櫻花綺譚
しおり
壹
時 現代(明而大祥三十八年)
場所 帝都の何処とも知れぬ桜の下
さくらの花の、わけても白く咲満ちたるなか、灰桜の羅をかむった若者が、獨り―――
(若者、ゆっくりとかんばせを上げ、脣をひらく。その拍子に、黒髪や襟の袷から、桜のはなびらが四、五はらはらと落ちる。……その身に、つめたい気配のする黒塗りの匣を抱えている。)
僕は、名を
僕は、一八八四年、帝都より数里も離れた北の土地で、公家華族美薗地公爵家の庶子として生を享けた。母は加賀ハツという、色が白く手の美しい女だった。裁縫を教えていたが、生徒をとるよりも端切れの細工物を売る方が家計の足しになっていた。
母の作る手玉や豆雛は、
そんな僕には双子の妹があり、名をことと云った。母によく似て、色の白い娘であり、おとなしく何時でも俯いていた。目が醒めるような百日紅の花と三味線の音が好きなむすめだった。柘榴のわれたのを怖いと云って泣く子だった。余りに
僕の母は所謂、妾であった。
美薗地の名は聴いたことがあろう、公家華族美薗地公爵家…あの夢のような西洋風の御屋敷は、ひとたび帝都の駅におりたてば、遠くからでもよく見える。
母は、娘の頃帝都で暮らしており、美薗地の邸の小間遣いをしていたのが、一夜の戯れに白百合の
然し、そんな僕らを女手で養ってくれていた母が寝付いたのは、僕が七歳かそこらの初春だった。北の国は三月になっても雪が消えず、
妹は母の蒲団の脇を離れたがらず、仕方無しに僕が
蒲団の脇に座る妹は時々、御免なさいと蚊の哭くより小さな声で謝った。何に謝っているのか、この世のすべてに申し訳ないと思っているような寂しげで侘しい響きを持っていた
もうすぐに桜が咲くという頃になって、母はだいぶ顔色を取り戻してきた。此こまで来れば後は恢復するのみであると、真面目くさったあやしげな近所の漢方医が云うと、妹は母の枕元でふうと息をついて安心の為めかそのまま眠ってしまった。丸まった
「
枕元には、母が枕下から取り出した手紙が置かれていた。僕はそれを手に取って
そこで初めて僕は、母が妾だということを知ったのだ。
思えば、まだ若く身寄りのない母が、こんな田舎で裁縫の腕のみで活計をたててゆけるはずもなかった。一時囲っただけの若い女が子を孕んだときいた美薗地のあるじが、細々と金を送っていたのだ。
「此れを」
母は、いっとう美しい春秋尽しの絹にくるんだ旅費となろうものを僕に差出し、蒼白い脣を慄かせた。僕は
「學びなさい、桜花」
母が、これ迄にも
「帝都へ行きなさい、桜花。
あの日ノ本の光たる帝都で、學びなさい。然して、何時か花を咲かせなさい…」
母は眠る妹をそぅっと抱きしめた。そしてから、僕を強く強く掻き抱いた。
その熱は、いまでも僕のうちにある。
帝都で花を咲かせ実を結ぶことこそが、僕の天命であると母は堅く信じているようだった。枯れゆく白百合の風情で、母は真っ直ぐに僕を見た。黒く潤む、底の無い美しい瞳だった。
母は恐らく妹のこともあって僕を帝都に行かせようと試みたのだと思われる。ことは嫋やかで弱い娘だった。まるで影のような、嵐に怯える柳のごとく脆く、優しい女であった。
僕は母と妹を代わる代わるに見てから、懐にずしりと重たい春秋をいれて立ち上がった。
こうして、一八九一年春、僕は故郷を離れて帝都へ旅立った。
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