伍
(鈴の音がする。無数に…風に吹かれた叢のごとく。ふと、薄荷の匂い。
舞台の奥がにわかに薄暗くなり、やがて虫喰いのごとき光の点がぽつぽつと現れ始める。――)
國近様が住んでいた離れというものは、高楼の北側に位置する、母屋と互の字のような渡り廊下で結ばれた大きな平屋である。膝丈の欄干には精緻な彫り物、軒深い内は酷く暗く思える。…
組紐がその廊下には渡されていて、どうしてか、無数の鈴が銀細工の烏瓜のように吊る下がっていた。風が吹くたびにしりんしりんと涼やかに鳴る。指先を
離れに這入ると、唐紙で仕切られた座敷に通された。まだ夕刻だのに床がのべられ、その枕元には組紐が結わえ付けられていて、其処でやっと僕は病人が人を呼ぶ時に鈴を鳴らすのだと気付いた。此処は病室なのである。床の間に活けられた白百合と露草が気怠い死の匂いを振りまいていた。ペルシァ絨毯を敷いた畳の上には革張りの洋書から和綴じの謠の本まで雑多に積み重なって居る。實近様が泣くほど欲しがった日本國文學を見つけて目を細めた。公爵や智近様は、實近様にするようには國近様を扱わない。転地療養を奨めても従わぬ此の病身の偏屈家をもて余して居るようである。離れに閉じ込める代わりに好きに書物を
不意に國近様が咳き込んだ。肺腑からわき上がる苦しげな音が止むと、忌々しそうに煙管を銜えた。舶来の、金属のなよやかな煙管である。よく見ると其れは蜥蜴を模しており、燻らす芳しい匂いは古典的な薄荷。…その香が付近の書物にも染みて、花押から匂い立つようにすら思える。
「讀みたきゃ好きに持っていきな」
本に向けられた僕の目に気づいた國近様が云う。持っていた煙管をカランとタイル張りの西洋風の卓に抛ると、藤色のクッションを置いた籐椅子に腰掛けた。僕にも緩慢に、もうひとつある方に腰掛けるよう促したが、立ったまま、少し頭を下げて居た。
「才は以て非を飾るに足る」
僕はおもてをあげた。それは僕の母が僕に教えてきたことであった。
國近様はうっそりと笑って、「お前は勉強熱心だそうだね。父がそう云って居たよ」
僕は礼を云っても一度頭を下げた。國近様は少し開けられた障子からちらりと外を見遣ってから、煙管をとんと指で叩いた。そしてから口を開いた。
「科挙を知ってるだろう。清の官吏登用の
あれは身分も何もかも関係なしに、成績さえ良ければ国を動かす立場になれるという触れ込みらしいねえ。貴賤問わず、どんな男児にも機会があると言うのさ。
學ぶには本が要る。教師を雇う金が要る。働かずに學んでいられる時間の余裕が要る。誰でもなんて嘘っぱちだね。所詮は金さ。そして金をもつのは身分の高いものなんだよ。
身分ってのは掛け算の乗数みたいなもんでね。どんなに恵まれたもんを持っててもこれが零だと全部零になっちまう。解るだろう、加賀桜花」
「……、…。御言葉ですが國近様。
…加賀の名を貶めるお
國近様は低く息を吐き、籐椅子に深く身を沈めた。卓に載った江戸切子の脇に置かれた蜥蜴の煙管がきらりと光る。
「お前は
故郷に錦を飾りてえなら、使えるもんは使いなってことさ。つまらぬ矜持は何の踏台にもなっちゃくれんよ」
僕は黙って居た。國近様はゆっくりと立ち上がり、裳裾を引きて傍に来る、その様がまるで亡霊が沖から波打ち際に上がってきたようで
「――それとも
ハッと僕は逃げッ跳んだ。頤に沿わされ鎖骨を這った指の冷たさは凡そ死人の其れである。…生者の身体を此れほどまでに蝕む病魔とはどんなものなのか、
國近様はもう一度ゆっくり身を籐椅子に投げ出すと、白菊に埋もるる柩に横たわる死人のごとく
「――ま、おまえさまの人生だ。好きにしな。帝都は清の国じゃなし、成り上がり者も歓迎して呉れよう。幸いお前は金には困っちゃいない」父も兄もお前が気に入りなんだ、と國近様は歪んだような笑いを浮かべた。どこからか薄荷の匂いがする。埋め火の焚き付けのごとく…。障子の透きから入る西陽は愈々消えなんとする。絨毯を踏む自分の爪先が蒼白く蝋引きて見えた。夏の夜がこれほど足の速いものだろうか、よくわからなかった。僕は國近様の真意を測らんとその目を真っ向から見返したかったが、力なく伏せる瞼や、此方を見ているようなのにどうしても見通せない不可思議な眼差しに翻弄されて居た。
「近く、父か智近から、上の學校の話があるだろう。…何を云われても、自分のやりたいようにしな」
先言とは矛盾しているようなことを云いながら、國近様は口許を押さえて、音のでない咳を二三。…風が鈴を木立の葉群のように撫で鳴らし、打ち寄せる潮や山嵐のごとく無数の涼やかな音が狂ったように重なり、晩夏の蜩のごとく。魍魎がさんざめく音が僕の足元をぐらつかせる。
「…何を考えてらっしゃるのですか」
問えば、彼は煙管に指を伸ばし、銜えてから、ひどく翁寂びて微笑んだ。
「俺の名は
時が止まった気がした。本当ならね、と付け加えた國近様は、その冷やかな独特の眼差しで
「俺ぁお前と同じよ。……尤も、違うのは胎じゃあなくて種だがね」
華族の奥方が使用人と逢い引きなんて洒落にもならん、と燻らす紫煙の向こう側に、微妙な曲線を描く眦…。面ざしとは血の呪いに等しい。
「たかが一夜だが、天は妻なるものの不貞を御許しにならず、まるで獄卒の呵責のごとく。……子で親を責めようなんざ神様は惨いことをするね」
僕は唯俯向いて居た。
美薗地家の正妻お宵は七年前勞咳で亡くなったそうである。…日毎仏壇に手を合わせ、絶さぬ仏花と線香の前で丁寧に拝む實近様の姿が頭を過る。そして、其れを見つめる公爵と智近様の表情も。…終ぞその前で姿を見かけたことのない、國近様のことも。
「實近は知らない。彼奴は純粋培養なんだ。……幻燈機械をほんものだと思い込める心をしてる」
僕は顔を伏せた。彼の真冬の夜空のようにきらきらしい両の眼が浮かぶ。いつでも傍らに居る僕の瞳と較べるとき、人は何を思うのだろう。僕と、庶子加賀桜花とよく似た、深山の霧のごとき瞳をした信濃國近は、黙然と鈴の音を待つように障子の方を見つめていた。…僕は
何所からか鐘が鳴る。それを合図に、國近様は骨ばった手をひらっと振って、去るよう促した。僕は首を垂れ、踵を返した。障子に手を掛け、銀鈴と組紐綾なす廊下に出でて閉めんとした時、不意に
「おまえは、あれの傍に居てやってくれるか。……」
……そう聴こえた気がしたが、ざあっと、魔の棲むような夕風が鈴の森を浚い、何もかも失くしてしまった。
わかりました、と、あげた声も、どこにも届かずに帝都の虚空へと消えた。
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