第8話 夜

 昼食は食堂で食べた。

 ナフキンで口を拭きながらクレナはふと気がつく。この2,3時間、カランと遭遇していないことを。昨日、一本杉にしがみついているところを発見して以来、睡眠中を除いて一時間に一回は例の甲冑女に悲鳴を上げていた。カランから逃げるために邸内を転々として、引きこもることもままならなかったというのに……。

 控えているメイドに確認したところ、昼前から外出しているとのこと。

「ホント!?」

 思わずはしゃいでしまった。これで、自分の国へと引きこもれる。

 クレナはそそくさと立ち上がる。いざ、我が安寧の地へ。

 赤い絨毯の廊下を足早に急ぐ。そこの角を曲がって階段を登ればすぐだ。

 そう思ったのに。

 廊下の途中でパタリと立ち止まる。

「……開いてる」

 大広間に通じる重厚な扉が、ほんのすこしだけ。

 気がつくと吸い込まれるようにその扉の前に立っていた。そっと手を伸ばす。

 心臓の鼓動が速くなっているのを自覚した。

『やめた方がいいよ』

 頭の中で響く自分の声。

 そんなこと、わかっている。やめた方いいことも、この扉を開けて自分が傷つくことも。

 しかし、クレナは扉から手を離さなかった。もしかしたら、あれは悪い夢だったのかもしれない。そんな淡い期待を込めて。

 ギーと蝶つがいを軋ませながら扉はゆっくりと開く。

 10日ほど前、クレナが引きこもる原因となったの現場が再び彼女の前に現れようとしていた。


 ***


 その夜、ダエマ邸は激しい風雨の中にあった。

 ヒョーヒョー、と不気味な音を立てる風は時折、勢いよく雨粒を窓に打ち付ける。

 家人が寝しずまった夜更け、2階にあるクレナの寝室には小さな灯りが灯っていた。

 クレナはベッドの上で夢中になって本のページをめくっていた。就寝前に少しだけ、と思ったのだが、気がつけば止まらなくなっている。

 物語の区切れめで、ふと手元が暗くなっていることに気がついた。文章から顔を上げると唯一の光源である蝋燭ろうそくの残量が残りわずかになっている。

 嫌だな、と思った。

 あともう少しで読み終わるから、ここで中断したくない。かといって蝋燭の火はそんなに保ちそうにないし、寝室に代えの蝋燭は置いてない。

「取りに行くか」

 確か、1階の厨房にあったはず、とレースの寝間着をひらひらさせてクレナはベッドから降りると廊下に出た。

 漆黒の闇が際限なく広がっていた。

 踏み出した足は、まだそんな季節でもないのにひんやりと寒気を感じる。

 無限の暗闇に立ち向かうにはあまりにも小さな燭台しょくだいの炎を頼りに、そろそろと廊下を歩く。

 ガタガタと窓枠が風に揺れる。

 通り過ぎる柱や扉の凹凸には怪しい影が伸びる。

 廊下の終わりは見えない。

 一歩、また一歩と足を前に進めるたびにクレナの心に恐怖が侵入してきた。勢いだけで出てきたことを後悔した。とは言え、今から引き返しても途中で火は消えてしまうかもしれない。やはり厨房まで行くしかないのだ。

「怖くない、怖くない……」

 言い聞かせるように呟く。

 その時、視界の端で何かが動いた。

 ビクッと体を硬直させる。突然、心臓を掴まれたかのように。

 恐る恐る蝋燭を向けると、なんて事はなかった。

 窓ガラスに映った自分の虚像だ。

 水底のような闇の中、消え入りそうな炎を手にした少女が一人ポツンと立っていた。

 その姿はあまりにも孤独で、そして、寂しげだった。


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