Chapter.1
1
窓を開けて、排気ガスのにおいのする風を感じると、アン・マジュレーンはここが自由の国だということを実感する。そこに白っぽい灰色の雲と、黒い高層ビル、無数の車が苛立ちに鳴らすクラクションが交差すれば完璧だ。夜はビルの窓明かりと広告看板、車のライトが銀河の星よりもまばゆく溢れる。母国の人々が悪趣味な、と眉をひそめるような、一方では羨望を抱くような、合衆国ユースア。
もしアンがひとつだけ彼らに賛同し欠点をあげるとするなら、それは水がまずいことだった。意識がはっきりしていない起床時など、口に水を含んで、その苦みにぎょっとすることがある。瞬間的に目覚めた意識が、ここは母国ではないのだと実感させ、まだ芯からこのユースアの人間にはなれていないということを思い知らせるようでアンを歯がゆくさせた。まだあの国に縛られている自分を思うと、プラチナブロンドの髪すら憎らしくなった。色素の薄い髪、瞳、肌は、母国クイールカントの民族の特徴だったからだ。
家族にはシルバーブルーともてはやされた目をすがめて、アンは窓の外のビル群を眺め、自分のデスクに戻って、立ち上げたままのワープロソフトと向き合った。スクリーンには打ちかけた文章。小一時間彼女を悩ませてきた、ミニコミ紙に掲載される予定のコラムの原稿だった。
気取らずに書けばいいのよ、とアンは何度も繰り返した言葉をもう一度唱えた。気取らずに書けばいいのよ、母国で詩作は褒められたじゃない――今も過去に縋っているようで、口の中になんともいえないものが広がった。さきほどようやくデスクに戻ったばかりなのに、苦いコーヒーが恋しくなった。苦い水で、とびきり苦いコーヒーを。でも時々、いいコーヒーを飲めばいい文章が書けるんじゃないか、澄んだ故郷の水が恋しくないかとイビル・スピリットがささやくように思うことがあった。
ああ、またミシアの教えで考えてる。ミシア女神と七人の聖女(セブン・セインツ)と悪霊(イビル・スピリット)。ユースアとクイールカントの距離は約六千マイル。海を隔てた向こうだ。母国の宗教は捨てたはずなのに、まるで千年根ざしたもののようにアンを無意識にまで根を張っている。
電話が鳴る。結局コーヒーのためにセットした電気ポットの温度を確かめてから、アンは受話器を取った。
「はい」
『やあアン。原稿の進み具合はどう?』
「一本は終わったわ。『女性の美とロマンスの関係性』に掲載する予定のものよ。サーバーにアップロードして……メールを送ったんだけど、気付かなかったみたいね」
パソコンの前に戻って、メールソフトを立ち上げると、そのメールは送信済みになっている。メールの方が証拠になるのに、この女性向け書籍を扱う小さな出版社〈メイリー・ローラー〉の副編集長はまだアナログ人間だった。だから田舎の小国から出てきた、古臭いくらいきかん気なアンを気に入ったのだろうけれど。
「それで、どうしたの? 何かミスでもあった?」
『言いにくいんだけど……昨日送ってくれた原稿があったろう、『ミス・エレガントとミス・キャリア』っていう』
アンはため息をついた。「またボツったのね」
『ボツったんじゃない。編集長はいい文章だと言ったんだよ。でも、ジェンダーについて特集してある雑誌に、君の文章はいささか、そのう』
「酔っている?」
『ちがう、ちがう。ロマンティックすぎるんだよ。君の文章は古風だ、アン。古典的で美しい、それは編集長も認めているし、僕だって面白く読んでるよ。ただ、現代女性がこれを好んで読むかっていうと』
「もういいわ、ありがとう。それ以上ぐだぐだ言うのはやめて。私は嘘が嫌いよ。はっきりさせましょう。書き直せばいいのね? 現代女性が、好き好んで読む、スタイリッシュな文章に!」
『そうしてくれると助かるよ』電話の向こうで、球体のような身体を更にほっと丸めた男の姿が想像できた。アンの怒りをぶつけられなくて安堵しているにちがいない。編集部のアンの先輩として、そして指導係として接触が多い分、彼は激しいアンの怒鳴り声の雨にやられることが多々あった。
その後は進行具合の報告と、掲載原稿の確認にデータを送ってもらい、いくつかの細かい仕事を回されることになって、電話を終えた。しかし受話器を置く前に、副編集長は明るい声でアンに言った。
『ああ、そうだ。アン、今日は誕生日だね? ハッピーバースデー。プレゼントが仕事でごめんよ』
パソコンのカレンダーは、確かに三月の二十六日。アン・マジュレーンの二十四歳の誕生日を指し示していた。
「ありがとう、ジミー。仕事があるのは嬉しいから気にしないで。それじゃ」
静かに受話器を置いてから、アンの口からは軽くため息が洩れた。
数少ない友人たちはアンの誕生日の今日もそれぞれ仕事だが、この週末には、彼女たちが予約を入れてくれたレストランで一緒に食事をすることになっている。半年先まで予約で埋まっているという高級レストランで、シャンパンを飲もうと約束していた。そのことを不満に思うわけではないが、しかし最近恋人と別れた身としては、やっぱり恋人と過ごす誕生日が恋しい。
パソコンから受信音が響く。未開封メールが三通。一通は父から誕生日祝いのメール、もう二通は兄からで、ひとつは父と同じ祝いのメールだったが、もうひとつは奇妙なものだった。
『愛するアンへ。
祝いのメールと一緒にするのはどうかと思ったので、二通目を送信しておく。
今、ちょっとした事件が起こっている。
しかしどんなニュースを聞いても帰ってくる必要はない。
心配しなくていい。父上と私で解決する。
知らせないと何かあったときに困るから、伝えておこう。
母上がいなくなった。』
ポットが蒸気を噴き出した。慌ててスイッチを切りに走る。手がふたから洩れた蒸気に触れて、熱さのあまり手を引っ込めた。蛇口を捻って水にさらすと、騒いでいた心も落ち着いてきた。もう一度、メールを眺める。
『母上がいなくなった。
パスポートを持っていったようなので航空会社に問い合わせたら、母上の名前でユースア行きのチケットが取られていたようだ。
もしかしたらそちらに行くかもしれない。
何を言われても慌ててはいけないよ。
お前の自由を奪われないようにしなさい。
私たちも最善を尽くすから。
詳細が明かせずにすまない。
愛している。
マクシミリアン』
アンは額を押さえた。母様が、ユースア行きの飛行機に乗った、ですってあの、美しい箱庭で育てられながらその中身をひっくり返す遊びが大好きな幼児みたいな母親が。
気がつけば、部屋の前へ行き、またパソコンの前へ戻ることを繰り返していた。ジャケットを取りにいこうか悩んでいたのだ。この街で母が見つかる可能性は低いが、それでもどこかで騒ぎを起こされるか迷子になられるよりはましのように思えた。
結局、アンはパソコンをスリープにし、電話を留守電に切り替え、電気ポットのコンセントを抜くと、ジャケットを羽織り、家を出た。アパートメントの階段を軋ませながら降りていくと、ちょうど階下の住人であるリンドグレーン夫人が、両手に紙袋を抱えて買い物から戻ってきたところだった。
「こんにちは、アン。どこかへおでかけ?」
「こんにちは、リンドグレーン夫人。ええ、ちょっと」
「それがいいわ。あなたみたいに健康で若い女性は、出会いを求めにいくべきよ」
アンは軽く微笑み、夫人が自宅の鍵を開けるまで、荷物持ちを申し出た。リンドグレーン夫人は足が悪い。でも、どうしてアンが恋人と別れたことをすでに知っているのだろう。
「あの子はあんまりよくなかった。遊んでいる雰囲気があったわ。自分の母親の悪口ばかりを言っていた。ねえ、アン。自分の家族を大切にできない人間に、恋人が大切にできると思う?」
「おっしゃることごもっともです」アンは扉を押さえて、夫人が中に入るのを待ってから、自分も中に入って尋ねた。
「これはキッチンのテーブルにおけばいいんですか?」
「ええ、お願い。お礼にお茶でもどう?」
夫人の申し出は魅力的だった。彼女のスコーンもジャムも絶品だったから。
「いただきたいんですが、これから出掛けなければならないので」
「ああ、そうだったわね。ごめんなさい。行ってらっしゃい、アン。手伝ってもらって助かったわ、ありがとう」
リンドグレーン夫人宅を後にすると、アンは街中で繰り出した。春の風は街のにおいで埃っぽく吹き付ける。母が行きそうなところ、それは、美しいもの、眩しいものきらびやかなものがあるところだ。
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