第11話 雷光

「大丈夫ですか〜、王女様〜」

 間延びした野太い声が聞こえ、クレナはそっと目を開ける。

 目の前に大男の背中。ダエマ邸でクレナに仕える騎士の一人だ。剣でヴァードの包丁を受け止めている。

 先ほどのヴァードの奇声を聞いて駆けつけてくれたらしい。それにしてはあまりに遅い登場だが……。

「ったくよ〜、よりにもよって俺が夜勤当番の時に、……ヒック、面倒起こすんじゃねーよ」

 そう言って男が軽々と剣を動かすと、ヴァードはあっけなく後ろに吹き飛ばされた。床に叩きつけられ、悲鳴をあげる。その衝撃で我に返ったのか、ヴァードはよろよろと逃げ出した。

「おいおい」

 騎士は大して慌てた素ぶりも見せず、あくびをしながらクレナの方を振り返った。

「……えっと、怪我とかしてませんよね?」

「え、ええ」

 クレナは顔を強張らせながら、うなづく

「そりゃ、良かった。んじゃあ、俺はあの不届き者を追いかけますわ」

 忠誠など忘れたかのような締まりのない口調で男は言った。その息は酒臭かった。

 男は緩慢な動作でヴァードの方を向き直る。

 ヴァードはクレナが入ったのとは別の扉から脱出を試みたようだが、鍵が掛かっていたらしく、青い顔で立ち尽くしている。

「なーに、相手はデブの料理人コック。簡単にできますよ」

 えっ、とクレナは男の背中を見上げた。

 今、『始末』って言った?

「ちょっと、待って!!」

 ところが、大男はクレナの静止も聞かずに走り出した。

 ヴァードは悲痛に顔を歪ませながら背を向けて逃げ出す。よっぽど焦っていたのか、彼は足元のランタンを蹴飛ばした。

 途端に漆黒に包まれた大広間。真っ暗な中で粗野な騎士が舌打ちするのが聞こえた。

「……やめて!」

 クレナの叫びが虚しく闇に吸い込まれる。


 外の風雨の音と、二人の男の足音。

 他の全てが暗闇にかき消された今、クレナの目の前に、ふと昔の情景が浮かぶ。


 ***


 ピエモンドモンドの王宮だった。

 白いテーブルクロスの引かれた大きな机の一端に今よりもずっと小さな自分が座っている。黙々とスプーンを動かし、何やら夢中になって食べている。グラタンだろうか?

「どうですか、クレナ様?お気に召されましたか?」

 傍らには白い制服を着てコック帽をかぶったおじさん。

「おいしい!」

 舌ったらずに答えた自分。それを見ておじさんはクスリと笑う。

「実はこのグラタン、クレナ様の苦手な緑ナスが入っているんですよ」

「えっ」と、ピタリと止まるスプーン。

「でも、全く苦くないですよね」

「うん」

「良かったですね〜。クレナ様は苦手を克服なされたんですよ。まあ、これで私の娘たちも緑ナスを好きになりましたからね〜」

「ねえ」

「はい?」

 自分はおじさんに空になったお皿を差し出していた。

「おかわり!!」

 おじさんは嬉しそうにニコッと笑った。

「はい、かしこまりました」

 ふっくらした大きなお腹のおじさん。


 彼の名前は・シャンディスという。


 ***


 突然、闇を切り裂くような男の叫び声がした。聞くのも恐ろし気な叫び声。後に続くのは「うるせえ、クズが」というあまりに冷酷な声。

 

 その時、ダエマ邸南西部の森林に一発の雷が落ちた。

 

 その閃光は目が眩むほどに強く、大広間の暗闇を瞬時に滅却した。

 その光の中、クレナは目を見張る。

「そんな……」

 青白く照らされた広間の真ん中。

 立ち尽くすヴァード。

 その胸に、深々と一本の剣が突き刺さっていた。

 彼はバネの切れたおもちゃの人形のようにゆっくりと後ろに倒れていく。

 青い瞳は虚ろに見開かれ、その顔にもはや生気はない。

 けれども、クレナには、その口元がかすかに動いたような気がした。


 「クレナ様……」


 昔のように優しい声で。

 それがクレナの錯覚なのかどうか、確かめるすべなどありはしない。

 一瞬の雷光は、再び深い闇に支配されたのだから。


 稲妻と雷鳴の間の刹那的な静寂。

 その中で、人間が崩れ落ちる音だけがやけに大きく響いた。

 それを追うようにとどろく地を揺るがすほどの雷鳴。

 けれども、呆然とする少女の耳にはもう何の音も聞こえない。


 闇と静寂の中、彼女はただ立ち尽くすばかりだった。


***


 その事件から、10日ほどたち、今再びクレナの前にその大広間が現れようとしている。

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