マトリョーシカ
低山狭太
第1話 コネクトーム
宇宙は、137億年前のビッグバンにより始まったとされている。以後、宇宙は膨張を続けており、その膨張速度は低下するどころか、むしろ加速し続けていることが分かっている。宇宙は無限、多くの人はそう考えている。果てしなく広がる宇宙に、終わりはあるのか。
「つまり、人の行動は全て脳によって制御されています。みなさんは、中学校や高校では反射というものを習ったと思いますが、反射も先ほど述べたように、脳を一切介さないのではなく、反射も脳によって制御され、そして微調整されているということです。では、本日の講義はここまでにしましょう。」
講義を終えて研究室に戻ると、同じ研究室に在籍する研究員の
「よう、仁豊野!お前ついにnaturalに論文が掲載されたな!全く、お前はいつもおれのずっと前をいきやがって。もっと先輩を敬えってんだ!」
手塚は仁豊野の4歳上の博士研究員、いわゆるポスドクというやつだ。
「どうも。手塚さんこそ早く成果出さないとずっとポスドクのままですよ。」
「全く憎たらしいやつだなー。まあ、教授も喜んでたぞ。」
「
「明日には戻ると思うが、どうだろうな。あの人、遊んでから帰ってくるかもなー。」
「まあ、教授らしいと言えば教授らしいですけど。」
そんな会話をしながらも仁豊野は白衣に身を包み、話もほどほどに電子顕微鏡室へと向かった。
顕微鏡の前に座り、覗き込む。神経細胞、ニューロンの観察である。
仁豊野は現在、2つの大きな国際的プロジェクトに参加している。1つはコネクトームである。これは最近始まったプロジェクトであるが、脳の仕組みを理解するため、脳全体を隅々まで電子顕微鏡で精査し、ニューロンの配線を全て詳細に解明してしまうということを目指すものである。仁豊野は、この気の遠くなるような壮大なプロジェクトチームの1人である。電子顕微鏡を覗き込んでいるのは、このプロジェクトを進めるためである。
一方で、もう1つは記憶保存プロジェクトである。このプロジェクトは、人間の記憶をそっくりそのまま取り出すというプロジェクトである。このプロジェクトの目的は、トラウマの克服のような医療に応用する他、より完璧なAIをつくること、いわゆる天才と呼ばれる人間の思考や記憶を保存し将来の科学に役立てること、さらには歴史的事実を記録した歴史資料としての利用である。
仁豊野が顕微鏡室に入ってから7時間が経過した。仁豊野は時計を見る。時刻は夜の11時だ。来週アメリカで行われるコネクトームの学会で発表するだけの結果が出ていない。今日もまた泊まり込みになることを確信し、仁豊野は研究室に戻った。手塚はすでに帰ったようだ。
仁豊野は研究室にあるカップ麺を手に取り、蓋を開けてお湯を注いだ。蓋にはお湯を入れて5分と書かれてある。カップ麺ができる間、仁豊野は少しうとうとしていた。眠気覚ましにコーヒーでも飲もうと立ち上がったとき、研究室のドアが開いた。
「あれ、仁豊野君か。また泊りか?」
研究室の教授の天童であった。
「教授!帰るのは今日だったんですか!」
「なんだ?帰ってきてほしくなかったのか?」
「いえ、手塚さんが明日だと言っていたので。」
「彼のいうことは8割は信じていけないと言っただろ?それより、何をしてたんだ?」
「ああ、コネクトームの学会で発表できるほどの結果が出てなくて、ちょっと足掻いてました。」
「なんだ、君は本当に完璧主義だねー。結果なんてそんなにすぐに出るものではないよ。手塚君を見てみなさい。」
「いや、手塚さんはマイペース過ぎでしょ。」
「ははは、まあそうだね。」
天童教授は研究室の奥にあるイスに腰掛けた。この研究室の中で最も大きなイスだが、それは教授専用のものである。というのも、この近南大学の神経科学研究室は天童教授の研究室であるからだ。
仁豊野はコーヒーを2つ用意し、そのうち1つを天童教授のもとへと運び、手渡した。
「教授、お疲れ様です。」
「ありがとう。」
仁豊野は研究室手前にあるイスに座り、カップ麺を食べ始めた。
「仁豊野くん、naturalに掲載されたようだね。帰りの飛行機の中で読ましてもらったよ。なかなか面白かったよ。」
「ありがとうございます。ただ、まだ理論的な話ですし、これから実証してみないことには。」
「しかし、記憶を取り出し保存する、か。もしできれば、PTSDの新たな治療方法となりそうなんだがね。」
PTSD。心的外傷後ストレス障害のことである。簡単に言うと、深刻なトラウマのようなものである。つまり、トラウマの原因となっている記憶を取り出すことができれば、根本的に治療することができる、まさにPTSDにおける抜本療法となる可能性がある。
「まあ、それが実際にできれば科学の大きな進歩になると思います。ただ、やっぱり相当難しそうですね。」
「ただ、その研究のもう一つの目的である完璧なAIの方も、もし実現すれば歴史的快挙だ。何せ、1960年代から始まったAIの研究も、結局はシンギュラリティを迎えることができずに、すでに60年も経ってしまったからね。」
「まあ、できればいいんですけどねー。」
カップ麺を食べ終わると、再び顕微鏡室へと向かった。
気がつくと、辺りは明るい日差しに包まれていた。11月に入って最初の水曜日。秋晴れのなか、仁豊野は講義に向かうためにキャンパスの中を移動していた。近南大学のキャンパスはそれほど大きくなく移動に時間がかからないため、ついさっきまで顕微鏡を覗き込んでいた。
講義は9時からである。終わったら朝昼兼用の食事をとろうと思いながら、講義室に入って行った。
「えーっと、すみません、昨日の講義とは別の授業ですので、今日話す内容を整理させてください。」
そう言って、少し間をとった。
「今日は、思考についての話になりますね。そもそも、人間は何故思考するのでしょうか。例えば、身体に痛みがはしったとき、なぜ痛いのかを考えます。原因を知ろうとします。思考とはつまり、なぜなのか、なぜそれが起こったのかというような理由を考えることです。さて、なぜだと思いますか?」
一時間目の講義ともあって、大教室での講義の割には人が少ない。仁豊野は、問いかけたところで誰か答える人がいるとは思ってもいない。いや、1人を除いては。
「生き残るためだと思います。」
一番前の席に座って熱心にノートをとりながら講義を聞いていた学生が手を挙げて答えた。彼女はこの講義はいつも最前列の同じ席で聞いている。
「なぜそう思いますか?」
「自分の身に何が起こったかを知ることは、次に同じことが起こったときに対処できます。また、それらを回避することもできます。」
「いい答えです。そう、動物は本来、生きるために考えることをするのです。では・・・」
90分の講義が終ったが、今度はある人の相手をしなければならない。あの熱心な学生だ。講義後恒例の彼女からの質問攻撃を受けなければならない。しかし仁豊野は、むしろこうした熱心な学生は好きであり、この時間は仁豊野にとっても好きな時間である。が、仁豊野はコネクトームの研究があるため、研究室に戻りたかった。
「仁豊野先生、さっきの講義で少し質問があるんですけど。」
仁豊野は迷った。しかし、この熱心な学生の相手もしてやりたい、そこで仁豊野は切り出した。
「いいよ、分かった。そうだ、良かったら僕の研究室に来ない?そこで話そう。時間は大丈夫?」
「いいんですか?ではそうさせてもらいます。時間は全然大丈夫です。」
仁豊野と彼女は研究室へと向かった。
研究室に着くと、手塚と天童教授もいた。2人でテレビを観ていた。
「よう、お前学生に手を出したのか?」
手塚が仁豊野に声をかけた。
「手塚さん、やめてください。」
「何言ってるんだい手塚君、仁豊野君も一応学生だよ。だからこれはセーフだ。」
「教授までやめてくださいよ。彼女は担当している講義を受けている学生です。」
仁豊野は2人に少し呆れながらも、彼女をイスに座わらせた。
「で、2人は何を観てたんですか?」
「いや、ただのニュースだけどよ。ほら、最近話題になってるだろ?太陽の活動が弱まってるとか何とか。」
手塚は答えた。続いて天童教授も答えた。
「何だか、以前から太陽活動が弱まっているということは聞いていたんだが、先月の観測で7ヶ月連続で黒点が観測されなかったらしいよ。周期的に変化することを考えると、今は活動が活発になっていく時期なんだがね。全く、宇宙というのはよく分からないね。」
黒点とは、太陽を観察した際に見られる黒い部分のことである。周囲よりも温度が低くなっている場所であると考えられているが、太陽活動が活発になるほど多く、活動が弱くなると少なくなっていく。つまり、黒点を観察するだけでも、太陽の活動がどうなのかを確認することができる。
「そういえば仁豊野、知ってるか?物理学者の考える宇宙の構造とニューロンの形ってそっくりらしいぞ。宇宙も実はニューロンだー、なんてネットで騒いでるやつもいるみたいだぞ。」
「なんですかそれ、しょうもないですね。それより手塚さん、研究は進んでるんですか?」
手塚は黙ってしまった。
「それより仁豊野君、彼女をほったらかしにしちゃだめだよ。」
仁豊野はすっかり忘れてしまっていた。取り敢えず、名前を聞いた。
「そうだ、君、名前は何て言うんだい?」
「
「松芝さん、それで、質問っていうのは?」
「はい、今日の講義で、人の記憶を取り出すことで完璧なAIができると言っていました。ですが、そもそも先生の言う完璧なAIって何ですか?」
「そうだね、現在の技術では、まだ特化型AIしか開発できていないんだ。例えば、囲碁や医療や料理のAIっていう感じ。でもね、各分野において人間を越えることができても、1つのAIで何でもでき、しかも全ての面で人間を越えるというような総合力においてのシンギュラリティは、現在のやり方では来ないと思っている。」
「現在のやり方っていうのは何ですか?」
「プログラミングでAIをつくるやり方だよ。フレーム問題って知ってるかな?例えば、洞窟の中にある宝物を取ってくるようにプログラミングされたAIロボットがあるとする。このロボットは、洞窟の中に入って、周囲の状況を判断し、宝物を取って帰ってくるようにプログラミングされてるんだけど、さて、無事に取ってこれるでしょうか?」
「できるんじゃないですか?」
「残念、実は宝物の上に爆弾が仕掛けられていて、宝物を持ち上げると爆発するように設定されていたんだ。ロボットは爆発して木っ端微塵だ。」
「何だよそれ!せこすぎじゃねーか!なあ松芝さん?」
さっきまで黙っていた手塚が急に話に入ってきた。
「手塚さん、何ですか急に。まあいいですけど。じゃあ今度はさっきみたいなことにならないように、宝物を持ち上げる前に起こるかもしれないの事態を予測するようにプログラミングしてみた。さて、今度はどうでしょう。」
「今度はいけるだろー。どうなんだよ。」
「手塚さん、僕は松芝さんに聞いてるんですけど。」
「あの、私も今度は取ってこられると思います。」
「残念、今度は宝物を持ち上げるときに起こるかもしれないことを考えていると、思考が終わらずに取ってくることができないんだ。」
「どういうことですか?」
「宝物を持ち上げるときに入り口が塞がるかもしれない、洞窟内の照明が点灯するかもしれない、洞窟が崩壊するかもしれない、地震が来るかもしれない、宝物の色が変わるかもしれない・・・。みたいな感じで、あらゆる可能性全てっていっても、起こるかもしれないことなんて無限にあるんだ。その全てを考え始めると、永遠に思考は終わらなくなるんだ。」
「じゃあどうすりゃいいんだよ。」
「あの、だから僕は松芝さんに。えーっと、松芝さん、どうすればいいと思う?」
「そうですね。・・・、じゃあ、その可能性のうちどうでもいいものを無視するようにプログラミングすればどうでしょう。」
「そうだね、そうしてみようか。でもね、今度も残念ながら宝物を取ってくることはできない。今度は、一体何が考える必要のないことなのかを考えるんだけど、よく考えてみるとそれも無限にあるよね。つまり、考える必要のないことは何なのかについての思考が終わらないんだ。こんな風に、現在のプログラミングによるAIは、人間の脳のようにいらないものを考えないということができない。これをフレーム問題というんだ。仮に特化型AIを何種類もつくって全てを合体させれば完璧なAIができるかもって思うかもしれないけど、何種類もって、それこそ無限にあるでしょ?結局その方法でも不可能なんだよ。」
「つまり、現在のやり方では人間を越えられないと。」
「そうだね。ただね、もし人間の記憶をそのまま取り出すことができたら、何だか完璧なAIができそうな気がしない?」
「えーっと、そう、ですね。確かに。」
「厳密にそれをAIっていえるかどうかは分からないけどね。まあ、僕が記憶を取り出し保存する研究をしているのは、やっぱり医療目的と、あとは、天才の思考を永久に利用できるようにするためだけどね。」
「あっ、そうか!記憶を取り出すということは、思考パターンを取り出すことと同じ意味になるということですね?」
「そういうこと。インプットされた情報を記憶されている情報をもとに処理し、アウトプットするのが脳の働きだ。つまり、記憶を取り出すことができると、思考を取り出すこともできると考えられる。それを利用すると、天才と言われる人が亡くなった後も、永久にその人の思考を利用することができると考えているんだ。ただし、これは脳ではないため、学習することはできないと思うけどね。」
「なるほど、でもこれって倫理的にはどうなんですか?」
「そこも問題なんだ。まあ、考えないといけないことだね。」
すっかり話し込んでしまった。すると、奥で3人を見ていた天童教授が近づいてきた。
「松芝くん、君、どうかね?この研究室で少し勉強してみるかい?」
「いいんですか?邪魔にならなければ、ちょくちょく来させてください!」
みんな、熱心な学生には歓迎的である。松芝は、この研究室の一員として迎えられた。
「ところで仁豊野君、君の論文によると記憶を取り出すには一度脳を凍らせる必要があると書いてあったが。」
「はい、あくまで実証はしていませんが、凍らせることで脳の活動を完全に停止させ、その状態で構造をスキャンすれば、その時点での記憶を取り出すことができるとかんがえています。ただ、その方法では医療にはちょっと・・・。」
「まあ、思いついたんならやってみるといいよ。」
「はい、ですが今は来週の学会のことで頭がいっぱいで。」
「そうだね、大変だけど、未来の科学のためだ、よろしく頼むよ。くれぐれも体には気を付けてね。」
「はい、ありがとうございます。」
そう言うと、仁豊野は再び顕微鏡室へと向かった。
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