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マリッサがリンドグレーン氏と結婚して五十年になる。昨年夫をなくしたが、それでも彼女は彼のたった一人の妻だった。二十二で結婚して、彼女はもう七十七歳になってしまったが、女らしさは失ってはいないつもりだ。テレビスターの少女たちのような服装は、時代遅れと言われようと品がないと眉をひそめてしまうが、流行遅れにはならないよう意識している。先日も、髪をカットしたばかりだ。そのように女を保っていると、嗅覚と呼ぶべきものが、年を重ねてから働くようになったことに気付くのだった。それは第六感に似ていて、だがにおいのようにはっきりと嗅ぎ分けられるのだ。彼女には、いい男とわるい男が分かる。
アン・マジュレーンが家の窓の前を、春風にそぐわない険しい顔つきで早足に歩き去っていく。見送って、マリッサは微笑んだ。アンはいい子だ。ちょっと古臭く、頑なな、きかん気の少女のまま大きくなったよう。それゆえに純粋で、うまくいかないことも多いのだろう。あんなに厳しい顔をして、一体何をしにいくというのか。
悪い男に引っかからなければいいけれど、と老婆心ながら考えるマリッサだった。心の隙をつく男は多い。アンのような娘が一度警戒を解いてしまえば、あとはするすると入り込まれてしまう。その隙をついたのが、先日まで彼女の恋人だった男だった。大学を出て働き始めたばかりの若い娘の恋人に収まった、三十代の男。あれは本当にいけなかった。裏で何をしているか分からないにおいが、食虫植物が出すにおいのようにまとわりついていた。アンがきっぱり別れられてよかったと思う。彼女は、その辺りは筋が通っている。嘘が嫌いだと公言するだけあるわ。
すると、彼女が去っていた方向から、一人の若者がやってきた。目を止めたのは、その青年が、いかにも品がよく、甘い言葉を囁くのだろうと思わせる容姿と清潔さを持った人物だったからだ窓と防犯用の格子越しに彼を見ながら、マリッサは思った。アンはこういう子と恋をしたらいいのに。
アパートメントの階段が軋む音がする。おや、と思った。どうやら、彼はこのアパートに用事らしい。二階へ上がっていくようだ。
鼻が『そのにおい』を嗅ぎ取ったので、マリッサは急いでお茶の準備をした。テーブルクロスをかけ、ティーセットを準備し、カップを二つ、置こうとして、ひとつを棚に戻した。そして、階段が軋むと、いかにも外の様子を見に来たという顔で、玄関の扉を開け、初対面の訪れ人を見上げた。
「こんにちは。どなたかに用事?」
空港から自宅までのルートを吟味して、クイールカント人にも聞いたことがあるような場所、施設、店があるところに見当をつけ、アンは地下鉄とバスを使って母を探して回った。大統領府の前までも行った。しかし、白い建物は優雅に大らかに国旗をはためかせているだけだ。やってきて気付く。ここは、観光客が写真を撮りにくるようなところで、カメラの使い方もよく分かっていない母が長い間うろつくところではないのだ。それでは、派手好きのマリアンヌ・マジュレーンが、自由な時間を得てユースアの都市ノークで見たいと思うものはなにか。クイールカントになくて、ユースアにあるもの。お目付役がいなくて、自由にできるところ。
「カジノだわ」
クイールカントでは、ギャンブルは法律で禁止されている。だがユースアには国営のカジノがあった。騒がしいことが大好きなマリアンヌが好みそうな場所だ。時間は午後三時。夜まで張っていたら、必ず現れるに違いない。
バスを乗り継ぎ、カジノのある繁華街まで出た。その時点で午後四時近く。日差しはゆっくりと傾いてきており、観光なのか、大型バスがホテルに次々と向かっているようだった。無数の車両と観光客が行き交う中、腕を組んで不機嫌に一人立っているアンは商売女だと思われそうだが、構わない。母を捕まえるのが最優先だ。
人混みに目を凝らしていると、場所によって人の持つ雰囲気が違うことに気付けた。ユースアでは誰もが派手だ。享楽的で、刹那的。一瞬で燃え散る花火のよう。儚さはないし、品がないこともあるが、彼らにははち切れんばかりの夢がある。アンだって、大学留学を機にユースアに来て、ここで自由になるのだと思った。そのまま、クイールカントに帰っていない。あそこは、アンを縛り付ける。だからこそ『あれ』を捨てたのだ。父と兄は認めてくれたが、母はどうだろう。泣かれた記憶しかない。会って何を言われるか。出版社に就職した娘が、実は使い捨てのコラムニストだと知ったら。
視界の隅に、見覚えのある銀髪を見つけて、目を凝らし、すがめると、アンは動いた。信号が変わった道を早足で近付いた。腕を組み、男の肩に頭をもたせかけていた女性の肩を、軽く叩く。彼女は立ち止まり、振り向いた。顔を見た瞬間、相手からは歓喜が、一方では身体の奥の方から怒りに似た倦怠感が吐き出された。
「母様」
「まあ――まあ、アン!」
男の腕を離したマリアンヌは、アンの両頬を包んでキスをする。
「懐かしい娘の顔をよく見せてちょうだい。ああ、母様の若い頃よりもずっと綺麗になって!」
キスを返しながら、アンは言った。
「こんなところで何をしているの?」
「何って、アン」
「何をしているのか聞いているのよ」離れかけた母の手を包み込みながら、笑顔で尋ねた。恥じらいながら、隣にいた青年の顔を見るマリアンヌに、アンの頭は沸騰寸前だった。父様より二十以上年下じゃない!
「娘さん?」
「ええ、五年以上会っていなくて」
そう、と青年は笑顔を見せた。母と一緒だったところを見ていなければぐらつきそうだが、今は殴り飛ばしてやりたい。母を殴れない代わりにだ。溢れる怒りを押さえつけて、務めて冷静にアンは言った。
「ここまでありがとうございました。母を連れて帰ります」
「いや、それよりも君も一緒にどう? これから食事に行くつもりだったんだ」
「あなたの家を探していたら、ご親切にもお食事に誘ってくださったのよ」そう言うマリアンヌは、この辺りが歓楽街だと絶対に気付いていないのだった。彼が、観光客や富裕層の婦人を相手にする男だということも。
「申し訳ないですけれど、お断りします。ずっと母を探していたからくたくたなんです」
「ねえ、アン。少しくらい――」
「帰りましょう」とアンは遮って、母の手を取って歩き出した。しかし、彼女はそこから動こうとはしなかった。
「いやよ、いや。せっかくユースアに来たのよ。少しくらいいいじゃない。私、買い物しかしてないのよ。ティッフェとガシューとディアしか見てないわ!」高級ブランド店の名前を挙げる母にうんざりした。そんなブランド、もう何年も身につけていない。
「聞き分けのないこと言わないで。いい歳のちゃんとした大人なんだから」
「そうよ、私はクイールカントの王妃よ!」マリアンヌは爆発した。周囲の目が、興奮で瞳を揺らす銀髪の女に向けられる。
「私の自由なんて限られているのよ。だからユースアで少しくらい遊んだっていいじゃないの!」
その場に子どものようにしゃがみ込んだマリアンヌに、みんなが注目している。同じように頭を抱え込めたらどんなによかったか。アンは深々とため息をついて、「こういうことなんです」と静かに言った。青年は、「大変だね」と苦笑とも同情ともつかない顔で、タクシーを呼んでくれた。
ホテルを聞き出そうにも口を割らないマリアンヌと同乗し、アンは仕方なく自宅へ戻った。母は古いアパートを物珍しそうに外から眺め、興味深そうに階段を上がっていく。「静かにしてね」と前置きしてから、アンは初めて、家族を自宅に招き入れた。
部屋には、椅子が二脚とテーブルがひとつ。テーブルには資料と本とパソコンが乗っている。ソファの前にはテレビ。同じ部屋にカウンターキッチンがあり、隣は寝室になっている。母が考えていることが手に取るように感じられた。この部屋を、馬小屋と同じくらいだと考えてる。
客を迎え入れたしきたりとして、礼儀正しくコーヒーか紅茶を尋ねた。ぼうっとしていた母は「あっ、そうね、じゃあ紅茶を」と答え、迷った末にソファに腰を下ろし、驚いて飛び跳ねた。どうやらスプリングが古くて沈みすぎたらしい。笑い出しそうになったアンだが、代わりに目を伏せた。
静かだった。午後六時、薄明かりの空の下、仕事人の多いこの街では、まだ帰宅時間には早い。こぽこぽと湯の沸く音を聞きながら、何を言おうか考えた。言いたいことはある、山ほど。けれどどれから切り出したら、彼女のヒステリーに付き合わずにすむだろうか。
紅茶の缶を取って、そのにおいを嗅ぐと、実家でのティータイムを思い出してしまった。母は、お茶を入れるのが得意だった。それが彼女の子ども時代から続く日常だったのだから当然だろう。視界の隅に動くものが見えたので、もたれていたシンクから離れると、母が笑顔でキッチンに入ってくるところだった。
「お茶、私が入れるわ」
吐き出してばかりの息は、少しだけ軽くなった。
「ええ、お願い」
茶葉がずいぶん湿気ていたことに気付かない母ではないはずなのに、彼女は黙ってお茶を入れた。風味はだいぶと落ちていたが、それでもしっかりと母の紅茶だった。
「兄さんからメールがあったわ。母さんがそちらに行ったかもしれないからって」
「そうなの? ちゃんとメモを置いていったはずよ」
「またいらない書類の裏に書いたんでしょう。あれは重要文書の場合があるんだから止めなさいって父様が言っていたじゃない。侍従が片付けたんだわ」
「そうね。これからは気を付けるわ」
口だけの返答を口にして紅茶に目を落とした母は、意を決したようにアンを見た。
「アン、帰っていらっしゃい」
「いやよ」
母の瞳が、目に見えて批難を浮かべる。アンは、これまで何度も電話口で告げてきたことを面と向かって言い放った。
「いい? 私は、母様が『クイールカントの王妃』を主張するのも嫌なの。それも、あんな道の真中で。ここがユースアだったことが幸運だった。クイールカントなんて国、知っている人の方が稀だもの」
そしてあれはパフォーマンスか妄言だと取られたに違いない、とアンは思った。マリアンヌは悲鳴をあげた。真実を真実といって何が悪い、という強さで。
「だって、あなたは、クイールカントの第一王女なのよ!」
それが嫌なのだ、とアンはカップを握りしめる。
「言わないで」
「お父様は国王、母様は王妃。兄様は皇太子で、あなたは王女よ」
「王位継承権を放棄した人間でも王女だって主張できる法律はあったかしら?」
大学卒業と同時期に、アンは父に頼み事をした。自分を、クイールカントの王位継承者から外してほしい、と。それはこれから自由になるために必要な措置であり、アンがプリンセス・オブ・クイールカントではなく、アン・マジュレーンとして生きていくに必然的な儀式だった。今でも間違っていなかったと思っている。
「私は認めていなくってよ」
マリアンヌは声を震わせた。「王位継承権を持っていなくても、系図から消去されたわけではないもの」
お手上げだ。両手を挙げたアンは、首を振ると、カップを持って席を立った。
「落ち着いたならホテルに戻って。護衛の人たちが心配するわ。私は帰るつもりはないし、王女だって主張して生きていくつもりはない。父様には悪いけど、私は、ミシア女神の教えがないところで生きていくの」
安物のカップを振った。今では高級カップを使うことすらためらわれる。割って当然、好き勝手に使っていた自分に震えるくらいだ。
さあ、兄にメールを打とう。母が来た。多分これからそちらに戻る。ちゃんと言って聞かせておいて。アンはもう戻っては来ない、と。
「戻ってくるわ」
呟かれた一言に、アンは吸い寄せられるように母の顔を見た。
「戻ってくるわ、あなたは」
イビル・スピリットに取り憑かれたのではないかと思わせる暗さで、母はそう言った。影のように立ち上がったマリアンヌは、ごちそうさま、と言うと、幻のように立ち上がった。
「またね、アン」
そうして出て行った。声もなく見送る娘を、妖精か幽霊のように振り返って微笑みを残して。
アンはインターホンの音で我に返った。どれくらいぼうっとしていたのだろう。外はすでに真っ暗で、慌ててカーテンを閉めていると、またブザーが鳴った。
相手は宅配便だった。大きな箱が二つに、花束が二つ。最後に、両手で包めるような箱がひとつ。
荷物を部屋に入れて、花束のカードを眺める。友人たちの連名だ。
箱は家族。父からのプレゼントは、母との連名で高級スーツの一揃え。兄からはイブニングドレス。親子で共謀したのだろう。しかし、すでに母の名前があるのに、一番小さな箱が母からだったことに驚いた。もう一つのプレゼントがあるのはどういうことか。開けるのが怖いような気がして、しばらく眺めていた。
手に取ってみると、軽い。振ってみるとかさかさと音がし、こつんと中で当たる音がした。中には更に小さい箱が入っているらしい。
息を吸って、思い切って開けてみた。入っていたのはまた四角い箱。更に開けると、ジュエリーケース、それも指輪が入るような容れ物になっていた。眉が寄る。どうして、指輪?
しかし、中を確認して理解した。南海の色をした宝石の指輪。
『深海の指輪』だわ。母が現れたことで断続していた回線がつながっていた。すぐにクイールカントと結びつけることができたアンは、それが故国の宗教、ミシア教で聖装身具と呼ばれる装飾品のひとつ、深海の指輪だということに気付いたのだった。もちろん、イミテーションだろう。本物は送りつけてこられるはずがない。ユースアで信仰されている救世主信仰で言えば、聖遺物に当たるものなのだから。
去っていった母の後ろ姿を思い浮かべた。クイールカントから送りつけて、ここまでやってきた彼女の心境はいかばかりだったろう。もう少し、優しくすればよかった。後悔は先には立たない。強情な娘で申し訳なくなる。
指輪を手にしてかざしてみると、金属部分は新しいものかきらめき、昨今の指輪と比べると少し重たいようだった。宝石も、金属部分も、大振りだからだろう。シンプルなのに、高価な物だと分かる。
(でも、そんな指輪をどうして私に?)
母が娘へ指輪を受け継がせるなんて、何かのタイミングが必要なことだ。王位を継承するとか、自分が死を間近にしているとか。推測が暗い方向になって急いで明るい方を考える。例えば、なんだろう。――結婚とか?
「何か勘違いをしているとしか思えないわ」
アンがユースアに居続けるのは、結ばれない恋人がいるからだとでも思っているのだろうか。母にはありそうな推測で、笑みがこぼれた。指輪をしまう。メールで父に聞いてみよう。きっと、黙って送って寄越したに違いないから。
そのとき、またブザーが鳴った。
「はい、どちらさま?」
「レディ・アン・マジュレーンのお宅でしょうか」
物腰柔らかな声だが、この国では不自然すぎるほど丁寧な声だった。
「どちらさまですか」
「キニアスと申します。クイールカントの王女殿下にお話があって、サラバイラから参りました」
警戒レベルが一気に上がる。アンはこちらに来て素性を明かしたことがほとんどない。職場の人間にすら話していないのだ。逡巡した間に張り詰めた空気と緊張を感じ取ったのか、ドア向こうの声は言った。
「怪しいとお感じになるのは道理です。近くのカフェでお待ちしておりますので、お話を聞いていただければと」
「いいえ、今開けます」この時間なら帰宅した人々がいる。階下のリンドグレーン夫人も来訪者に気付いているはずだし、騒ぎが起こったら通報してくれるはず。それに、クイールカントの隣国がサラバイラだと知っている人間がこのユースアでアンを探し当てられるなら、それは母国や近隣諸国の関係者の可能性が高い。
扉を開ける。目の前に立っていたのは、黒髪に青い瞳をした、スーツをきっちり着込んだ美丈夫だった。眉目秀麗さに威圧されて、つかの間、言葉を失う。
「突然のご訪問申し訳ありません」
「いえ――」
どうぞ、と言う間もなかった。横から手が伸びてドアが掴まれたのだ。
「失礼」と身体を滑り込ませてきたのは金髪の男。悲鳴をあげた。ドアを咄嗟に閉めようとしたが、男はするりと室内に侵入してきた。飛び退って、アンは恐慌状態でテーブルの上を掻き回す。電話が、見つからない。
「出て行きなさい、警察を呼ぶわよ!」
「毛を逆立てた子猫のようだ」と男は納得したような、落ち着き払った声で言った。
「聞こえないの、出て行きなさい!」
「失礼いたします。ルーカス様、これでは押し込み強盗です」キニアスと名乗った男が、二人の間に立つ。その後ろから屈強な男たちが続々と現れ、アンは卒倒寸前まで青ざめた。それらを押しとどめたキニアスが、深々と礼をする。
「乱暴な真似をして申し訳ありません。どうか落ち着いてください、殿下。わたくしどもはあなたに危害を加えるつもりはありません」
「だったら出て行って」
震え声でなんとか強く言うと、彼は頷いた。
「お望みならば。しかし、わたくしとルーカス様だけは、この部屋にしばらく滞在する許可をくださいますよう、お願い申し上げます」
金髪の男を見る。眉を寄せた。いかにもハンサムという、繊細な顔立ちをしているが、何故かとても楽しそうにこちらを見ている。彼は言った。とても深く柔らかな声で。
「君に話がある、プリンセス・アン」
アンは眉を寄せた。
「私を知っているあなたは誰なの」
「君に近しいものだ、アン。プリンス・オブ・サラバイラと言えばわかるかい?」
アンの記憶に間違いなければ、サラバイラに王子は一人。兄より三つ年下の皇太子がいた。呻くように絞り出す。
「ルーカス・ジール・サラバイラ?」
彼は満足げに頷いた。
「知っていてくれて嬉しいけれど、ジールではなくジークだ。アン・ミシュア・マジュレーン・クイールカント」
「知ってるわ」と非常に遺憾ながらアンは答えた。わざと混ぜた嘘に反応した。どうやら本物らしい。こんなところにフルネームを呼ばれるとは思ってもみなかった。
アンの言葉に、彼は上品なジョークを聞いたときの反応をした。つとめて優雅に、くすりと笑ったのだ。
しばらく彼らを睨みつける間があった。受話器が手に触れていたアンは、更にそこから三十数える。そして、男たちが動かないことを確認して、電話から離れた。
「いいわ……話を聞きましょう。その人たちをどかせてちょうだい」
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