(舞台の上が俄然にわかに慌ただしくなり、往来や人の呼び声が響き始め、やがて汽笛が一ツ空を裂く。…若者、空をみあげ、大切そうに匣を撫でる。)


 僕は生まれて初めて汽車に乗った。黒黒と巨きな化物めく鐵道の吐く煙りはおそろしく、吹雪のごとく降り注ぐ桜の白い嵐が、煤と一緒に窓を叩いて、故郷の深山の風を思い起こさせた。

 上野の停車駅ステーションまでは長いこと掛かった。同じ車輛に乗り併せた女性が腰が痛いだの云っていたが、坐席に布が張ってあるというだけで僕は驚いたものだった。

 上野の停車駅からは何やら鐵道と同じ位、見馴れぬ種々いろいろの文明的乘物が、まるで戰のように気焔をあげて居た。到着したのは既に夕暮時で、濁流めき押し寄せる跫音あしおとと、人の群れの匂いに、思わず一歩下がれば誰かにつかる。振り返れば羽織に雪駄姿の男が中折れ帽を被っている珍妙な恰好をしていて、異国に来てしまったのかとことばを失った。

 馬車に乘れ、と母に渡された手紙を握り、辺りを見渡せば、老馬なれども頑健そうな二頭立の馬車が目についた。恐る恐る近寄って「美薗地公爵の屋敷で、頼めるだろうか」と壮年の馭者に訊けば、おどろいたように男は僕の貧しい身形みなりと顔を見た。

 八人乗りの馬車がガタゴト揺れながら路面を駈けていく、窓からちらりと外を見遣れば城のように築上きずきあげた、煉瓦造がづらりと並んで、黒い煙突が幾つも幾つも、刻一刻と迫る夜に昇らんとする星を呑もうとして居る。天を衝く槍のような瓦斯燈ガスとうが、植えられたように等しい間隔で行き過ぎていくのを数えているうちに判らなくなってしまった。そら恐ろしくなるほど真四角な石畳の足下に土など見えず、僕は汚れた下駄の爪先を擦り合わせた。

 そのまま暫く往けば、田舎の茗荷の葉垣などと較ぶるべくもない、丈高き塀が続くようになった。やがて現れたるは、冬に枯れた黒い蔓がそのまま鐵に転じたごとき門。なにかを封ずる禁厭まじないのように重たく聳えて居る、その向うには夢のような煉瓦の建物が、西陽の最期の一滴を背に、どおんと世界を覆っていた。門の前には武官のごとき洋装の若い男が独り立っていて、僕の姿を認めた途端に何も云わず門を開いた。

 草臥くたびれたように長い、黒光りする自動車が横たわる庭は、見知らぬ樹や花が幾何学的に配置されて居た。見たこともない透明な建物が庭の南の一角にあって、その前には白い水仙の数多咲きたる池が、ひやりと水を湛えていた。此処は浄土かと見紛うほど、夕闇でも白い花だった。

 案内されて、飛石をいけば、小間遣らしき女が玄関先に立っていて、溪流で磨かれた岩のように黒光りする扉をぐうっと押し開けた。その時、不意にごうっと、麝香や春の嵐めいた甘く馨る風が邸のうちから吹き抜けた。ふらりと蹌踉よろめいた爪先から色が染め替えられたように感じた。

 これが、美薗地の邸!

 母が、僕と妹を孕んだ処!

 僕は半ば、狐狸に魅いられた旅人のように、ふらつきながら扉をくぐった。

 しかし、下駄を何処で脱げばいのかすら、皆目見当もつかず、彩砂を固めた表面に小花を彫琢した壁を見渡して、凍った水面のような板の廊下をただ見ていると、這入はいれという風に小間遣に促された。

 恐る恐る下駄のまま足を踏み入れると、カランと音が鳴り身が竦む。案内されるがま附いて歩行あるけば、室内だと云うのに幾度か角を曲がったりして広い廊下を通り、やがてひとつの部屋の前に行き着いた。お這入りくださいと云われて扉を開けられた。

 長椅子や暖炉のあるその洋間には、七八人ばかりが居た。殆どは女である。容目よろしく、小袖の色も藤、菖蒲、薄紅梅…花やかに七人ばかり壁際に並んで居る娘たちが、どうやら皆女中であると気附いて、僕は仰天した。召使ですらこんなに綺麗な着物を着るのかという驚きである。母もここに並んで白百合のごとく項垂れて居たのだろうか、と考える内に、窓際に立っていた男がゆっくりと振り返った。

 僕は、正面からろくに洋装を見たことが無かったので、その威風堂々たる様にすっかり驚いた、袴に帽子や洋傘、洋杖など珍妙な取り合わせはそこになく、一部の隙もない確固たる紳士がそこにおわしたのだ。髭の整えられた初老のその男こそが、美薗地明近公爵であり、──我が父であった。

 僕は深緋の絨毯の敷詰められた床に正座をして、深々頭を下げた。

「加賀桜花で御座います」

 顔をあげて、立ち上がりなさいと公爵は云った、私の息子なのだからと。その深い声に従い、僕は霞がかったような奇妙な思いと共に身を起こして向き合う。まじまじと、面前の男をつめてみたが、驚きと緊張で頭が凍ってしまい、特に何の感慨も起こらない。そもそも、父というものがどんなか判らぬ、この男が母を孕ませたのだと思えばこそ、何ぞ情らしきものは浮かんで来なかった。僕はただ、獣のようにそこに立っていた。

 母はけして美薗地の怨言うらみごとも云うことなしに、想い出なども当然聴きもしない。…明近氏に対しても、おそらく子供たちのことをつまびらかに伝えることはなかったのだろう。っと彼は、僕たちがあれほど貧しい暮らしをしているとも知らないのではないだろうか。母は黙って、きんきらの都の金子を隠して居たのだから。

 絵のように髭を蓄えて髪を撫でつけた彼は少し自己紹介をした。行き違いになり、迎えを遣れなくて済まないとも謝られた。聴けば聴くほどに、低く穏やかな声をして居た。女中に手を附けたことがあるなど、想像もつかないほどに。

「御母上は」

「冬場の寒さが堪えまして少しく弱りましたが、…さいわい春も近附いたとみえて、じきに恢復するでしょう、と」

「うん。…妹はどうしたのかね」

「……都は怖い、と」

 美薗地公爵はふぅんと顎を指で擦って、も一度僕を爪先から頭の天辺まで見た。紺絣の木綿の衣に裸足と下駄。笑わば笑え、哀れがるなら好きなだけすればい、と僕は胸を聳やかした。獣らしく、気高くあろうと僕は努めた。帝都の煌らめくさまを目の当たりにして、心も卑しいままで朽ち果てたくなかった。

「學校へは君が行きたいと云った時に直ぐに遣ろう。字は読めるかね」

「……仮名をすべてと、幾許かの漢字が読めます」

 ほうと感心した風に云うと公爵は髭を擦った。「ではもう直ぐにでも行きたいかね」

 僕は首肯うなずいた。それが母の悲願だと知っていたからである。

「僕は學びたいのです」

 絞出すような声に公爵は低く唸った。判った、という風に彼は手をあげた。そしてから僕の話し言葉がきちんとしていると云って褒めた。僕は、内心それに安堵した。

 実のところ、まだ何のしがらみもなく深山を駈けずり回っていた頃、僕はおのれを俺と呼び、故郷の訛りで恥ずかしげもなく話していた。このきんきら錦の、夢の都でそんなことは許されるまいと僕は自分を押し殺した。

 ……だが、この身の内には未だ、俺という深山の獣が巣食い、こうして時が経った今も、ふとした時に鎌首をもたげるのである。

 美薗地公爵は暫く僕のことを観つめていたが、やがて壁際の女中の一人、蘇芳の着物をきたのに声を掛けた。

實近さねちかを座敷に呼びなさい」

 女中はハイと返事をして、蘇芳の袂を翻して去っていく。公爵はその隣の菫の着物の女中に「附いて来なさい」と云い置き、僕の抱えた僅かな荷を女中に持たせた。僕は行処の無くなった腕をぶらぶらとさせつつ跡を追ったが、如何どうにも、跫音の違うのが響いてしまって居心地の悪かった。……不安で俯向いていたら、女中が小さく、大丈夫ですよと云った。存外若いその声に、僕がハッと彼女のかんばせを見ると、まるで少女のごとき…下手をすれば僕と…ことと同じくらいの少女のようにも思われるほどだった。無論、うして奉公しているのだからもう少し歳上には違いないのだが――僕は何とも言えなかった。

「家には三人息子が居るんだが、偶々上の二人が所用で居なくてね。…三男の實近を紹介しよう」

 僕は口の中で、さねちかという音を転がした。冷やりとした真珠を舐めたような甘味が残った。

 公爵が云ったように、美薗地家には三人の男子がいた。帝に仕える特務機関にお勤めになる、金櫻きんざくら智近ともちか様、才人であるが体が弱いという國近くにちか様、そして實近様だった。

 出立の前に母から少しだけ話は聴いていたが、実際に会うとなると緊張も一入である。中庭に面した廊下を渡り、下駄を脱ぎ、牡丹に蝶花の舞う麗しい襖の前で立ち止まらされた。

 ややあって引き開けられた向うに、ひとりの男子が坐して居るのを見て、僕は震える息を吐いた。

 智近様は既に結婚していたが、國近様はまだ青年であり、實近様に至っては幼子の俤を色濃くのこしたあどけない少年、しかし、この時座敷で向かい合った實近様は、暗夜のように黒い髪をした美丈夫の気配を、既に根底に漂わしていた。僕はその佇まいを目の当たりにして、少しぼうっとしかけたが直ぐに我に帰って、額をついた指の上に下げた。

 公爵は二、三僕についてを實近様に説明して座敷を去った。こんなものかと拍子抜けしたがしかし、實近様は未だ其処に坐して居る。紺の着物の膝元と揃えられた指先が僅かに見えた。

 僕はおもてをあげていいものか判らず、ただ伏して畳の青い匂いをかいでじっとしていた。畳とは青いものなのだと、都へきて初めて知った。帝都の粗末な夜店の蓙にも劣る、故郷の畳を思い返していると、小さな手がほとんと肩に置かれた。

「顔をあげなよ」

 すずしい声をしていた。僕は命じられた通り面を上げて、間近にあった彼のかんばせをまじまじと見つめた。

 こうして近くで見ると實近様は白くふっくりとしたまだ幼い輪郭の少年であった。眦の深い美しい目をしていて、莞爾にこりとわらうさまは品の良い女雛に似ていた。母の豆雛を思いだし、ツキンと胸が痛んだ。母とことは、如何しているだろうか。今も、寒いあのきたの国で。

 その夜の實近様は、上等な末濃の藍の単衣を着ていなさって、佳い薫りを焚きしめたその袂を優な仕草で持ち上げて、僕の頭を撫ぜた。黒味がちの目を潤ませてころころと笑い、かあいいねぇと前髪をそうっと梳かれた。年を問われて七だと応えると、俺は十二だと云って又たころころと笑った。帝都の華族の若君もなどと云うのだなあ、と僕は思ったが、それは良い血の持ち主たちが気取ったり、悪ぶって云うからこそなのであり、僕のような田舎の猿の云う俺とは天と地よりも大きな開きがあ るのだろうなとも思った。肌の真珠っぽいほのかな黄色と薄桃が交じりて艶めくさくらんぼの脣が「おれ」と動くのはなんだか奇妙に快い、夜風にあたるような心持ちがした。どことない不均衡が人を美しく魅せることは田舎育ちでもよぅく解る。満開よりも、沢に散込む白桃のほうが、盂蘭盆の曠野で燃やされ、崩れかかった柘榴切燈籠のほうが、完璧なものより、ずっと好ましい……。

 公爵が去った襖の方を見て、實近様は微かに眉尻を下げて笑った。

「父様ったら、お気を遣いなすったんだ、大人が居ると子ども同士話しにくかろうって」

 そういうものかと多少鼻白んだ。し僕が何ぞの刺客であったならばどうする心算なのか気になったが、っと監視かなにかを附けて居るに相違ない。油断無く彼の発言を待った。

「聴いたとは思うけれど、俺は美薗地の實近と云う。實近で心構かまわないよ」

 僕はかぶりを振るしかなかった。實近様、と呼び掛けると、彼の眉は八の字になって、下脣が少し噛まれて白くなった。「如何してそんな風に呼ぶの」

 僕は今一度こうべを垂れ、自分が妾腹の子である故に、この屋敷で美薗地家の者と対等な口を利く資格はない旨を、下手なことばで告げた。實近様は増す増す悲しそうにして、母が違うからどうだと云うのだと喰い下がったが、此ればかりはどうしようもないと僕は思っていた。

 彼の指先が又たそっと前髪を梳く、…俺はきみと友だちになれたら良いと思っているのに、と、僕の目を見て云ったその表情が目に灼きついた。

 ……僕も、本当は彼の云う通りにしてみたかった。悪い意味でなく、唯彼を名で呼ぶことの出来る知己ともだちになりたかった。そうなりたいと思えるものが彼には在って、斯うして話しているときも、本当に心底から彼を敬して遠ざけ、素っ気無く實近様と呼ばわっているわけではなかった。

 …しかし、僕たちの関係は……後の話になるのだが、結局主従とも貴賤とも無縁のものになった。仰々しい爵位や飾りなぞ、本当は要らなかった。……そのことを、あの夜から互いに、ほんとうは知っていたのだ。

 美薗地實近。

 あの晩の彼の黒く潤んだ目を今も覚えている。天地に満ちる闇と銀河、夜空を嵌め込んだような二つの眼差し。―――……

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