第2話 ダークX
一週間が経った。仁豊野は、結局思うような成果が出せなかったが、現段階での進展状況をまとめ、資料にしたものを保存したノートパソコンを持ち、天童教授とともにアメリカで行われるコネクトームプロジェクトの学会へと向かった。
アメリカへと向かう飛行機の中で、天童教授は隣でうとうとしていた仁豊野に話しかけた。
「仁豊野君、今回の学会はワトキンズ教授もいるみたいだよ。」
「教授、僕眠たいんで寝かせてくださいよ。て言うかワトキンズ教授って?あっ、あのクレイグ・ワトキンズですか?」
「そうだよ。彼もコネクトームプロジェクトに参加しているからね。君は学会には初参戦だからまだ会ったことはないよね?」
「あるわけないじゃないですか!すごいですね!」
「何せ、今回の学会はワトキンズ教授のいる大学で行われるからね。」
「えっ?ワトキンズ教授ってハーバーブリッジ大学でしたっけ?」
「この秋からハーバーブリッジ大学で研究しているんだ。」
クレイグ・ワトキンズ教授とは、科学者の間でもかなり名の知れている有名な研究者であり、仁豊野の論文が掲載された権威ある科学誌naturalをはじめ、多くの科学誌に論文が掲載されている、まさに現代の科学をリードする科学者である。
「ぜひ、ワトキンズ教授とお話してみたいです。」
「そうだね。君も未来を担う科学者の金の卵だ。ぜひ話してみるといいよ。」
ハーバーブリッジ大学の講堂で行われるこの学会には、コネクトームプロジェクトに参加している世界中の研究者が集まる。主に、コネクトームプロジェクトにおける進展状況や新たな発見についての発表がされるのだが、仁豊野もその発表者の1人である。とはいえ、これといって素晴らしい発見があったわけではないので、仁豊野は発表後に非難されるのではないかと怯えていた。
「視覚情報が送られる大脳皮質の第一次視覚野における軸索および樹状突起の配線についての電子顕微鏡での精査を行い・・・」
学会は基本的に全て英語で行われる。仁豊野は海外での生活経験はないが、その英語はネイティブに負けず劣らず流暢である。観察対象のニューロンの画像を提示しながら、精査の結果について説明した。
そもそもコネクトームプロジェクトは、結果という結果がそうそう出るものではない。
最終的に脳のニューロンの配線の全てを精査するというのが目的であるため、仁豊野の研究もその目的へと近づくものである。しかし、やはり注目を集めるような新しい発見が仁豊野は欲しかった。
発表後特に非難されることはなかった。仁豊野はほっと胸を撫で下ろした。一仕事終えて少し気が緩んだのもつかの間、次の研究者の発表では、興味深い発見が報告された。
仁豊野の次に発表したのは、あのクレイグ・ワトキンズ教授である。ワトキンズ教授はこのプロジェクトで新たな発見をしたと報告した。
「私はマウスの側頭葉にあるアストロサイトにおいて、奇妙なものを見つけました。こちらをご覧下さい。」
アストロサイトとは、脳に存在する細胞である。脳には、大きく分けて二つの細胞が存在する。一つはニューロン、そしてもう一つがグリア細胞というものである。ニューロンとグリア細胞の大きな違いは、電気信号により情報伝達をするかしないかであり、グリア細胞は電気信号による情報伝達を行わない。アストロサイトは、このグリア細胞の一種であり、ニューロンのようにあらゆる方向に樹状突起を伸ばした形をしている。
ワトキンズ教授はパソコンを操作し、講堂の前にある大きなスクリーンにアストロサイトの画像を表示した。
「アストロサイトとはニューロンとは別の細胞です。ご存じの通り、脳にある細胞のうち、ニューロンは20パーセントほどしか存在しません。残りの80パーセントは、グリア細胞と呼ばれる細胞が占めています。また、以前はこのグリア細胞はニューロンを支え、固定するだけの存在と思われていましたが、近年では脳における疾患や、脳の成長、さらには言語において有名である臨界期に非常に密接に関わっていることが分かってきており、その重要性が注目されてきています。そこで私は、脳の大部分を占めているグリア細胞の内、アストロサイトの観察を行いました。」
ワトキンズ教授は、再びパソコンを操作し、新たな画像を映し出した。
「こちらをご覧下さい。アストロサイト内において、奇妙な非常に小さな黒い点を観察することができました。それも、1つの細胞の中にいくつも見られるのです。さらにこの黒い点が奇妙だという理由は、この点が、非常にゆっくりですが、周囲にある細胞質を徐々に引き付け、飲み込んでいっているのです。私はこの物質を『ダークX』と名付け、引き続き観察していこうと思います。」
確かに奇妙である。一体その物質が何のために存在するのだろうか、何らかの脳の疾患によるものなのかと仁豊野は考えた。しかし、今のところこのような報告は聞いたことがない。会場中がざわざわし始めた。しばらくして、盛大な拍手が送られたが、ざわめきは少しの間おさまらなかった。
学会が終わり、仁豊野と天童教授は懇親パーティーに参加していた。立食パーティーで、学会のために集まった研究者たちが、食事を楽しみながら、お互いの研究や学会の内容などについて話すのである。ワトキンズ教授の周りには多くの研究者が集まっていた。
「仁豊野君、行こうか。」
突然、天童教授が仁豊野にそう言った。仁豊野は一瞬なんのことか分からなかったが、すぐにワトキンズ教授のところへ行くのだと気付いた。
「ワトキンズ教授、日本の近南大学の天童です。今日は素晴らしい発表でした。」
「天童教授、どうもありがとう。」
「こっちは私の研究室で研究をしている仁豊野です。」
「はじめまして、ワトキンズ教授。近南大学の仁豊野です。今日は大変興味深い発表でした。」
天童教授に紹介され、慌てて仁豊野はワトキンズ教授にあいさつをした。研究者というのは、こうした場面で話しかけられるような積極性やコミュニケーション能力は意外と必要なのだと仁豊野は感じた。
「仁豊野君か、ワトキンズです。随分と若そうだね。若いのに堂々とした発表だったよ。」
「ありがとうございます。なかなか成果が出なかったので、今後も研究に精進していきたいと思います。」
「まあ、研究なんて我慢の連続だよ。特にこのプロジェクトはね。ところで君はどうして脳の研究をしているんだい?」
「脳が世界をつくりだしているということに興味を持ったのがきっかけです。感覚器官から神経を通って伝わってきた情報を脳が整理し表現するということは、脳が世界の姿を映し出しているということです。つまり、世界は脳の中でできているといっても過言ではありません。」
「そうだね。大袈裟な話ではなく、脳を理解することは、すなわち世界とは何かを理解することでもあると思うんだ。それこそが、脳の研究の行き着くところでもあるはずだ。」
仁豊野は、ワトキンズ教授と話せたことに舞い上がっていた。
「また君と会えることを楽しみにしているよ。」
「こちらこそ、また会いましょう。ワトキンズ教授。」
仁豊野はワトキンズ教授とメールアドレスを交換し、天童教授とパーティー会場をあとにした。
「仁豊野君、君はワトキンズ教授に認められたね。」
「何言ってるんですか。ただ少し話せただけですよ。あっ、天童教授のお陰です。ありがとうございます。」
「君は未来を担うんだから、こういうところでしっかりと人脈を築いておきなさい。」
「はい。それより教授、直ぐに日本に戻られるんですか?」
「そうだね。まあ、少し友人の顔を見に行ってから帰ろうかなと思っているよ。君はまだ講演があるんだね。」
「はい、何度か日本でも海外でも講演をさせていただきましたが、今度は今までより大人数を相手に話すので、ちょっと緊張しています。」
「何せ、アメリカの名門大学だもんね。まあ、いい経験になるよ。」
二人は宿泊先のホテルへと向かった。
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