(舞台の上で、余りにおおきな……空を覆いそうな舶来の時計が、カチコチと音を立てて廻る。ヒラリ、鳥のような影がその上を過る。――何処からか、飛行機の羽音。)



 此のようにして、最初の幾年が過ぎた。公爵と智近様は御忙しくて滅多に邸でお見掛けしなかった、けれど目は何処かで光っている気がして僕は決して気を抜けなかった。故郷に手紙を何十通も書き送った。郵便配達をする子供とも挨拶を交わすようになった。内気で痩せた子だが、物腰が柔らかく気立てが良い。僕は時たま彼と門扉の外で親しく会話したが、その時ばかりは元の人称である俺がつい口をついて出た。彼が妹が居ると云ったのでより親しく思え、「俺もだ」と返したのである。直ぐに訂正したことを寧ろ彼は不思議がっているようにも見えた。

「自家薬籠中の物というわけにはいかぬものだな」

 特に出自を明かしたわけではなかったが、自然向うも僕の立場に気づいていたようでもある。俯向うつむいて言葉を撰びながら、訥々喋った。

「其れほど、気になさらなくともいのではないでしょうか」

「ほう、其れはまた如何どうして」

「これは巷で云われることですが、」小造の顔を傾けた拍子、ちらりと眼が見えた。

「高貴なかたが、あえてくだけた容子ようすをお見せになるほうが、恰好が附くものだと――」

 少年の簾のごとき髪の隙から見ゆる瞳に、――僕は低く笑った。加賀桜花は、高貴なものではない。藪から刹那、獣の瞳が爛々燃ゆるがごとく閃くように見え隠れする、わが深山の血。ふと、故郷の青空が恋しくなった。

 其の出自ゆえにやはり、帝都の學舎で、僕は異端児であった。深山の気配と美薗地の血の奇妙な混淆、庶子と云う立場が、僕の本質を錦のように彩り覆い隠すのである。しかし、僕は臆さなかった。みやこにきてから背も髪も、雨後の筍のごとく伸びて、その身丈を實近様の誂えるきらびやかな和装に包んで、陰口を背に聴きつつも傲然と胸を張り、帝都を歩き続けた。

 しかし、實近様が僕に鎧おわせた大胆な蛇の目や色紙重ねはモダンなものばかりで、必要以上に目立っていることは否めなかった。衣桁に新しいものが掛けられているたび、實近様はよくもこんな柄をと思うが、着てみると此の異端児に存外馴染む。子供の手足は直ぐに伸びてつんつるてんになるが、其れにも追っつかない程の着道楽。もっとも、着せ換えては悦ぶのは僕でなく實近様なのだが。

 こんな風に、實近様は、おなごのように美しいものが好きであった。着物も日々の品も何もかも、その嗜好は文章に於いても同じくして、女学校の嬢たちが讀むような詩情に満ち満ちたものをく好んだ。金瓶梅なぞ讀んで頰を紅らめる様はまるきり箱入りで、時おりふと意地の悪いことを云ってみたくなる程だ。國近様が異国語の習いだと云って、マルキ・ド・サドを貸した時の狂乱ぶりは美薗地家の語り草になるであろうし、さしもの國近様ですら若干反省したようである。仏蘭西語の判らぬ僕は蚊帳の外であったが、三日三晩ほど實近様に國近様への楯にされた。

 …そんな僕であるが、やはり読書とは心疼くものがある。年相応に少しずつ与えられる月の小遣いで、僕も多少は何かうようになった。

 ある日學校から戻れば、着換えもせぬまま實近様が障子に凭れて泣いて居る。今年で、武家であれば元服の齢だと云うのにまったくよく泣く男である。夏の盛だったもので、僕は着換えた銀ねずの単衣の裾を絡げて――本来僕の立場で、實近様の前でこのようなことをしては不可いけないのだろうが、あまり取り澄ますと余計に泣かれるのである――金魚の座蒲団を用意してやりつつ、自分の手習の為めの座敷机を出した。

「聴いておくれ、桜花」

「…何で御座いましょうか」

「某という作家のだね、新しい詩が載るのだよ。日本國文學という雑誌に――」

「いつものように、公爵様や智近様にお頼み申し上げれば良いじゃありませんか」

「父上も智近兄様も、大衆小説雑誌など駄目だと…」

 可愛かわゆい末っ子の我儘にはとことん甘いお二人には珍しいことである。それだけに余程残念なようで、實近様はかたみに袖を絞りつつ、代わりにと与えられたらしき漢詩の書に泪の染みを作っている。

「國近兄様などはなから頼れまい…っとた、表を取り換えて騙した厭らしい本を貸し付けたりするに違いないよ」

「まあそうで御座いましょうね」

 僕は荘子を繰りつつ返す。手習のための厚紙の筆入れを机上に置いた途端、ワッと畳に實近様は泣き臥してしまった。

「そんなに某という作家の御本が欲しいので」

「うん、うん。……ねえ、俺は喋り方がそんなに堅ッ苦しいのは厭だと云ったろう、桜花…」

「…そう泣かずとも」

 だって桜花は何時まで経ってもまるで使用人のような口を利くのだものと書見台に額を擦り付けて子どものように洟を啜り始めたその後ろ頭を蹴ッ飛ばしてやろうかとも思ったが、溜め息一つを代わりにして取り辞めた。

 僕は座蒲団の下から一冊の雑誌を取り出した。

「…公爵様にお云い附けになっては可厭いやですよ」

 故意わざと素っ気なく喋り終るより先に、日本國文學と題された雑誌ごと抱きすくめられた。猫の仔のようにすりすりと頭を擦りつけられて鬱陶しいので引き剥がせば、背からぎゅうっと抱き締めなおされた。

「桜花、桜花――魔法かい?」

「そのような奇天烈なものでは。……気になったまで」お前がそんなに熱を上げるものだから、とは云わなかった。誰しも他人が余りに熱狂するものは気になるだろう。

「でも父上や智近兄様に知れたら、……」

「云わなければ、可良よろしいのでは」 

 僕がそう云うと、實近様はキョトンとした顔をした。どうやらそのような考えが頭からすっぽ抜けていたらしい。人を欺くことなど十の僕でも知っていた、ため息の出るような素直さだ。

「……――さあさ、誰も来ぬうちに讀みなすってください。…僕は此処に居りますから、」

「桜花は本は読まないの」

「…今こうして読んでおりますが」

「あゝそうではなくて、…ほら冒険活劇だとかそう云う、…」

 僕は手の荘子に目を落とす、…そういえば、彼の前では漢籍の類いやら手習の本ばかり開いていて、娯楽をしたことはない。…実を云うと読まぬわけでもないのだが、其れは夜更けに蒲団の中でが最も多かった。蛍雪の功と云うが、此れでは何やら学問の神から罰が当たりそうである。――其れでもやはり、日や蝋燭の燈で愉しむことは後ろめたいような気がした。

 そんなら是れを貸そうとて、實近様はいそいそと八犬伝を持ってきたが、生憎あいにく読破済である。――とは云えず、僕は仕方なしに受け取った。

 實近様は、僕には書見台を貸して、自分は部屋の隅っこに膝かかえの姿勢になって熱心に雑誌を読み耽り始めた。誠に暑そうな姿勢であるので、水団扇であおいでやるとはあと心地よさそうに息をついて読むのを止めてしまう為めに僕は度々扇ぐ手を止めた。 焦らされたように身じろぐと、又た読み始める。――半刻ほどそうしていたろうか、ようやっと雑誌を閉じた頃には、日が傾いて居た。僕は途中で形ばかり開いていた八犬伝を閉じていたが、彼は気づかぬようで、紅梅のふるえるような甘ったるい脣でほうと、息を吐いた。

「なんて――なんて浪漫的なんだろう。此の作家も、帝都に居るのだねえ。――逢えたらどんなにいいだろう!」

 雑誌に頬擦りしながら呟く。僕はそれを見ているうちに、なんとなく幼い、意地の悪い気持ちになった。

「何事も夢みるうちが花なのです。きらびやかな獅子舞も近くで見れば被り物に母衣ほろでしょう。張りぼてです。…何事も秘するが良し」

 水団扇をしまいながらツンとそう云ってのけると、悪童に揶揄われた少女のような面差しの目許を朱に染めて、少ぅし悲しそうに、實近様は僕の肩に手を置いた。

「――其れは桜花の心なの?」

「……どう云う、」

「帝都が、張りぼてのみやこだと云いたいのかと思って」

 どきりとした。帝都は本当に美しい夢のみやこだ。煉瓦造も瓦斯燈ガスとうも張りぼてではない。幻燈仕掛のごとき魔術的街並みは、けれどもすべて本物なのである。――然し、実際にそこに暮らした日々の抑圧が、僕に捻くれたことを云わせたのは否定できない。

 それにしても勘の妙に鋭い人である。僕は畳に坐し直して、指をついた。

「……いいえ、いいえ、實近様。

 桜花は此処へ来られて本当によかったと思って居ります」

 僕は目を閉じて平伏した。淡々と努めて云えば、空気が震えるのがわかった。――美薗地實近が動揺したのである。

「……そのような言葉遣いでいて、本意であるものか」

 僕は息を吸い込んだ。顔をあげて叫びたかった、けれどぐっと衝動を圧し殺した。

「理解ってください、實近様。

 己れとて貴男を遠ざけたいわけではない。親しく言葉を交わしたいが貴男だけだとお思いか。

 生まれが違うのです。障子の目が赦しません」

「桜花は!」大音声が稲妻のごとく撃った。

「桜花は、己れが美薗地の児ではないと云うのかい。……」

 僕は黙って青々とした畳を見つめて、初めて帝都に来た夜のようにその草の香に感覚を委ねていた。鼻孔から目の奥にツンと痛みすら感じるほどの豊饒が沁みた。

「……はい

 俺は、加賀桜花です。

 深山の血が流るる、平民の子です」

 僕はいっそ誇りすら持ってそう云い放った。そう云うしかなかった――それが、今の己れに持てる、母と妹、そして美薗地實近への敬意だと思ったから。

 實近様は少しの間俯向いていたが、颯と立ち上がり、顔を袖で乱雑に拭って座敷を出ていった。ピシャリと障子の閉められた音が拍子木のように響いた。

 僕は端坐して、長くそのままでいた。…傾いた日が椿と橙を濃くする迄で。緑の畳を、故郷の庵の茅めいた色に錯覚出来る迄で。

「小さいのに中々の口を利くじゃあないか」

 不意の嗄れ声に、ハッと振り返れば、細く開いた障子の隙間から、蒼白い痩身と粋な業平菱の紺の着流し。切れ長の目が此方を針のように刺す。

「……國近様」

 舶来の煙管を掲げた國近様は、くつくつと喉奥で忍び笑った。紙のごときかんばせの色だが、酷く美しい。ぞろりとその手が僕を手招いた、乾いた貝殻のような爪が夕陽を受けて幽かに燃ゆる。

「おいで、加賀桜花。

 少しお前と話してみたいのさ」

 翁のごとくに低い声は、忍び寄る夕霧に似ている。……手足にひたひた絡み付きすうっと冷やしていく夜露の気配に僕はぼうっとなり、首肯くのも、自然ゆっくりになった。

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