15

「ちょっと……酔ったみたい……」

「大変だ。キニアス、停めてくれ」

 キニアスが車を寄せ、窓を全開にする。キャサリンが「大丈夫?」と冷たい手でアンの手を握ってくれる。

「外に出るか?」

「ええ……構わないかしら……? ごめんなさい、キャサリン……」

 キャサリンは首を振る。ルーカスにもたれかかるようにして外に出て、アンはそこにあったベンチに腰掛けてほっと息をついた。キャサリンとキニアスが、水で濡らしたハンカチと、冷たい飲み物を持ってきてくれた。レモンの香りがするミネラルウォーターの冷たさが、喉を通るときに頭と胸を冷ましてくれる。車酔いをするなど、何年ぶりだろう。

「もしかして、体調が悪かったのかい?」ルーカスが尋ねる。「だったら外出は取りやめた方がよかったね」

「体調はよかったわ」でも、もしかしたら他のところが悪かったのかもしれない、とうっすら考える。二人の声を聞いていると、段々と落ち着かなくなってきたのだ。「大丈夫よ」

「いつでも機会はあるから、今日はゆっくり休んだ方がいい。キニアス、車を」

「大丈夫よ! だから」

 すると、いつも控えているキニアスまでも口を開いた。

「アン様。何も外ばかりが今日の予定を過ごされる場所とはかぎりません。今日は城に戻られて、お過ごしになるとよろしいかと。そうですね、ルーカス殿下」

 まるでアンの隠された心情を読み取ったような言葉に、ぎくりと固まった。キャサリンは分からない顔をする。ルーカスは側近の言葉に色々汲み取ったらしい。見間違えでなければ、まばたきくらいの一瞬に、ものすごい笑顔になった。

「キャサリン嬢は僕が送っていく。君は城に戻りなさい」

「あの、何かお困りでしょうか?」

 人のいい近くの店の主まで現れ、アンは退散するしかなかった。店主はしかし、この男女三人が誰なのかが分かったらしい。飛び上がるように直立すると、そのまま頭を下げた。

「これは、王女殿下、皇太子殿下、リカードの姫君とは気付かず失礼を」

「そのままで」と言ったのはルーカスだ。

「お店の前で騒がしくして申し訳ない。少し休んだらすぐにどきます」

「いくらでもいらっしゃってくださって構いません。何かご入用のものはございますか? 店は宝石しか取り扱っておりませんが、申し付けていただければすぐにご用意できると思います」

「アン、何か必要なものは?」

 アンは首を振った。騒ぎに気付いて、ちらほら人が集まり始めている。新聞の記事が頭をよぎり、どんなことを書かれるんだろう、と疲れた気持ちで思った。キャサリンがいるからまだひどくならないと思いたい。

「大丈夫。もう行けるわ」

「中も覗かずに、店の前を借りて申し訳ない。また今度寄らせてもらっていいかな」

「はい、是非ともお越し下さい。素晴らしい贈り物となるような品をご用意してお待ちしております」

 確かに店の佇まいを見ると、アンティークジュエリーも扱っていそうな古風な構えだ。こういう店が、古いミューダの街には多い。ウインドウのトルソーには興味深い札がかかっていた。『ミシアの贈り物 聖なる装身具のイミテーションはいかが』。ティアラ、首飾り、腕輪、指輪と耳飾りが、アンが聖堂で見たものとそっくりなものが飾られている。アンの視線に気付いた店主が、にこやかに言った。

「町おこしにしようと、職人と提携して、受注生産で販売しているんです」

「イミテーションに見えないわ。素敵ね」アンが微笑むと、彼は気分をよくしてくれたらしい。「本物のジュエリーですので、公式の場にもつけていただけます」

「注目の的でしょうね」

「ええ、きっと。そういえば、先だってはありがとうございました、リカード様」不意に店主はキャサリンに向かって頭を下げた。

「何か買ったの、キャサリン?」

「え、ええ……」キャサリンはそわそわとし、時計を見た。そういえば、彼女を送っていくという話をしていたのだ。アンは自ら立ち上がり、息を吸い込んだ。胸悪さは多少拭われている。

「行きましょう。それじゃあ、失礼します」

「素晴らしい店先を貸してくださってありがとう。今度は是非店内を見せてください」ルーカスが言い、店主に手を振った。キャサリンは最後に一礼し、忙しなく車中に乗り込んで、落ち着かなさげに手を動かしている。

「ごめんなさい、キャサリン。時間、大丈夫?」

「え?」

「時計を見ていたでしょう?」

「ええと……ううん、平気。心配しないで」

「キニアス、少し急げるか」とルーカスが聞いている。キニアスは返事をして、どんな魔法を使ったのだろう、安全運転ながらも、恐らく普通かかる三十分の所要時間を半分以上に短縮させて、あっという間に郊外のリカード邸へと到着させてしまった。中へ入ろうとすると、キャサリンがここで、と言った。

「どうもありがとうございました。ここで結構ですわ。お話しできて楽しかったです、殿下。ありがとう、アン」

 キャサリンは笑顔で車を降りていき、ルーカスもその後を追った。何事か短い会話があったらしい、彼女が寂しげな表情で小さく首を振り、ひっそりとした笑顔になる。彼は、そんな彼女の手の甲にキスをした。


 そのときの気持ちをなんと言ったらいいのか。吸い込んだ息に突然棘が生えたように、柔らかい真綿に似ているのにとてつもなく重いものを呑み込んだように、アンを息苦しくさせ、目を逸らさせた。彼女たちの身分なら、彼の態度は完璧に女性に対するそれで、不思議でもなんでもない。彼はキャサリンを大切に扱っただけだ。それなのに、どうして苦しむ必要があるのだろう。キャサリンの驚いた顔が、幸せそうに緩んだのを見て、気付けば唇を噛んでいた。


 だめだ。今日はどうしてキャサリンにこんな感情を抱くのだろう。かわいいキャサリン。繊細な従妹。病弱なせいか引っ込み思案で、アンのすることをいつも心配そうに見ていた。彼女が困るのが嬉しかったこともあった。アンはきょうだいの妹で、自分より下の弟妹はいなかったから、自分を追ってきてくれるのが嬉しくて。

 だから今の自分の、わけのわからない感情は、どうしても許容できない。

 でも、こんなときに兄の言葉が蘇る。

『愛の裏に欲を持っている』


 最後に一礼して、キャサリンは自宅へと帰っていく。彼女の姿が完全に見えなくなるまで待ち、ルーカスがアンの隣に乗り込んでから、キニアスは車を発進させた。

「……アン、眠ったの?」

 アンは目を閉じ、何も考えないことを選んだ。体調が悪かったのだと納得し、気遣ったルーカスが何も言わずに隣にいることは肌で感じられるが、今はその感覚すら厭わしく、毛布を被るように、ひたすら闇の中に潜み続けていた。やがて、それは重苦しい眠りへと変わっていった。

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