5.
AM02:00、都内の某アパートの一室。留守電の再生ボタンに手を触れたまま、晴都が青ざめている。
「やってくれる…みぃの奴」
彼女の素行からいって…真面目というより素直すぎる性格からいって、見知らぬ土地で“切れた”時の暴走は容易に想像できた。しかし、いくらみぃでも、まさかここまで拗ね方が度を超すとは、さすがに予想できなかった。
「さーて困った。あいつスキだらけだし…」
そこで突然ベルの音が響く。晴都は反射的に受話器を取った。
『あーっいたいた。晴都くーん、蒼くなってる?』
「誰だ?あんた」
男の声である。知らない声である。にしては緊張感があまりにも無さすぎる。
『あんたを訪ねてきた酔っ払いに絡まれて、困ってんだけどお。えっと、あー名前聞いてねーや、本人の。ははっは』
「ははっはって、みぃはそこにいるのか? そこどこなんだ?」
『あはははははは、みぃっつーのかこいつ。ますます仔猫ですねー』
とりあえず居場所はわかったが、この電話の主も少々危なげである。誘拐など考えるタイプではなさそうだが、無邪気の度を越している。
「それでー、今どこにいるんです? あんたたちは」
「電話、終わったぞ」
すっかり人影の消えたホールの玄関前、座らせておいた碧の前に戻ってくると、碧は肩を震わせてうつむいている。
「おい、あー又泣き出したのか? あんた、酒癖悪いなー」
「もー…わけわかんなーい…」
「だから、何が」
「わかんないのーっ。MARIA大好きだけど、本気で好きになっちゃいけない。晴都大好きだけど、そばにいてくれないから、大嫌い」
「そばにいてくれる奴がいいなら、何でそんな奴にほれたんだよ」
貴希が問い掛けると、碧は少し考えて、やがて唸り出した。
「だーかーらー、わかんないよーって言ってんでしょ? 自分の好きなことに熱中してるとこにほれちゃったんだもん…」
貴希は段々苛立ってきた。よくわからないながらも、どうも自分がダシにされているだけのような気がしてくる。
「帰れよ、晴都んとこに」
「…やだ。晴都、今顔見るとあたし混乱する」
「さっき晴都に電話した。ここに、迎えに来るって」
革表紙の手帳を手渡しながら言うと、碧は驚いて顔を上げた。
「パーカーのポケットだよ。疑うなって」
慌てて言う貴希の顔を碧はじっと見つめ、突然顔をしかめてまた泣き出した。
「それ、それだあ、その顔。その弱みに付け込んだ顔がやだよー」
「何だよ、どーいう意味だよ。失礼な奴だな」
「どーして、MARIAそっくりの顔して目の前にいるの? 人が一番傷ついてる時に」
もう、我慢ならない。
「それじゃ、これ何だよ?」
貴希の掌に、一枚の紙切れ。今夜のライブのチケット。半券を切っていない。
碧の顔色が更に真っ赤になる。
「返してよー!!」
「何でそーんなに好きな、大っ好きなMARIAのライブに行かなかったんだーよっ」
「あたしは、もうMARIAに熱中する時期は過ぎたの! だーかーら、今日のライブで卒業するつもりだったんだよぉ」
「卒業? 何だよそれ? 俺はガキの御守りか? アイドルなんて所詮そんなものかよ」
「ちがう、そうじゃない。そうじゃなくて…」
碧はハッとして言葉を探り直した。貴希そっくりの顔の彼に、苦しそうに言い捨てられ、ついせつなくなる。
「段々、見てるだけじゃ我慢できなくなるんだよ。抱きしめて欲しい、私だけを見てほしい、独占したい…。
そして、その気持ちはアイドルなら、ファンにとってはルール違反だもの。そう気づいたときにね、自分の気持ちが大嫌いになってしまったの。
ねえ…大人になるとね、純粋であるほど、強欲になるんだって。何かの本でそんなのがあったけど、あたし早くMARIAにそんな気持ちを感じないようになりたかった。
だから、今日久しぶりに晴都に会って、彼への気持ちが本当なのか確かめて、そして今日のライブをMARIAからの卒業式にしたかったの。なのに、いつの間にかこんなことになっちゃって…」
碧は、まだ酔いの回っている頭なりに一生懸命考えながらしゃべり続けている。この、MARIAそっくりの少年に自分は油断なくしゃべり過ぎている。しかし、眼鏡のフレームの奥に透ける目に、碧はどうしても言葉を止められない。MARIA本人への想いが言葉になっていくのを止められない。
「あんた、もしかしてまだMARIAから卒業したくないんじゃないか?」
方向を定められない碧の恋の葛藤が、貴希の胸を打つ。その想いが自分に向けられていることが貴希を戸惑わせる。
「苦しくないのか? 何でさぁ、そんな風に苦しむんだ? 好きっていう気持ちにルール違反があるのか?」
貴希は、本当に当たり前のように、ずっと昔からの友達のように碧の顔を覗きこんだ。その瞬間、ガツッ、碧の握りこぶしが貴希の頬に飛ぶ。
「ばかやろうっ! その顔で人の弱みに付け込むなって言ってんでしょ!!」
呆気に取られて頬を押さえる貴希に目もくれず、碧は小さな子供のようにわんわん泣き出した。
貴希は碧に背を向け、耳を塞いで考えていた。
貴希が15の時、児童劇団からそろそろ卒業、という時に今のプロダクションから歌手デビューの誘いがあった。既に実力派女優へのイメチェンに成功していた智子の後を追い、漠然と芝居を続けたいとは考えていたが、何となく事務所を選びかねていた時である。噂を聞き付けた智子は、電話でこう言ったのだ。
「いい話じゃない。新しいことやってみるのって。貴希、歌手合うよ」
「俺、でも音楽の成績散々だったしさぁ」
「貴希、歌手の価値ってね、学校の成績の付け方と一緒にしちゃだめ。歌を聞かせるんじゃなくて、歌い手の生命を言葉でぶつけるの。ねえ、他人の剥き出しの生命を感じることは人を生き物として生かすものよ」
歌を始めたのは智子のすすめからだったが、本当は今も彼女の言葉の意味は今一つ理解できていない。
碧はそんな貴希の歌う姿にこんな感情を持っている。歌うこと、演じること、そして智子。これらのみで構成されていた、いや恐らく総てが智子に根差していた貴希の世界に、突然飛び込んできた碧のストレートな感情は(酒の力を借りたとはいえ)、不快というより新鮮であった。
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