第10話 刃

 その瞬間、クレナは全身が金縛りにあったかのように硬直するのを感じた。

 目の前が真っ暗になり、打ち付ける雨音も少しカビ臭い広間の空気も、全てが暗い底へと遠のいていく。

『悪魔』

 その形容はクレナに胸をえぐるような痛みをもたらす。自分がなぜそのように形容されたのか、自分自身が一番よく知っているから。

 クレナのを指しているものだと……。


「だから、あんたも早く手伝え。金になりそうなもの盗んで逃げるしか、俺たちに生き残る道は……」


 ゴトリ。


 絨毯の床の上に金属塊が落ちた音。

 クレナはすぐに理解できなかった。それは、自分の持っていた燭台が手から滑り落ちた音だと。

 やっと理解できた時、大きく見開かれた二組の青い瞳がクレナを凝視していた。

「く、クレナ様……」

 太った男は顔面に恐怖と狼狽を張り付けて、震える声を出した。

「ち、違うのです。こ、これは、その、いや、決して……」

 意味をなさない言葉を必死に並べながら、男はよろりとクレナに近づく。

「や、やめて!来ないで!」

 後ずさりしながら、クレナはとっさに叫んでいた。

 その瞬間、男の顔が絶望に歪む。彼は理解したのだろう。自分の罪を。受けるべき報いを。

 けれども、それは男にとってあまりにも大きすぎて……。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 狂ったような絶叫を宵闇にこだまさせ、彼の手元がランタンの灯りに照らされて鈍く光った。

 包丁だった。

「死罪……死罪はダメだ、娘が、娘が、娘が死ぬのはダメだ、私のせいで、死罪、ダメだ……」

 空虚に呟く彼の手元は恐ろしいほどに震えている。

「ヴァード、やめて!」

 クレナは叫ぶ。それが男の名だった。

 だが、その声はもう届かない。

 男は走り出す。

 目を血走らせ、クレナに向かって一直線に。

 よく手入れがなされた、その刃先。

 喉元に達する寸前、クレナはかろうじて脇に避ける。

 包丁はミシッと音を立てて、背後の木箱に突き刺さる。

「落ち着いて、ヴァード。大丈夫、あなたも、娘も死罪になんてさせない」

 震えそうになるのを懸命に堪えて、クレナは声をかける。

 だが、やはり彼には届かない。

 青い瞳は焦点が定まらず、錯乱したように揺れる。

「死罪はダメだ」をうわ言のように連呼しながら、一心に包丁を抜こうとする。

 その時、部屋に大きな音が響く。がしゃん、とガラスが割れる音。

 クレナがそちらを見やると、庭に面したガラス窓に大きな穴が空いている。そして、ペルーニの姿が見えない。

「私は、誇り高き青眼種アズーロ……」

 ヴァードの呟く言葉が変わった。クレナは視線を戻す。そして、後悔する。一瞬でもよそ見をしたことに。

 木箱から抜けた包丁がクレナの直上で振りかざされていた。


「死ね、悪魔ァァァァァ!!」


 また、体が動かなくなった。

 まぶたを堅く閉ざす。

 それだけで精一杯だった。



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