Chapter.2

 気付けば時計が進んでいた、それも何周もして。あっという間に過ぎ去った帰国準備に追われる日々だった。

 突如としてクイールカント行きが決まったため、兄に急いで帰国の連絡を入れたところから始まった。その返事も聞くのもそこそこに荷物の選別をし、必要なものをスーツケースに詰め、編集部には一ヶ月の旅行を申告したクイールカントの名前を出すと、電話向こうの副編集長は驚いたことに「あの女神の小さな箱庭へ?」とアンに問い返してきた。

「ええ、あの小国の田舎へよ」パソコンを閉じ、抜いた充電コードを片手で折り畳んでアンは言った。こんなところで彼を見直してしまった。そりゃあアンに政略結婚話も持ち上がろうものだ。電話を持ち替えながら、パソコンが入るバッグに周辺機器もすべて一緒くたにしてしまう。原稿データの入ったバックアップ専用のUSBだけは、いつも持ち歩くポーチに入れた。

『やっと傷心旅行かい? いいよ、原稿さえくれれば、どこへ行っても。でも自殺なんてことはやめてくれよ』

「私が死んだら何の仕事にもならないけど、私がこれからやるのはもっと大きな仕事よ」

『なんだい、それは』

 アンはにやりとした。せっかく母国へ帰るのだ、周囲が自分を王女と呼ぶのなら、王女として見聞きできたことを文章に仕立て上げてやる。二つの国で起こった事件に、国と宗教の結び付きに、政略結婚。どこに転んでも書くべきことは山ほどあった。

「それはあとのお楽しみね。それじゃ、後はよろしく」

『よい休暇を! それじゃあ』


 航空会社にクイールカントの最寄り空港行きのチケットを手配し、荷物はスーツケースひとつバッグがひとつで収めきった。これ以上の荷物になると長期滞在されると思われてしまうから、最低限だ。あくまでアンの自宅はユースア国の首都ノークにあるこのアパートメントの一室で、例えそれが実家の十分の一に満たない狭いところでも、ここにはアンが求めた限りない自由がある。

 部屋の管理はリンドグレーン夫人にお願いすることにした。彼女はこころよく請け負ってくれた。

「お友達のところへ行くのね?」

 アンはそれが誰を指すのか分からなかった。クイールカントの友人を彼女に紹介した覚えなどこれっぽっちもなかったからだ。しかし夫人は、アンがちょっと不思議そうにしたのを、『お友達』という言葉によるものだと思ったらしい。ころころ笑い出した。

「彼のところへ行くんでしょう、と言った方がよかったかしら?」

 アンは真っ赤になったが、自分でも羞恥からなのか怒りからなのか分からなかった。でもここにルーカスがいたら、間違いなく渾身の力で蹴り飛ばしたい。

「旅行に行くだけです……そんな、おっしゃっているようなことは、けっして」

「あら、そうなの」と夫人は答えたが、どれだけ本気にしたか。彼女には重大な勘違いがあるらしい。きっと八割はアンがルーカスに会いに行くのだと思っている。


 スーツケースを転がしてノーク空港に着くと、広い構内には訪れた人々の忙しない音が、高く反響していた。静かなような騒がしいような、広く明るい真昼の空港のカウンターでチェックインをしていると、スタッフが困惑した表情になった。

「申し訳ありません、しばらくお待ちいただけますか?」

 そう言って何事か機器を使って確認を始め、別のスタッフにも確認しにいった受付は、非常にすまなそうな表情で確認したもう一人スタッフを伴い、「このチケットはご利用できません」と信じられないことを言い出した。

「どうして? ちゃんと予約したわ。チケットだってちゃんとあるじゃない」

「しかし、この座席番号はすでにチェック済みなんです」

「どういうこと?」

「どうやら、同じ席で二枚チケットを発行したらしく」

「お客様、申し訳ありません」

 スタッフは頭を下げた。ブッキングしたらしい。アンは眉をひそめた。こんな事態、一体何パーセントくらいでぶち当たるのだ。

「では、他の席は?」

「同じクラスの席はすでにご予約でいっぱいです。キャンセルが出るかどうかは分かりません」

「次の便は……」五時間後だ。しかしそれではクイールカントに入る手段がなくなってしまう。

「どうしてもこの便に乗りたいんだけど、なんとかならないの?」

「上のクラスのお席か、五時間後の便ならお取りできます。もしくは、ニーザードの空港からオーラルランドに入られるか……」

「オーラルランドに行きたいんじゃないの。オーラルランドから、陸路で十時間ほどかかるところに行く予定なのよ」

 だからこの便でないと困る、ということを主張するが、航空会社は首を振るだけだった。何かが憑いているとしか思えない。アンは額を押さえた。イビル・スピリットが辺りを走り回っているのが見えるようだ。

 どうやってチケットを獲得しようか考えているところで、後ろが騒がしくなった。順番を守れ、と怒鳴り声がする。気になって振り返りかけたアンの横から、背の高い影が手を出した。

「では、この最上位クラスの席を、こちらのご婦人に」

 やっぱりイビル・スピリットが周りで踊っているらしい、と確信を深めることになってしまった。

「キニアスさん」

「ごきげんよう、ミス・マジュレーン」サラバイラ皇太子付きのキニアス卿は、警戒心を抱かせないそよ風のように微笑んだ。アンが更に向こうを振り返ると、SPに囲まれたルーカスが、笑って手を挙げるところだった。

「どうしてここに」

「オーラルランドを経由して帰国する予定だったのです。あなた様の姿をお見かけして様子を見ていたのですが、どうやらトラブルのようなので、手を貸してこいとご命令を受けました」

「お客様、こちらの席でよろしいですか?」

 キニアスが差し出した自動購入機の予約券を受け取ろうとしたスタッフが、アンを訳ありとみてうかがう。アンは彼を見た。

「払えません、このクラスの代金、私には」

「ご心配には及びません。主からお支払いするよう仰せつかっておりますので」

「余計に受け取れません」

 頑なに固辞するアンだったが、キニアスは言う。

「そうおっしゃるだろうと言われました。『君の兄から代金をもらうから心配するな』、とのことです」

「早くしろ、つかえてるんだ」と後ろから声が上がった。さきほど怒鳴っていた男性だ。アンは素早く計算し、念には念を押す。

「本当に、兄に請求してくださる? そちらからのプレゼントではないと」

「ミシアの真実に誓って」彼は頷き、スタッフに速やかな手配を願い出た。




「やあ、アン」

「私は距離を取って歩くから、側に来ないで」

 開口一番、アンは言い、てきぱきと空港を横断していく。冗談じゃない、飛行機に乗るまでにどれだけ神経を尖らせなければならないのだ。後ろから、アンより数段長い脚で続いてきた彼は、覗き込むようにしながら笑い声を吹きかけた。

「どうして?」

「あなたと同じ身分の人間だと思われるのが嫌だからよ」

 くすくす。本当に彼は楽しそうに笑う。

「詐欺なら問題だけど、君は別に詐称してないじゃないか」

 アンは答えず、スーツケースを引きずって手荷物カウンターへ向かった。

 荷物を預け、ボディチェックを終え、搭乗口で待っていると、受付が開始された。チケットを手渡し、初めて高級席に足を踏み入れた。

 プレミアムクラスの座席なんて、どれくらい贅沢を我慢すれば座ることができるだろうか。CAたちが涼しく凛とした笑顔で席へと導いてくれた座席は、当然通常クラスの席より広く(備え付けのパンフレットによると、間隔は五十インチらしい)、背もたれは優しく背中を支えてくれる。

 ノーク空港からオーラルランド空港へは七時間から八時間。さっきはそこから十時間だと言ったが、実際は空の旅で二時間ほどだ。迎えを寄越すと言ってくれたので、恐らく小型飛行機が待ってくれているはずだった。夜になると飛ばすのが怖いので、できれば早く着きたかったのだが、これなら無事に間に合いそうで胸を撫で下ろす。


 遙かクイールカントを囲むティタスの山は、まだ雪が溶けきっていない、白く蒼い峰のままのはず。風はきっとまだ冷たい。そして、水はおいしい。


 懐かしさと不安の間の気持ちで目を閉じていると、「失礼」と聞き覚えのある声がした。ぎょっと目を見開くと、ルーカスが隣に座るところだった。

「あなたの隣なの?」

「そういう風に手配したからね」

 キニアスを見る目は自然恨みがましくなってしまった。後ろの席で、彼は柔らかく微笑する。あまり悪いことをしたと思っていないらしい。少し腰を浮かして辺りを見ると、乗り込んでいるのは、どうやら、サラバイラの関係者ばかりのようだ。呻いた。

「飛行機を降りたい」

 座席の肘掛けを掴んでがたがたと揺らすと、からからとルーカスは笑った。

「あまりちょっかいは出さないから、許してくれないか。そんなに嫌われると、さすがの僕でも傷付く。八時間もあるんだ。君の横顔を一時間は余裕で眺めていられるから、あとの七時間、何をするか一緒に考えよう」

 嫌われるようなことをして何を言い出すのだ。アンは顔を背けた。肘をつき、唇を尖らせる。プレミアムクラスの席も、隣に王子が乗っていれば普通の席にも劣る。

「……顔色はよくなったようだね」

 安心したよ、と王子は言う。その眼差しは、初対面のときとは違って、こちらを気遣うものだ。

「追い詰めたようで、気になっていたんだ。君は王女という身分にこだわっているようだったから」

「こだわってないわ。だから捨てたのよ」

「自分に最初から備わっていたものを捨てたんだろう。そして未だにそれを覚えている。君はいつも意識のどこかで、自分は王女以外の何かになれないかと模索しているんだ」

「大学は心理学専攻?」アンは棘だらけの言葉を吐く。

「いや、地理学だ。どうして?」

「言い方が『君のことを分かっているから』と押し付けがましいから」

 ルーカスは肩をすくめた。

「すまない。どうやら僕は、君に首を突っ込みすぎるようだね」

 アナウンスが流れた。時間のようだ。景色が流れ、浮遊感。羽ばたいた旅客機は、東の土地、オーラルランドへの旅を開始した。


 小さくなっていく大地、冷たいのだろう白雲に掻き消えていくユースアを見て、妙な心細さに襲われた。何故か、あそこは外国なのだという意識が強くなったのだ。自分で選んだユースアを離れ、一時的にとはいえクイールカントに帰国することになるなんて思いもしなかった。二度と帰らないと決めたのに。

 でも、もしその原因を考えるなら、やはりルーカスの言うとおり、王女という身分は、アンの根本にある腫瘍のように違いはない。無言でじっとしていることができず、椅子の上で動いた。これから八時間。こうしているのは得策ではない。

「図星を指されて腹が立つってことはしょっちゅうなの」

 アンは座席の正面を見ながら、わずかに視線を落として口を開いた。「私、素直じゃないから」

 ルーカスは何も言わない。聞こえていなくてもいいわ、とアンは思う。

「ごめんなさい。気遣ってくれたのに、嫌な言い方をした」

「……まいったな」

 隣を見ると、彼は額を押さえていた。「今、なんて謝ろうか考えていたのに」お互いに距離を測れていないのに、二人の距離は現在五十インチの内の、せいぜい数インチだ。

「私が嫌なのは」

 アンは言う。唇の端に、なんとはなしに笑みが浮かんだ。自嘲かもしれないし、寂しさかもしれなかった。

「王女という身分で、相手の意思や答えを限定させるかもしれないってこと。私が王女なら、イエスと言ったその人が、命令されたのではなく心からそう言ったのだとどうして信じられるの?」

 ルーカスは興味深そうにアンの横顔を見る。

「君はいつも最初から疑っているの?」

「クイールカントでは、そうだったわね」アンは答えた。正確には、母国を出る数年間。

「君の手を握っていい?」

 突然の問いかけに、アンは顔をしかめた。

「握らせなくてもいい。触ってもいいかい」

 しかし急すぎる言葉には、感じたことのない真剣味があった。面食らったが、「別にいいけど」と左手を差し出してみる。彼はその手に何をするでもなかった。優しく重ねあわせて、温もりを伝えてくるだけ。

「僕が王子だから言うことを聞いたの?」

 ルーカスは、息を呑んで引っ込めようとしたアンの手をぎゅっと掴んだ。

「信じてくれる? 僕が真剣に君に触れたかったことを。君が許してくれなければ、誰も君に触れることはできない。アン、王女なんて身分で、自分を縛る必要はないんだ。君は君のものであって、僕は君が聞き届けてくれるのを、息をひそめて待っている」

 今のアンに、頑なに首を振る以外に何ができただろう。ルーカスはアンに結婚を強要できる立場で、彼女を王女ひいては王妃におさめ、束縛する存在だとしか思えなかった。彼が折り目正しく真摯であり、気遣いのできる人間であることが理解でき、アンは反省した。彼の言葉は多少アンを自由にしたが、それでも心の底にある過去や傷を、彼が共有できるとは思わなかった。

「私はあなたと結婚する気はないの」

「今はそれでいいよ。一ヶ月後、君は僕に『愛している』と言わなければならないのだから」

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