14

 雲のせいか少しだけ温かく、けれど風の強い日だった。髪はまとめ上げ、スカートではなくパンツを選び、ブラウスは色つきの、襟が華やかなものにした。仕事にでも出掛けるような服装だが、クイールカントにいる限りは気を抜いた格好はできない。望まなくともアンは王女で、それにふさわしい服装が求められるのだから。


 朝食を食べる頃になって、ローリーがにこにこしながらカードを差し出してきた。盆の上に載った、料理のような花とカード。そこには、十時に迎えにいく、ということがルーカスの名前で記されてあった。誰かに言付ければいいのに、とアンはちょっと笑った。添えられた一輪の花はプリムラで、手に取ると、摘みたてなのか、朝露のにおいがした。もし昨晩のように母がここにいたら、「こしゃくな」と言ってしまいそうだ。プリムラの花言葉は、『永続する愛情』だったから。

 どんな顔をして会おうか。チューリップのように無邪気に? プリムラのように素朴に。それとも、バラのつぼみのように恥じらって? どちらにしても、普段通りというわけにはいかなさそうだ。素直に自分の思いを表せないアンとしては、気恥ずかしさが怒りとなって、ルーカスにぶつけることがないことを祈るばかりだ。険悪になることを望む人間はいないだろう。相手が嫌いでないかぎり。

 そう、私は彼のことを好ましく思っている。


 朝食を終え、時間までに仕事をする。母にだめを出されたことを気にしないわけにはいかなかったが、これまで必死に塞いでいた穴を、別に塞ぐ必要はないと思い直せ、むしろ風通しがよくなったような気がした。歌うように、語るように。まるで自分が、文字の世界で演説する女王のように、自由に、伸びやかに、言葉を放っていく。穴を埋めるという束縛に近い作業から解放されると、文字を並べていくのが楽しくなった。

 気付くと、セットしたアラームが鳴り響き、アンはキーボードから手を離した。いくらでも書けそうな気分だが、少し冷ました方がいいだろう。

 ドアが叩かれる。

「はい」

 現れたのは侍従官だ。彼は深々と一礼すると、朝の挨拶を口にして「お忙しいところ申し訳ありません、殿下。キャサリン・リカード様より、ご面会のお申し込みがございました」と告げた。

「キャサリンが? 通して」キャサリンはすぐにやってきた。先日より元気そうな顔をした従妹は、アンの姿を見て申し訳なさそうに眉を下げる。

「出掛ける予定だったのね、ごめんなさい」

「いいのよ。久しぶりに会ったんだから、あなたの方を優先したいもの。でも、ごめんなさい、十時まででいい? 人と会うから」

 椅子を勧め、彼女を案内してきた侍女にお茶の用意を頼む。キャサリンは十時までに十分ある時計を見て、こくりと頷いた。

「人って、マクシミリアン殿下じゃないわよね?」

「兄さんじゃないわ。サラバイラのルーカス殿下」

 キャサリンは息を呑んで胸を押さえ、忙しなくまばたきをした。

「……驚いた。殿下がいらしているの?」

「ええ。……あら? 知り合いだったの?」

「知り合いだったの、なんて言えるのはあなただけよ、アン。サラバイラの隣、クイールカントの貴族で、ルーカス殿下を知らない人なんていないわ」

 キャサリンが微笑ましいという顔で苦笑した。アンを、うんと年上の婦人からたしなめられたような気分にさせる、いつもの表情だ。アンは椅子の上で身じろぎし、だって、と口を尖らせた。ええ、と彼女は笑う。

「あなたはユースアにいたんだもの。それに、昔から自国の貴族が、隣国の王子殿下が、って騒ぐ人でもなかったものね。仕方がないわ」

 余計身の置き場がなくなる。周囲は、自分の結婚相手にしたいという意味で話していた気がするが、実を言うとルーカスのことはあまり覚えていない。クイールカントから出て行くことしか考えていなかったみたいだ。

「だったら」アンは思いつきに目を輝かせた。「一緒に来る? 私一人だと、間が持たなさそうで困ってたの」

 キャサリンは首を振った。「デートなんでしょう? 殿下に申し訳ないわ」

「じゃあ、あなたを家まで送るだけ。お願い!」手を合わせたアンを、心底困った、むしろ悲しいのではないかという顔で見ていたキャサリンだったが、彼女が答えを出す前に、扉が叩かれた。アンが返事をすると、侍従官がルーカスの来訪を知らせる。キャサリンが立ち上がった。

「それじゃあ、お暇するわ」

「何か用事があったんでしょう? 彼には少し待ってもらうように言うわ」

「私なんかを優先してはだめよ、アン。私なんかを」彼女が首を振る。「……になる」そして不意に詰まるように小さく言ったが、アンはうまく聞き取ることができなかった。

「殿下、お通ししてもよろしいでしょうか?」

「ああ、私が行くわ。キャサリン、送らせて。時間が取れなくて申し訳ないから」

 断りきれない彼女の性格を見越して、アンは無理矢理外へ連れ出した。公邸の外に出ると、庭を眺めていたらしいルーカスが振り向く。彼は、今日は柔らかいクリーム色のスーツに、ネクタイを締めないラフな服装だった。この陽気の色のような格好だ。

 彼は、ちょっと驚いた顔をし、すぐに笑顔になった。

「おはよう、アン。お久しぶりです、キャサリン嬢」

「ごきげんよう……」

 キャサリンは目を伏せた。一歩下がる仕草に似ていた。アンはルーカスに目で問うが、彼は何故か眉を下げて微笑んでいる。

「キャサリンを送るつもりだったの」

「それなら、僕もそうしよう。構わないでしょうか?」

 キャサリンは深く嘆息した。「お願いします……」と応えたものの、どこか諦めの息に聞こえたのは、アンもだったしルーカスもだったはずだ。何かしたの、ともう一度言葉にせず問うたが、今度はこちらを見もしなかった。一体どうしたの、とアンは心のなかで眉をひそめた。彼らしくない。キャサリンも、まるで苦手な相手と接しているみたいだ。


 ぎこちない空気にアンが首を傾げたまま、車に乗り込む段になる。運転はキニアスがするが、どの座席の位置が最も緊張せずにすむだろうか。アンが一瞬躊躇した気配を察したのか、ルーカスがさっさと助手席に乗り込んでしまった。目を落としたキャサリンの隣にアンが乗り込み、車は一路、サンの聖堂がある郊外へと向かう。

 エンジン音と車とすれ違う音だけが響くというのは、なんだか変な感じだ。アンが「二人は知り合いなの?」と尋ねようとすると、ルーカスが口を開いた。

「お二人は従姉妹、でしたか」

 問いかけの形から、彼がキャサリンに話しかけたのが分かる。キャサリンははっと顔を上げ、答えた。

「え、ええ……そうです」

「昔から仲が良かったんですか?」

「よく家に来て、一緒に遊んでいました。私の父が、王妃陛下の弟なので」

「きっとあなたは振り回されたんでしょうね」しみじみと同情するように言うものだから、アンが眉を吊り上げると、いいえ、とキャサリンが穏やかに、ようやく、初めて微笑んだ。

「アンは私をよく遊びに誘ってくれましたわ。家の中でかくれんぼをしたり、鬼ごっこをしたり……お話を作って語り合ったりも。とんでもないことをするのも得意だったけれど」

「とんでもないこと」

「ええ。父の勲章を宝探し遊びに使って、父を卒倒させました」

「キャサリン!」

 アンが悲鳴を上げて遮ると、ルーカスはお腹から笑い声を上げた。「それはいい! まさに宝物だ」

「いつも遊びを始めるのはアンでした。そしていつもとんでもないことで終わるのです。父や母の雷とか」

「彼女が現れると騒ぎが起こる?」

 まさか、とアンは思ったが、くす、とキャサリンは口元に手を当てて、黙秘を貫いた。

「ちょっと、キャサリン。それ本気で言ってる?」

「クイールカント王家でも、リカード、ウードローダー家でも有名な話なのよ? あの子がいると騒ぎの方が寄っていくって。……もしかして知らなかったの?」

 キャサリンがそれは悪いことをしたと佇まい全体で表すので、アンは額を押さえた。彼女だけの冗談ではないらしい。ともかくも、縁戚関係にある、高貴で、重職についているような人々に、トラブルメーカー扱いされているなんて。

「ユースアでは、まったく、そんなことはなかったわ」

「そうなの? だったら、あなたはクイールカントに愛されているのね。この国に。この土地に。きっと、ミシア女神にも」

 キャサリンが羨望の響きを込めて言う。

「だったら耳飾りの方から出てきてくれればいいのよ」むくれた顔で呟く。すると、何故かキャサリンが悪いことをしたみたいな顔をする。

「……殿下は、アンと結婚されるのですか?」

 何を言い出すのだ、と従妹の顔を見る。キャサリンは真剣に、ミラーに映っている助手席の王子を射抜くように見つめている。アンは急に暑くなってきた。空調が効きすぎている気がする。そして、耳がものすごく大きくなって、そばだっているのが分かった。

 ルーカスは返答を吟味しているようだった。少し笑う気配がし、それは次第に真剣な空気に変わった。


「今のままなら」


 そんな短い言葉が、彼の返事だった。


 今のままなら。そんな、まるで事務的な言葉で彼は考えているのかと苛立った。あの言葉が嘘だったのか。「好きだと言わせてみせる」。その言葉は、強引にアンを連れ出し、一方で自身のアンに対する気持ちを疑っていないものだった。

 彼には愛される自信がある、何故なら、自分が相手を愛しているからだ。

 それを、状況に流されればそうなる、という素っ気ない言葉で終わらせるのか。


「耳飾りが見つかれば、結婚はなくなるという意味?」アンが静かに尋ねると、「そうじゃない」とルーカスは言った。「僕は急くつもりはないし、君の気持ちを大事にしたいということだ」


『好きだと言わせ』て? アンはミラーのルーカスを見つめた。この人は、どういうつもりなのだろう。当たり障りのない言葉を使って、キャサリンを慮るような理由があるのだろうか。いつものように言ってくれればいいのに、というわがままな己を自覚するアンは、さきほどからルーカスはキャサリンを気遣ってばかりいることで、胸の奥に熾火のような何かを見つけ出す。自らがジェラシーに燃えているのだ、と思い当たってぎょっとした。

 なんてひどい人間だろう。愛情として好きかどうかも分からないルーカスに、自分を愛していると言わせたい、そんな暴力的で恥知らずの欲求が胸に燻っている。

「窓を……」口を開いたときは、からからに喉が渇いていた。「窓を開けていい?」

 二人から了承を受け、窓を開けた。しかし、風はアンの表層を冷たくするだけで、まるで燻りを守るように固くさせていく。

「風が、春のにおいですね」キャサリンが呟く。

「サラバイラと似ているけれど、やはり違いますね。クイールカントは、もう少し雪のにおいがする。あちらでは春の土の方が香るんです。でも夏はこちらより暑くて」

「なら避暑にいらしてください。ティタスの麓は過ごしやすいですよ」

 どうしよう。なんだか胃がむかむかする。身体は冷えていくのに、首から上が変に熱っぽい。

「それはいいな。一番過ごしやすかったのはユースアの北部だったんですが、あそこはちょっと天気が悪いと寒くて仕方がなかった」

「どんなところでしたか? 私、クイールカントから出たことがほとんどないんです」

「以前にも仰っていましたね。あなたみたいな方はもっと外に出て行くべきだと思いますよ。世界はとても広くて美しいです。秘密の花園で咲く花でいて、いつか誰かに摘み取られるのを見るよりも、自ら出て行って花開いているのを見てみたいですね」

「殿下はお優しい方ですね」笑い声が車中を満たす。アンだけが、ぐらぐらと頭と胸を揺らされている。

「……アン? どうしたんだ?」

 不意にルーカスが驚いた声で尋ね、アンはぐったりと座席にもたれて手を振った。

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