参
(薄闇の舞台上、ふと万華鏡を廻したがごとく、花吹雪や紅葉、蝶やらの綾錦の幻影があたりに浮かび、きららかに舞い散る向うに、春の朧月。
若者、その光景に気もそぞろ。花や月を見せるように匣を掲げる。夢をみているような眼差しのまま、囁く。)
その夜のことは記憶に新しく、今も
弟が欲しかったのだと云いつつ、實近様は僕の手を引いて座敷を出た。廊下を少し歩くと、夜半の黒々と光る板敷きの渡り廊下の向うに、妙な建物が見えた。ひどく丈の高い、和洋折衷の建築である。この奇なる高楼は、華々しく美々しく不可解な、あやかしの天守閣のようであった。
手を引かれるままに廊下を渡り終えると、實近様はその建物の入口らしい、金銀の蝶が舞う襖を開けて、中に這入った。
洋館に寄り添うように建てられた高楼は、まるで京の都の寺社仏閣の塔のように細く、高く上へのびていた。手を引かれるまま突き当たりの階段を昇り始めれば、まるで百段階段である。終わらぬ階段の脇に並ぶ襖の絵が、暗がりにきらきら光っていた。
あすこは人形の部屋、こっちは戰道具の部屋、と
「此の高楼は、お祖父様が道楽で建てさせたのだ、全部の部屋になにがしか美しいものが在るよ」
駈けるうち、僕はまるで極楽を巡っているがごとき様相にすっかり魅入られてしまい、酩酊した風に足も軽くなった。やがて上階にたどり着き、實近様はとある襖の前で足を止める。
「此処が俺の部屋だ」
白茶地に、絢爛な四季の野が描かれた襖を開け放つと、眼に飛び込むは花鳥風月の金襴緞子、紅の羅紗に
その耀きにあてられ、唖になった僕の
洪水のごとき錦の合間を渡り、花鶏や孔雀の飛ぶ襖を開けると、続きの間には、錦の代わりに塗りの棚やら机やらが置かれていた。
前室の絢爛からは意外なことに、それらの上には、なんと、飛行機の模型がズラリと在った。ろくに飛行機など視たこともないはずの僕にも判るほど、これが極めて精巧なのである。当時、音に聞くだけの空飛ぶ鉄の塊なぞ、狐狸の化かしの類いと変わらぬ印象を持っていた僕は、まるで自分が神仏の中にはいって下界を見おろすような妙な心持ちにさせられた。
實近様は僕の表情をうかがい、驚きに声を失う僕に
「アンリ・ファルマン複葉機だよ」
嬉しげに實近様は呟いた。僕は彼が云いながら指差したものを見遣る。文明の象徴として書き物や新聞にも登場する西洋の技術の粋らしく、小さい模型であっても、それはぴかぴかと輝いていた。
「三蔆の財閥が新しく西洋から技師を呼んで、飛行機を開発しようとしているらしくてね」
彼は、列んだ水上機の模型を見せてはそれは嬉しげに
僕も、彼と同じくらい熱心に見入った。それに気づいた實近様は、それは嬉しそうに紅顔を耀かした。僕が見ていた模型の下にはどうやら動力の仕組みを解説した洋紙が敷いてあったが異国語で、何がなんだかわからず「此れはどうやって飛ぶの? …あ、いや、飛ぶんですか?」と慣れぬ丁寧な物言いで尋ねた。
「それはオットーエンジンと云う奴でね、電氣の火花でペトロォルの
それは未知との出逢いであった、どれほどそれらが僕を魅了したことだろう――そして、それらを僕に初めて見せた美薗地實近も。
暫く話した頃、不意に彼は、僕の方を見てこう切り出した。
「ねえ、桜花。父上はきみの部屋を離れに置こうとして居らっしゃるようだけど、きみが
あすこは風が通るし、庭の池が良く見える、と熱心に薦めるもので、僕は寧ろ戸惑ってしまった。何故彼がここまで僕に構おうとするのか、判らなくなったからである。痩せこけた棒っ切れのような手足と、野茨がごとき蓬髪、美しかった母に幾分か似ているとは云え、その時の僕は贔屓目に見ても長所を見付け難い、田舎の子供の筈だった。
彼は月見窓から外を見た。
「離れは國近
其処まで云うと、實近様は撃たれたような顔をして黙った。國近兄様とは美薗地家の次男であるが、噂によると、如何にも一筋縄でいかない偏屈家だということである。
けれども何だかその容子が余りに不憫に、寂しそうに思われて――貧しく賤しい生れの僕などよりずっと――
實近様は、此方にそっと身を寄せた。春の夕には未だ寒かろう薄手の着物から蒼白い鎖骨が覗き、少女のごとき紅き脣で不意に、心細げに囁いた。
「僕たち、うまくやっていこうねえ」
彼の人称におや、と思う間もなく、風が吹き、物やわらかな春の月が雲間からのぞいた。その美しさに一瞬言葉奪われたとき高楼の下より何者かが僕たちを呼ぶ声がした。暖かい肉体が離れ、はぁいと返事をして二人して桃源郷より降り行く。實近様が僕の手を握って、きんきら錦の部屋から連れ出した。奈落に落っこちるような階段に、和紙を透かして洩れくる星燈りが少しずつ増えていく薄闇のなか、手を繋がれ、飛ぶように駈けた感覚は、生涯忘れまい。
實近様の提案通り、僕の部屋はあの高楼の一階の書見の部屋と定められた。睡る前に、天と見紛う階上のほうから實近様が手を振ってお休みと云ったのを聴きながら、僕は、公爵が實近様と加賀桜花の間に求めるものについて考えていた。
翌朝、畠仕事のならいでつい早くから眼が覚めてしまったのだが、驚いたことに蒲団の脇に大きな猫が潜り込んでいた。否、実際には猫などでなく歴とした人間、それも美薗地實近その人であったのだが、まるきり猫のように身を丸めてすうすうと寝息をたてていた。昨晩、少ない荷物を運び込んだ書見の部屋というのは殺風景な和室で、床机や書見台の置かれた庭に面した角の部屋である。夜半のうちに百段階段を下ってこの部屋まで降りてきたらしい。
化かされたような気分で、僕の寝巻きの裾を摘まんでいる彼を遠慮がちに揺り起こすと、不明瞭に何事か呟いて、向うも眼を覚ました。「お早う」などと呑気に宣うのを性急に蒲団から追い出し、自分も出でて、華族の坊っちゃんがこんなことをするものではないということを滔々と喋った。北の田舎より上京したての七ツの子どもが帝都育ちの十二の華族の息子に説教をしたのである。しかし實近様も、山吹の掛け布団をぎゅうと抱きしめて反駁を試みた。
「きみが来る迄、ずぅっとこの高楼で独りぼっちだったんだもの…」
不覚にも僕はその言葉に咄嗟に返せず、黙りこくってしまった。苫を吹き抜ける風に堪えるような庵の暮らしであっても、僕は独りきりで寝たことなど無かったからだ。
その後、起こしに来た女中に連れられて洋館たる母屋の方へ向かう際、
高い処から怜悧な美貌の切れ長の目がツと僕を見下ろし、若いのに嗄れたような声で「お前が加賀の桜花かい」と訊ねた。僕は首肯いた。
一目で然うと判る蒼白い病身に、粋な黒地に海老茶の縞を着た國近様は、ニヤリと笑ってもう一度僕に一瞥を呉れた。
「
そう投げたっきり、彼はフイと背を向けて、離れの方へ歩いていってしまった。
僕が立ち尽くしていると、贈り物という言葉に僕が機嫌を損ねたのではと實近様は
「國近兄様は、昨夜検診だったものだから機嫌が悪いんだ。常はあんなお人ではないんだよ」と続けた。
僕は思い付く所があって、實近様に尋ねた。
「……實近様はいつ十二になられたのですか」
一週間前に、と云い難そうに彼は応えた。
つまりは、僕は十二の歳になる美薗地實近への贈り物のひとつだった訳だ。
溜め息が出た。帝都で暮らせて小學校に通わせて貰えるだけでも限り無く有難いと云わざるを得ないがそれでも、物扱いとは!
全ては、母の悲願たる花を咲かす為めである。
その更に翌日、皇居で任務に就かれて居たという、長男の智近様がお帰りになられて、サロンで欧風の茶会をした。
そうこうしている内に、軍靴の音が近附いてきた。ややあってサロンの扉が開き、背の高い美丈夫が姿を表した。智近様だろう。僕は立ち上がる、今度は實近様も立ち上がって礼をしたので止められなかった。國近様はぐったり長椅子に腰掛けたままだった。
絨毯への平伏を禁じられた僕が、頭を下げようとすると、前髪を西洋風に撫で付けてぴかぴかの蒲公英のような勲章のついた軍服を着た智近様は手を振って止めた。
「桜花君か、つまりきみ、父の…あれだろう。
その時、極自然に、僕は彼等の下の存在であり、それに対し慈悲を掛けることは美薗地の家にとって当然の道理、帝都に生きる高貴なる者の義務なのであるということを
此の目に見えぬ取引にも気付かぬ風情で、ふと實近様が声をあげた。
「兄様兄様、この茶碗をも一ツ欲しい」
實近様はふっくらした手で持っている水色をした陶器の碗を指し、智近様の袖を引いた。
「英国のミントンと云うやつ。…
潤んだ目でちらりと見上げると、智近様はさも嬉しそうに軍服の真白な手袋をした掌を實近様の頭において明日にも手配しようと肯いた。實近様は欣然と微笑みながら、ちらりと僕の方を見た。
…此の一幕でも判るのだが、實近様は、一見して純朴そうでいて存外甘えるのが巧く、普段は皆の後ろに控えて微笑んでいたが、父たる公爵や智近様にそれは上手にねだって欲しいものは手に入れた。それは生来の才であるようで、本人にもその自覚はなく、彼の魔法にかかった父兄らの面前で幸福そうに微笑んで、舶来の白磁の紅茶碗やら、流水の透き模様がはいったぎやまんの飾りなぞを大層だいじがった。その仕草が又た庇護欲求を刺激するとみて、口では大和男児がどうのと云う公爵も智近様も、
「父上も智近兄様も、御忙しくて俺を十分に構ってやれぬからと俺の欲しいものをくれるのだ。…つまり、与えると云うことは、相手を好もしく思っていることを伝える手段の一環なのだと俺は思っていたのに…」施しだと思われていたなど、と僕の単衣の膝元をぐずぐずに濡らして
「實近が
そう聴いた途端、白雨に打たれていた花の綻ぶようににっこりしたそのかんばせ!――いやはや、あれには敵うまい。
その後も實近様は上手なおねだりで、自分の欲しいものと僕に与えたいものを巧みに獲ていった。
そんな實近様のおねだりがなかなか通じないのは、次兄の國近様のみであった。實近様があの黒い瞳を潤ませて、兄様の御本が見たいなどと云っても、脣辺を皮肉げに持ち上げて嗤い、坊やは此れでも読んでいなと多少気の利いた黄表紙なぞを渡す。或いは時たま素直に望みのものを貸してくれたと思えば、表紙を巧みに偽った発禁ものの本であったりして、
國近兄様が、國近兄様がと、實近様自身の誂えた上等な着物を泣き濡らすのを僕はため息をついてよしよしと慰めてやりながら、部屋の濡れ縁の向こうに見える離れを見つめたものだった。──何故俺が、貴方の代わりに兄の真似事をしなくてはならないのか?
しかし当人は悠々たる構えで、会うたびに粋な召し物を
「國近兄様は
ある日、春秋錦の溢るるような御室で、實近様はぷりぷりと腕を組んだ。
「匂いが佳いものを吸うから判るのに」
判っても
「ねえ桜花、どうしたら良いだろうねえ」
「そうですね」
「智近兄様も見つける度取り上げるのだけど、女中に買いに行かせてるようで埒があかなくて」
「そうですね」
「ねえ桜花、聴いているの」
「聴いて居りますよ」
「如何してそんなに余所余所しい話し方をするのってば」
「………、此の家におかせて頂く為めですよ實近様」
「如何して、そんなことせずとも父上も兄様もきみを除けたりはしないよ」
お人好しめ、と心中毒づき、深山の獣が顔を出す。けれども此方を真っ直ぐに視てきた美薗地實近の昏黒の瞳にどきりと魂を吸われた気になり、黙然とした。
不意に彼は飛行機の模型に手を伸ばし、一ツそぅっと掴むと颯と空を飛ばせた。
「――俺は待つよ、桜花が仲好しに口を利いてくれる迄で」
玩具の翼が、窓からの燦光を受けて、銀色に輝いた。
僕はただ黙って、彼の言葉を聴いていた。
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