礼儀知らずの黒服の男たちはキニアスと二三言葉を交わすと出て行ったが、ここにいるのが皇太子で、彼らがSPだと思うとむげにもできないとも思った。それでも、愛する小さな我が家が蹂躙されたことに腹が立ったアンだ。彼らが交わす一部始終を注視していたことに気付いた皇太子付きのキニアスは「騒がしくて申し訳ありません」と丁寧に頭を下げてくる。それよりも、アンの隣の男をどうにかしてほしい。

「どうしてそんなに膝をくっつけてくるの?」

 アンは、椅子の上にいるのに後ろへ下がった。すると皇太子の長い脚が、アンのそれと触れ合うのだった。爪先がアンをじゃれつかせる真似事のように、するりと動く。アンはきっと睨んだ。

「君が魅力的だから」とルーカスは微笑んだ。「君と遊びたい」

「私で、の間違いでしょう? 殿下」にっこり笑ったアンは、わざわざ立ち上がり、椅子を動かして距離を取った。憤然と椅子の座って高く足を組むと、ルーカスは従者を振り向いた。

「嫌われてしまったようだよ」

「懲りていらっしゃらないくせに、そんなことをおっしゃるとプリンセスがお怒りになりますよ」キニアスは的確な推測を立て、アンに向かってまったく完璧な慎み方で静かに微笑んだ。どうやら、彼が一番の常識人のようだ。何かあったら彼を頼ろう。

「早く話を始めてくださらない?」

「お茶は出してくれないのかい?」

「出してもらえると思っているのなら、この家から出て表通りに行ったところにカフェがあるからそちらへどうぞ。もう二度とドアは開けませんからね!」

「そんなことは言っていられなくなるよ、アン・マジュレーン。君は僕と結婚するんだ」

 アンはたっぷり息を吸い込んで、十数えた。

「面白い冗談ですわ」

 にやにやとルーカスは笑った。

「このままだと結婚しても寝室から閉め出されそうだな」

「私を怒らせる天才ですわね、殿下? ……その軽い口に紙の束を突っ込まれたくなければ、今すぐ出て行きなさい!」

 椅子から立ち上がって上から怒鳴りつけたアンに、キニアスが割って入った。

「申し訳ありません、プリンセス」

「王女と呼ばないで!」

「失礼致しました、ミス・マジュレーン。どうぞおかけになってください。主の非礼は従者の非礼、わたくしが殿下に変わって謝罪いたします」

 そう言って、キニアスはアンの前にひざまずいた。びっくりして口がきけなくなってしまう。ルーカスが眉間に皺を寄せた。

「止めろ、ユミル。お前にそうさせるつもりじゃなかった」

「では殿下」とキニアスは皇太子を仰いだ。「ミス・マジュレーンに謝罪を」

 ルーカスがアンを見た。

「すまなかった、アン」

「いいえ」素直にアンも応じた。立ち上がったキニアスは満足そうな顔も見せず、目礼して後ろに下がった。


 お互い気まずい沈黙があり、アンは椅子に腰掛けてひとつ頷いてみせた。ルーカスも、どこかばつの悪そうな息を吐いて、口を開く。

「別に君を怒らせるために来たわけじゃないんだ。すまなかった。さて、何から話したものか――というより、本当に何も知らないのかい?」

「何のこと?」

「君が賠償金の代わりとして僕と結婚する――ってこと」

 アンの反応をうかがったルーカスの顔に、明らかな苦悩が見て取れた。

「……なんですって?」

 アンの顔は、表情という表情が混じりあい、混乱と混沌を招いたとんでもないものになっていた。言わなければよかったと、額を押さえて撫でさするルーカスは語り出す。

「このことはこちら側としても急なことなんだ、アン。ミシア女神の聖装身具のことは覚えてる?」

「覚えてるわ」とアンは答え、それを思い浮かべた。

「ミシア女神が七人の聖女にくだされた聖なる装身具で、太陽の冠、月の首飾り、銀星の耳飾り、大地の腕輪、深海の指輪に、ええと」

「光の十字架と闇の紋章」ルーカスが引き継いだ。

 そう、それ、と頷く。聖なる装身具と呼ぶにふさわしい大仰な名前がついていて、アンも何度か母国の七聖堂で公開されているのを見たことがある。


 ミシアとは救世主という単語がある小民族の言語で女性形になったもの。クイールカントとサラバイラはどちらも山脈に囲まれた冷帯気候の土地で、かねてより人口は女性の方が多い土地だった。西の土地で一大宗教となっていた救世主信仰が山を越えて完全に伝わりきらなかったところに、二国間の女性尊重の風合いが混ざりあい、ミシアという女神を作り出したとされている。今もクイールカントは狭い土地ではあるが首都は伝統的な街並を残しつつ適度な近代化が進み、製薬と観光事業が重要な産業となっている。だから、最近の若者であるアンも例に漏れず、ミシア女神は、一昔前の年寄りたちのように『光を授けたもう真実を司る断罪者でもある女神ミシア』の像ではなく、比較的冷静な一文化的視点から見られるようになっている。


「そもそもミシア教というのは、かなり信仰人口の少ない宗教で、国教としているのはサラバイラとクイールカントだけ。国外に出ると、五万人に一人ミシア教徒が見つかればいい方、というマイナー宗教だ。この装身具も、隣り合った二国で共有、管理している」

 母国で生まれた時から染み付いた教えを、マイナー宗教と言い切るルーカスも、同じように現代的な考えを持っているようだった。

「それくらい分かってるわ。サラバイラ国王とクイールカント国王、双方が大司教なんだから」

「今年が移動の年だっていうことは覚えていた?」

「三年おきの?」

 二国間で共有されている聖装身具は、三年おきに移動することになっていた。人口の多くない宗教なので、そのように国を使って教えを支える二本の柱を立てているのだ。

「そう。今回はクイールカントからサラバイラに移動する年だった。僕も立ち会った」

「トラブルがあったのね」

 アンはため息まじりに言い、ルーカスは頷くように両手を組んだ。

「銀星の耳飾りがなくなっていたんだ。もちろん大騒ぎになった。クイールカントとサラバイラで交わされた誓約では、儀式をしない以上、過失があるのは、現在聖装身具を管理している国とする、とある。今回の場合はクイールカント。儀式をする前に遺失されていることが確認されたからね」

 深い息が漏れた。頭の中で、兄からのメールの文面が流れ去った。彼が言っていたのはこのことだったのだろう。

「この誓約には、保証についても文面がある。万が一聖物に何らかの損壊、窃盗等による遺失の被害があった場合、賠償として、過失のあった国から王家の人間を差し出す、というものだ」

 ぽかんと口を開けた。

「それは――冗談でしょう?」

 冗談と言って。期待を込めることはできなかった。今のルーカスは、至極真っ当な冷静さでこちらを見ていたのだ。王女であっても初めて聞く事実に、アンは目の前が真っ暗になったような気がした。

「両国とも小さな土地だ。金が絡めば将来的に国が保たなくなると先人たちは考えたんだろう。ちなみに、過去前例がない」

「不名誉だわ」絞り出すようにアンは言った。だから誰も王女のアンに教えようとはしなかったのだ。頭を抱える。頭痛がする。現実から目を背けて、ベッドに入りたい。背中を丸めていると、近付いてきたキニアスが水の入ったグラスを手渡してくれた。一気に飲み干す。ユースアの苦みが広がって、顔をしかめた。

「ありがとう。落ち着いていないけど落ち着いたわ」

 アンが再び目を戻すと、ルーカスの笑みが深くなっていた。相手を威圧する、けれど包み込むような、余裕と自身の顔で、アンに言った。


「僕は君を迎えに来た。アン・ミシュア。これから君は国に戻って、僕と結婚する。ミシア女神の教えに従って、太陽と月と星、海と大地、光と闇の名の下に、真実の愛を誓う」


 グラスを置き、息を吸った。


「私の答えを言いましょう。――ノーよ」


 ルーカスは笑顔を浮かべること以外の感情を見せることはなかった。静かに手を組みながら、「その理由は?」と泰然と尋ねる。

「私は王位継承権を放棄した。そして、愛のない結婚をするために、クイールカントを出たんじゃないわ」

 しかし今日この日にマリアンヌが現れたことが、アンの心を揺さぶっていた。あの人は、そのつもりで聖装身具のイミテーションの指輪を送って寄越し、ユースアに現れたのだろうか。

 彼は顔をほころばせた。

「それでも、僕は君を求める。アン、君を僕のものにするつもりだ」

「どうかしてるわ。サラバイラの皇太子とは思えない古臭い考え方よ、それ」

「だが、逃げられないよ。これは義務であり、責任だ」

 それでも、これだけは譲れない。自分は、こんなことのために王位継承権を捨て、王女の名を忘れようとしてきたわけじゃない。ユースアにある、クイールカントにはなかった自由を手に入れるために来たのだ。

「濡れた猫みたいだね」

 ルーカスは興味深そうに言う。微笑ましい気持ちを滲ませて、何も言えないアンを見るのだ。

「雨に打たれているような君を見るのは心が痛む。けれど僕は、嘘は言いたくない。銀星の耳飾りはどこかに消え去った。クイールカントで確かに揃っていると確認され、三十人の警備と三十人の聖職者に守られていたはずなのに、サラバイラの聖堂に到着し、確認のために金庫を開けたときには耳飾りはなかった」

 耳飾りだけが。彼はそう繰り返し、アンの反応を見ていた。嘘は言いたくないというところは気に入ったが、そんなことは何の意味もなさない。彼に立ち向かうだけの言葉を持っていなかったために、アンは顔を覆った。だからルーカスは彼女を待たせる余裕があった。しかし、それが命取りに近い事態を呼んだ。

 耳飾りがなくなり、政略結婚せねばならないというのなら。アンは顔を覆っていた手の中で、目を見開いた。心臓が打つ。これが正しいという気がしてきた。顔を上げたとき、ルーカスは不穏な気配を感じ取ったのか眉を寄せていた。

「銀星の耳飾りが見つかれば」震えのようなものが全身を走る。緊張のせいだ。ゆっくりと、切り出した。「賠償はしなくてすむわね?」

 驚嘆したらしい彼が、息を呑んだ。

「どうやって?」それが第一声だった。思わず大きくなった声を潜めて彼は言う。「警察が一ヶ月も探しているのに手がかりすらないものを、どうやって探すっていうんだ?」

「あなたはクイールカント人じゃないわ。賠償を貰う側の人間よ。でもクイールカントは必死に耳飾りの行方を探しているはず。そして私は、この結婚を回避するために、必死になることができる」

 何か言いかけたルーカスを、キニアスが制した。

「殿下」

 ルーカスもアンを見て言葉を引っ込めた。

「……今日はここまでにしよう、アン。顔が真っ青だ」

 それで目眩がするらしい。もう何か言う気力もなく、アンは力なく首を振った。

「そろそろお暇いたします。こんな時間まで、女性の部屋にいるものではありませんから」

 キニアスがそう言い、ルーカスが立ち上がった。彼は放りっぱなしにしてあったアンのジャケットを取ると、それをアンの肩に着せかける。きっと彼は、アンの小さな震えに気付いたはずだ。

「いいよ……分かった。一ヶ月あげよう」

 励ますように彼は言った。

「一ヶ月の間に、君は銀星の耳飾りを探す。でも期限は一ヶ月だけだ。その間に見つけられなければ、僕と結婚する。いいね?」

「どうぞ、ミス・マジュレーン」キニアスが沸かしてあった白湯をアンに手渡してくれた。「勝手にキッチンに入って申し訳ありません。本当はお茶をいれてさしあげたいのですが」とすまなさそうに言うので、アンは眉を寄せた顔のまま、笑みを浮かべて軽く首を振った。そして、ルーカスを見上げた。

「一ヶ月ね」

「一ヶ月だ」

 分かった、とアンは頷いた。その約束でいい。

 白湯を一口飲み、アンが立ち上がったのを、ルーカスが制した。

「いい。見送らなくて」

「別に構わないわ。ジャケットを羽織っているし、あなたは要人だもの」

 玄関を出て階段を下り、アパートメントの入り口で、アンは二人を見送った。春風は夜になって唸りをあげるようになり、明かりを揺らしたいのか窓を少し騒がしく叩いていた。表に出ると少し冷たく、頬が強ばった気がした。

「ちゃんと温かくするんだよ、子猫さん。でも君は人の温もりを知って眠るべきだと思うけど」

「まだ約束の一ヶ月が経っていないわ」

 アンは軽口に応じ、背を向けた。

「絶対に耳飾りを見つけるから」

「見つからないことを祈ろう。君を手に入れるために」

 ルーカスが歩き出すと、キニアスが側につき、いつの間にか現れたSPたちが彼を囲んだ。しばらくそこに立っていると、皇太子は手を挙げてアンに挨拶をし、やがて車が動き出すエンジン音が聞こえてきた。きっと、彼の乗ってきた車なのだろう。


 アンが引き返すと、扉が開いた。

「こんばんは、リンドグレーン夫人」

「こんばんは、アン。お客様はあなたに会えたのかしら?」

 アンはちょっと目を見張った。

「彼をご存知だったんですか?」

 夫人はショールを肩にかけ直しながら頷く。

「ええ、昼間、あなたが出掛けてすぐ訪ねてきたの。お茶に付き合ってもらったわ。あなたの様子を聞きたがっていた。母国のお友達なんですってね」

 とんだ大嘘だ。しかし穏やかな老婦人の心を騒がせたくないと思い、アンは笑うに留めた。

「あの子はいい子ね、アン。ロマンス小説なら、きっとああいう男性が登場するんでしょうね。物腰穏やかで礼儀正しく、少し強引でハンサムだわ」

 アンは同意した。

「その上、独身で嘘がきらいなんです……それがいいかは、時と場合に寄りますけど!」

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