第4話 共同研究

 仁豊野がアメリカから帰って2ヶ月ほど経った。新しい年を迎え、新年のお祝いムードも落ち着いてきた頃、仁豊野は相変わらず研究に打ち込んでいた。


「ダークX、か・・・。」


 昼下がりの研究室でコーヒーを飲みながら休憩をしていた仁豊野は、ワトキンズ教授の発見したアストロサイト内の例の黒い奇妙な点、ダークXが気になっていた。


「仁豊野君、やはり、気になっているみたいだね。」


「天童教授、そうなんです。実は、あれからいろいろと仮説はたててみているんですが。」


「聞いてもいいかな?」


 そういいながら、天童教授は仁豊野の向かいの椅子に腰かけた。


「はい。まず一つ目は、脳の疾患によるものという説です。アルツハイマー病が進行すると、グリア細胞内部にタンパク質が溜まるということが分かっています。」


「グリア繊維性酸性タンパク質だね。」


 グリア繊維性酸性タンパク質、GFAPは、神経変性疾患を患った脳のアストロサイト内部に増加するタンパク質である。アルツハイマー病の他、牛海綿状脳症(BSE)や、多くの神経変性疾患でも見られるが、そのメカニズムはあまり分かっていない。


「はい、つまり、そうした何らかの疾患によるものである、という説です。」


「なるほど、まあ、確かに可能性は考えられるね。」


「そしてもう一つが、アストロサイト内部に溜まった不要物を除去するための機構である、という説です。ダークXが周囲の細胞質を取り込んでいく様子が確認されたことから、そう考えられます。」


「つまり、細胞内部の構造であるということかな?しかし、それらの説には問題があるよね。」


「そうなんです。二つ目の説に関しては、わざわざダークXが不要物を取り込んで除去しなくても、グリア細胞同士のギャップ結合を介して細胞内を通し、血管に流すことが可能です。わざわざダークXに頼る必要がありません。」


 ギャップ結合とは、細胞同士の結合の一つである。グリア細胞はニューロンとは異なり、電気信号による情報伝達を行わない。しかし、このギャップ結合を介して、グリア細胞から隣のグリア細胞へとイオンの輸送を行うことで、情報伝達をしている。また、脳の血管の周囲にあるグリア細胞は、血管から養分を取り込んだり、逆に不要物を血管に流すということをしており、血管から取り込んだ養分は、ギャップ結合を通して隣のグリア細胞へと送られていく。


「確かに、少し無駄な機構であると考えられるよね。」


「はい、そうなんです。さらに、最大の疑問が、取り込んだ物質は一体どこへいくのか、ということです。これが分からない限り、どの説も所詮は仮説止まり、机上の空論です。」


「そうだね。しかし、脳というのは奥が深い。脳の研究をすればするほど、訳がわからなくなってくるね。」


「あの、教授、僕実はあれから少しアストロサイトの観察もしているんです。」


「ダークXを見つけたいんだね?」


「はい。どの説が正解であったとしても、不正解であったとしても、たった一匹のマウスのたった数個のアストロサイト内にしか存在しないなんて考えられません。他にもあるはずです。」


「まあ、あまり焦らずにね。」


「はい。」


 そうは言っても、やはり自分の手元に出来るだけはやくダークXが欲しい。しかし、あのコネクトームプロジェクト学会のあと、多くの神経科学者がアストロサイトを調べ始めたが、ダークXの発見の報告はない。仁豊野も探していたが、やはり見つけられていない。仁豊野は、ワトキンズ教授と共同で研究できないかと考えていた。


 共同研究といっても、今回はそう簡単にできるものではないだろうということは、仁豊野も分かっていた。というのも、研究者にとって最も重要なことは成果を出すことである。ワトキンズ教授にとってダークXは、これから新たな素晴らしい発見に繋がるかもしれない極めて重要なものであり、現在ダークXを持っているのはワトキンズ教授のみである。つまり、世界中の神経科学者が研究したくてもできない研究対象を、ワトキンズ教授は持っているということである。科学者にとって、そうしたものは独り占めしたくなるのは当然であるのだ。


 しかし仁豊野は、ダメ元でワトキンズ教授に共同研究できないかお願いをしてみることにした。



『クレイグ・ワトキンズ教授


 コネクトームプロジェクト学会でのワトキンズ教授の報告を受けて、ダークXについて私も研究してみたいと思っております。

 私自身、帰国後から今まで、アストロサイトにおけるダークXを発見しようと探しておりましたが、発見には至っておりません。

 世界中でも、ワトキンズ教授以外のダークX発見の報告はありません。

 このことから、ダークXを見つけることは非常に困難であると考えられます。

 そこで、ワトキンズ教授とダークXについて共同研究をしたいのですが、どうでしょうか。どうか、一度ご検討ください。


 仁豊野新』




 メールを送ったあと、パソコンに1通の未読のメールが受信されていることに気づいた。受信したのは深夜2時頃のようだ。


 仁豊野はメールを開いてみた。


「フランス国立脳科学研究センター・・・、フランス?」


 フランス国立脳科学研究センター(CNRBS)、フランスの研究機関である。仁豊野は驚いた。一体何の用なのか、メールの本文を見てみた。



『仁豊野新様。


 現在コネクトームプロジェクト学会に所属する研究者を対象に、この内容のメールを送信しています。

 現在、我研究者センターでは、ダークXにおける研究に関する情報を集めています。研究の中で得たダークXについての情報を、随時こちらに報告していただきたいと思います。よろしくお願いします。』




 冗談じゃない、なぜ今まで特に関わりのなかった研究機関に対して、しかもタダで研究の情報を報告しなければならないのか、仁豊野は腹が立った。


「こんなもの、無視だ!」


 しかし、コネクトームプロジェクト学会に所属する研究者ということは、天童教授にも送られているはずだ。仁豊野は天童教授にたずねてみた。


「仁豊野君、確かに僕のところにも送られてきていたよ。間違いなくCNRBSからだ。」


「そうですか。しかし、一体何でこんなメールをしてきたんでしょうか。無理に決まってるでしょう。」


「そうだね。まあ、研究対象が1つしか存在しないから、きっと躍起になっているんだろうね。」


「そんなの、僕だって一緒なのに。そうだ、教授。さっきワトキンズ教授に共同研究のお願いのメールをしてみました。」


「なんだ、仁豊野君もCNRBSと同じじゃないか。」


「そういうこと言わないでください。」


「ははは、まあ、共同研究できるといいね。」


 そう言うと、天童教授は研究室から出て行った。








 翌日、ワトキンズ教授から返信が来ていた。


『仁豊野新


 君の気持ちが伝わってきたよ。ぜひ、共同研究をしましょう。

 正直言うと、私はこの世界にたった1つしかないダークXを存分に私の手で解明していこうと考えていたよ。だから共同研究のお願いは全て断っていたんだ。

 でも、私はいつまでも研究できるわけではない。いずれ、君のような未来ある若者に、このダークXを受け継いでいかなければならない。だからこそ、未来のサイエンスのためにも、君と共同研究をしたいと思う。

 一度、私の研究室に来てくれないか?君にもダークXを見せたいよ。


 クレイグ・ワトキンズ』




 仁豊野は喜びを爆発させた。ダークXをこの目でみることができる、それだけで嬉しかった。

 さっそく研究室の天童教授に報告しに行った。


「天童教授!ワトキンズ教授と共同研究できることになりました!」


「本当かい!?すごいことじゃないか!いろいろ学ばしてもらいなさい。」


「仁豊野!お前ワトキンズ教授と共同研究するのか!?全くお前はどうしてどんどんおれの先へ行くんだよ。」


 外まで聞こえていたのだろうか、手塚が大声を出しながら廊下から飛び込んできた。


「手塚さん、うるさいです。あと、手塚さんは研究して早く結果出してください。」


 手塚は黙ってしまった。手塚を黙らせるには、手塚さん研究してください、とか、手塚さん結果出してください、と言えばいいのだ。


「ところで仁豊野君。いつワトキンズ教授のところへ行くんだい?研究対象が世界で一つしかないんだから、向こうに行かないといけないだろう?」


「はい、来週に一度向こうに行こうと思います。こっちでの仕事や研究もあるので直ぐに帰ってきますが。」


「それがいいよ。まあ、頑張りなさい。」














 1週間後、仁豊野は再びアメリカへと飛び立った。



 ハーバーブリッジ大学のワトキンズ教授の研究室を訪ねると、ワトキンズ教授が歓迎した。しかし、研究室内は普段より少し散らかっているようだった。もともとの研究室内の様子を知っていたわけではないが、仁豊野はそう感じた。


「ようこそ、仁豊野君。また会えて嬉しいよ。」


「こちらこそ、ワトキンズ教授。」


「君を盛大に歓迎したい気持ちでいっぱいなんだが、実は今少し大変な状況なんだ。」


「どうしたんです?」


「3日前に泥棒が入ったんだ。重要な書類やデータは厳重に保管していて無事だったんだけど、パソコンやいくつかの実験データを盗まれたみたいだ。今も警察が捜査しているところなんだ。」


「そんなことがあったんですね!」


「そうなんだ。一体なぜここに泥棒が入ったのかは謎なんだが。だが、安心してくれ。ダークXは無事だ。泥棒の件も気になるが、それよりも君とこのダークXの謎を解明できると思うととても楽しみだよ。よろしく頼むよ。」


「こちらこそ、よろしくお願いします。」


 泥棒のことは心配だったが、仁豊野はダークXをこの目で見ることができるということが楽しみで頭がいっぱいであった。


「こっちに来てくれないか。」


 仁豊野はワトキンズ教授に連れられ、巨大な電子顕微鏡のある部屋へ案内された。


「これが例のアストロサイト、そしてその中の黒い点がダークXだよ。」


 仁豊野は顕微鏡を覗きこんだ。レンズの先にアストロサイトがあったが、その中にいくつか非常に小さな黒い点が見られた。ダークXだ。初めて見たダークXは、仁豊野の想像以上に小さく、この世のどんなものよりも黒かった。まるで、光さえも飲み込むブラックホールのようであった。

 電子顕微鏡と接続してあるパソコンの画面にも、同じアストロサイトが映し出されているが、仁豊野はしばらくの間夢中でレンズを覗きこんでいた。


「どうだい、仁豊野君。それがダークXだよ。今は謎だらけだ。時間のある時だけで大丈夫だから、君にぜひ手を貸して欲しい。私と君とでこの謎を解き明かしていこう。」


 ダークXに夢中の仁豊野であったが、ワトキンズ教授に話しかけられてはっと我にかえった。


「精一杯頑張ります!ところでさっそくですが、日本にいる間に考えていた仮説についてお話ししたいのですが。」


「いいだろう。ぜひ聞かせてくれないか?私も君に最新の研究結果について話したいことがあるんだ。まだ未公表の内容だよ。そして、君が驚く内容だと思うよ。」


「それはぜひ聞きたいです!」


 お互いのダークXについての見解を話すため、二人は再び研究室へと戻っていった。

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