、花の残り香の艶麗あざやかさと堅い果実のごとき清廉さを持合せて居るのだ。其れに年齢も既に十八となる。…

「――實近様には、いらっしゃらないので」

「…其れは、見合いの相手がと云うことかな」

 其れ以外に何があると云いたかったが、人前では云わぬ。「たとえば、少しのお戯びでも。……」女を知っているのかと訊けるほど僕は大人でなく謹みを知ってもいた。

 大抵の金のある華族の青瓢箪は遊廓なぞで筆を下ろしている。勉学ばかりの末生りの相手をする遊女は大変だろうと思わなくもない。

「居ないよ。…」聊か拗ねたように實近はそっぽを向いた。目録のようにならぶ少女たちが浮かんだ。清く上品な生まれの花花。彼がこの頃、見合いを薦められては断っていることをよく知っていた。

「桜花は、まさか」

 ふと問うてきた實近の、幾分不安そうに、然しまさかそんなことはあるまいという慢心のような色の見える長閑な目に、悪戯心が鎌首をもたげた。國近様が實近を揶揄いたく気持ちも判ろうと云うものだ。

「……まさかと云ったら」

 にやり、と脣辺を片方吊り上げて見せた。出来心である。当時僕は十三だ、早熟た子供ならまだしも、と軽く飛ばした冗句だが、さて實近をかんばせを見ると、なんと庭園に敷きつめられた白砂より蒼白くなってはくはくと脣を動かし、

「お、桜花が、俺の、知らぬ所で……」

「實近! 僕が悪かった!」呆れながら颯と耳元で囁いて蹌踉よろめく肩を押し戻す。「冗談だ。君が…おどろくかもしれないと…そこまでとは思わなんだ」

「桜花……」實近は國近様に艶めいた黄表紙を掴まされて泣いて居た頃と変わらぬ目で僕を咎めた。僕だってそう素直に謝ってばかりでは面白くない。もう少し抵抗した。「……君は…少し感じ易過ぎるんじゃないか? 僕より五ツも上だろうに」

「桜花こそ、俺より五も下なのにそういうお悪戯けはね、良くないよ」眉尻をツと下げて「國近兄様に似てきたんじゃあないかい?」

 僕は、低く苦笑して彼から身を離す。「…然うかもしれませんね」

 實近は僕と國近様に全く血の繋がりがないことを知らないのだ。

 絵のごとき人々の姿の上を、数多だしい桜が白く染めた。錦の時が遡るようだ。金銀の刺繍、とりどりの染料、真っ白な絹。

 時代は目まぐるしく変わっていくし、立ち止まれるもの等ひとつもない。此の肉体でさえも。實近の青年の姿と心の距たりは如何程で、それは此の世の中でどれ程彼を苦しめるだろうとふと感じた。……彼はもしかして、時が進むことをずっと悲しんでいるのではないのだろうか。…様々なものを奪っていく、時を。

 眼を閉じてかぶりを振る。

 僕はもう、戻りたいとは思わない。止まれと願ったことはかつてあれど、僕は花を咲かせなければならない。

「ねえ…」

 ふと、まるで高楼に居るときのように無防備な声で實近が呼ばわる。

「桜花は、日高の園遊会にも、華司の夜会にも来たことは無いのだよね。――俺は、いつも家ではきみと居るものだから、何だか四六一緒な気がしていたのだが、然うでも…無かったのだねえ」

 あまりにも淋しそうに呟くので、「學校も有りますから」と答える声がつい慰める時のように優しくなる。それに、互いに用向きの無いときは実際四六時中と云って可いほど實近は僕に構っていたし、僕も實近の傍に居た。無論二人きりの時なのだから友人としてだが、時たまなんだか、昔の妹の手を引いてやっているような気持ちで居たのである。

 磨かれた西洋靴の爪先で所在無げに砂を踏み、實近は春風より儚く囁いた。

「俺は、独りで淋しく遊ぶ慰めだったものを、二人で楽しむ悦びを知ってしまったのだ。…」

 独りごちた實近は、不意に僕の手首に触れた。本当は握って引っ張りたいというようなぎこちない動きであった。

「桜花。きみの一日を俺に呉れないか」

 僕は声を洩らしそうになった咽喉を呼吸を止めて引き締めた。いつの間にか、實近の黒い瞳が僕を捉える悲しげな夜の色をして居る。

「今日の園遊会は大勢人が来る。智近兄様も父上も御忙しいし、何なら少しの間は日高の兄弟が庇ってくれるだろう」

 何をするつもりだと面喰らった。普段斯の様な大胆な悪さに縁の無い實近である。然し僕が戸惑っている間に彼は返事も待たずして道を戻っていく。日高の広い敷地内を通り抜ける間に、誰も僕たちに声を掛けなかったのは僥倖というほか無い。

 車止めに戻ると、運転手が正に供待ち部屋に案内されようとして居るところで、實近様が慌てて止めていた。然して、僕の方を見て無言で訴える。――行ってもいのだね。

 僕は仕方なく首肯し、實近に引っ張られるまま、自動車に乘せられた。

 行きも揺られてきたのだが、クライスラァとかいう欧州の音楽家のような名の、時代の流れが到来するときいち早く美薗地家では導入したという自家用車である。僕は此れに乘るのは初めてに近いが――實近は戸惑う運転手に耳打ちする。

「駿河、俺は國近兄様が心配で早く帰りたくなったんだ。若しそう云って父上に納得して貰えなかったら、脅されたと云えば可い」くるりと僕を見て「桜花も」と云う。その神妙な面持ちに僕は肩を竦めて頭を振った。

「……僕も共犯だと云っておくれ」運転手に云えば、實近はいや違うと抗議し出したので、袖を摘まんで黙って貰おうとしたら頬を摘ままれた。ここは負けられぬと思わず摘まみ直す。ふにふにとお互いに頬を摘まみあっている内に静かに自動車は発車していた。寡黙な駿河という運転手は代償がなくとも口を閉ざしてくれる。有難い相手だった。實近は素早く駿河の耳に行き先を吹き込むと、満足げに座席に腰を下ろした。

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