4.

「何だよー、昨日のドラマ!!」

「貴希ったら、何すねてるの? まさか、あたしのキスシーンが気に入らなかったなんて言わないでしょうね?」

 図星である。智子のこういう言い方は、ずるい、と思う。貴希がガキだ、ということがいやでもはっきりしてしまう。

「何であんな仕事引き受けたんだよ」

「貴希、それはわがままです。あたしは貴希のために女優やってるわけじゃない。…17歳の女の子が、恋してドキドキして生きてる、その子の存在をただ誰かに知らせたいだけ。あたしのこの体を通して」

 ああ、そうなんだ。このひとは、そのために始めから生きてるんだ。誰の物でもない、誰の傍にいる存在を生きるために。

「そんな顔しない! 貴希だって役者やってるならわかるでしょ?」

 智子の、無防備な一輪の花のような顔が、不意に近づいてくる。

「だから、貴希もいつか、見ている人が自分の恋みたいにドキドキするキスシーン、演じられるようにならなきゃ」

 貴希の部屋で、二人は長い間、ただじっと唇を重ねていた。

 しかし、このファーストキスが、貴希の“役者”観に長く迷いを与えることになるのである。


 碧にしても、これが初めてのキスではない。晴都のぶっきらぼうで、むしろ碧より照れて、すっと唇を重ねるキスを、碧は気にいっている。

 しかし、たった今のは何だろう? 二人ともしっかり目を開いたまま、ただ本当に重なってしまっただけのキス。あまりの色気の無さに、碧もつい、笑いだしそうになった。

「まーーーったく。嵐のように怒って、湖みたいに黙ったと思ったら、仔猫みたいに笑いだすんだ」

「だって、とりあえず、あなた安全そう」

 碧はにこっとして貴希の眼鏡をのぞきこむ。碧の顔は別段、美形ではない、どちらかといえば凡人の顔である。ただ、際立って目が美しいのである。仔猫の警戒心のない目に似ている。

「熱、あるんでしょ? なのにあたしのこと心配して一緒にいてくれてる」

「甘いなー、やっぱり一人にしておけない」

 これは、あくまでボランティアである。自分はとりあえず今だけ、このガキの保護者なのだ。…しかし困った。貴希はこの拾った仔猫を連れて、ただ歩き回るしかできない。

「ね、どっか連れてってよ偽者さん。おもしろい店とか、知ってるんでしょ?」

 貴希もたぶん、彼女と同じくらい箱入りである。学校はもちろん、業界にも遊び友達がいない。貴希の毎日は智子と仕事で埋まっていたのである。

「駄目。あんたみたいな奴はどこ行っても危ない」

「あのね。あなたこんなに熱があるんだから歩き回ってる方が危ないでしょ?」

 背伸びして貴希の額にさっと当てた碧の掌は、ひんやりしている。貴希は一瞬黙り込んで、その冷たさの余韻に酔った。智子も手は冷たかったな。こういう人は心はあったかいって…。

「あなた、マジでかなり熱あるよ。風邪? それとも」

「あ…これは何でもない。喉も鼻もなんともないし」

「あー、もしかしてそれ恋わずらいよ」

「馬鹿、そんなもんでこんな熱出るわけねーだろ?」

「わかってないね。こころって馬鹿にできないものなんだよ、意外と。あたしもあったよ、そういうの。MARIAのライブでね、酸欠で目回したの、18の時。…何よー、そんなに笑わないでよ!!」

 声を殺して笑う貴希に、碧がふくれてみせる。

「だって、そりゃ恋わずらいとは次元が違う

「表向きはね」

 碧が溜息をつく。

「名古屋のライブで初めて、手の届きそうな席でMARIAを見たの、その時。…でね、手を伸ばしちゃったの。手が届きそうだなあって、ぼーっと思って」

「はあ、…それで?」

「届いちゃったの、本当に」

「で?」

「握っちゃったの。歌の最中だったのに。ところがMARIAは一瞬びっくりした顔して、でもすかさずニコッとか笑って、あくしゅになっちゃったの」

(…思い出した。こいつか。)

 ライブ独特のハイな状態では、そういうファンはそう珍しくはないが、名古屋での、握手したまましばらく呆然と立ち尽くしていた相手のことは何となく印象に残っている。貴希がちょっとしたファンサービスのつもりで、繋いだ手を握り返してやったのだが、突然我に帰ったような表情をし、乱暴に手を引き離したその後、彼女は席に座り込んだまま、うずくまってしまったのだ。

「自分がね、急にこわくなったの。あのまま惚けてたら、あたしMARIAの手を引っ張ってたかも。MARIAが手を握り返してくれてパッと目が覚めたんだけど」

 話しながら、段々彼女の顔がうつむいていく。しかし、少し涙ぐんでいるのが声からわかる。

「自分がね、急にこわくなったの。あのまま呆けてたら、あたしMARIAの手を引っ張ってたかも。そしたら目が回っちゃって…。一緒に来てた友達に送られて帰ったら、熱が出て、次の日も動けなかった」

 貴希は碧の話を聞きながら少し怖くなった。ファン心理、といっても立派に熱愛級の純愛。貴希にとっては握手ひとつでも。

「あんたと同じレベルで考えねーで欲しいけど」

「何?それ。あたし共感してんのよ!…あーあ、やっぱり顔真っ青じゃない。はい、これ着たら?」

「じょーだん、コートの上からなんてみっともねーじゃん」

「何言ってるの、そーんな薄いコートで。自分の体と恰好どっちが大事? これはメンズのLだし、裏はボアだらけだから、そっちと取り替えたっていいぐらい」

「わかったよ。今夜だけ、交換でいこう」

 着膨れダルマになったアイドルなんてあまりに情けない。渋々碧のパーカーに袖を通す。

「あ、ぴったりじゃん。ちょっと大きめでかわいい」

「だっせー、はっずーい」

 しかし、確かに温かい。貴希はちょっと機嫌が良くなり、ポケットに手を突っ込んでみた。

(何だ?これ)

 手触りからいって、紙切れと革表紙の手帳。

「俺、電話かけるの忘れてた」

「えーっ、ドジ」

「何言ってんだ、あんたのごたごたで忘れてたんだぞ」

「だってだってもう、午前さんだよ」

「東京は不夜城なの! さっきのボックスに戻るぞ」

「えーっ?! もう遠いよ」

「アドレス帳忘れたの!」

「ドジ!」

(他人事だと思ってんな)

 ポケットの中身が彼女のアドレス帳なら、さっきの留守電の相手…確か“晴都”だったかに連絡がつく。

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