8.
次の朝、碧は喬木に聞いたマンションに行った。とりあえず、貴希の(確か、安物じゃない、と言ってた)コートを返すべきだと思った。しかし、貴希の部屋257号室の前に人影を見、一瞬ひるんだ。
(記者、とかじゃないよね…でも、どっかで…)
「こんにちは。ここ、留守みたいよ」
人影が振り向き、軽く会釈する。碧の眉間の辺りに、ピンと音がする。
(濱崎智子(はまざき さとこ)!! だって何であの人が)
雑誌や映画の時の、かちっとしたファッションとは異なり、ナチュラルメークに柔らかなカーディガンとフレアスカート。顔は、確かにそうなのだから、もう自分の直感を疑わないようにしよう。この人は間違いなく…。
「濱崎智子が…女優の、しかも電撃新婚の濱崎智子が、どーしてアイドル歌手の鞠矢貴希のマンションの部屋の前に、こーして立ってるんですか?!」
すると、彼女は困ったように眉を八の字に寄せて微笑み、言った。
「私、鞠矢貴希のいとこなの。ホントよ、これは」
「ごまかさないで!」
「ホントだって。戸籍だってちゃんとそうなってる」
見掛けだけじゃなく、雰囲気までブラウン管の中とはイメージが違う。
「そのコート、貴希のでしょ? 貴希のお友達ね」
いたずらっぽくクスッと笑う。…何か意味深。碧の頬が熱くなる。
「とにかく、中で待ちましょう。一緒にお茶でもどう? ちょうどイギリス土産のがあるの。映画の撮影で一昨日帰ったんだ」
そう言いながら…合鍵まで持っている。…ああ、このひとなんだ。あの夜のまりやの熱の原因。間違いない。
「NEW ALBUM、聞いた? 貴希の」
「あ…いいえ、まだ。ちょっと忙しくて」
答えながら、碧は正直驚いていた。晴都のバンドデビューと重なったとはいえ、貴希のALBUMのことまで、すっかり頭に無かった自分に。
勝手知ったる、という感じで手際よく紅茶を淹れる智子の背中を見ながら、碧は複雑な気持ちだった。どうも昨夜からいろんなことがいっぺんに起こり過ぎていく。だけど、この不快さの一番の根元は何だろう。
「アール・グレイ好き? それと、こっちはアーモンドクッキー。濱崎智子お手製だぞ。フフフ…おもしろいわねぇ。初対面の女二人が、本人不在の、しかも男の子の部屋でティータイムなんて」
あぁ、この人はそれにしても、何て自然に、心底楽しそうにはしゃいでるのかしら。こんな普段着でも、やっぱりきれいなんだなぁ。
「ねぇねぇ、あなたも何か話して。あなたは私を知ってても、私、あなたについて何も知らないから」
「わからない…です。あたしだって智子さんのこと。どーしてここにいるのか、とか」
碧は自分と同じように、紅茶をストレートで飲む智子を見ながら言った。
「だからそれは、いとこだから」
「まりやは、智子さんが好きで…!! とても本気で…」
つい大声を出してしまう碧に、智子は悲しそうに微笑む。
「あたしも貴希のこと、大好きよ。きれいで、真っすぐで。いとこに対して始めから恋愛対象に思えなかったけど、でも、真剣な目で見つめられると、ドキドキしたり、ね。貴女と同じにあたしも貴希のファンなのよ、苦しいくらいに。もちろん、弟みたいに大切だし…でも」
カップの紅茶の表面に映る自分を見つめる智子。言葉を選んでいる。
「夫のこと、それ以上に大好きなのよ。貴希が物足りないんじゃない。あの人…夫でなきゃ、だめなの。代わりはいないの。貴希は一生懸命私を追ってくれた、それは知ってたけど。私は貴希に応えてあげられないの」
「まりや、熱出したんです。あなたの結婚知って」
抑えようとしても語尾がきつくなってしまう。あの夜の貴希の額の熱さが掌に蘇ってせつない。
「貴希は、小さい頃、よく知恵熱で寝込んだの。中学生になって、どうにか治ったみたいだったけど」
一つ、溜息をついて立ち上がる。ラックから例のCDを出し、プレーヤーにかける。
「週刊誌に記事が出たときね、私もうイギリスにいたの。夫は普通のサラリーマンで自分の仕事があって。私も滅茶苦茶に忙しくて、三か月間電話もろくにできなくて、とても新婚どころじゃなかったの。記事になったのを知ったのも随分後だったわ。でもね…もし目の前で貴希に問い詰められても、私あの子の気が済むような説明をしてあげる自信無かった。それに…貴希ならすぐ立ち直るって信じてたの」
静かなピアノのイントロが流れる。初めて聞くような甘く掠れた声で、まりやが切なく歌うバラード。「誰よりも優しくて」まりやが書いたラブソング。
誰よりも優しくて 誰よりもエゴイスティック
そんな君だから、いつまでも愛し方を知らない
その涙にキスしても、指をつないでも
君の胸の奥、届かない…僕の片想い
「こんな悲しい歌をあの子が作るなんて、思ったこともなかったから…私不安で悲しくて」
大きな灰色の瞳にかげりをたたずませ、それでも口もとは穏やかに微笑んでいる。碧はこの、美しく、しかし当たり前に呼吸している女性に、優しい好意を感じていた。
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