ひといきついてティータイム

夏永遊楽

 ふらふら、白昼夢を泳いでいる。いつもなら真っ直ぐ帰路を歩く放課後だけど、すでに頭がぼうっとするし、このまま帰るといろいろと考えこんでしまいそうだ。私は一度塞ぎ込むと長い。

 こんなときは気分転換するのがいいとどこかで聞いた。散歩でもしてみよう__通っている高校の最寄り駅に向かい、気の向くまま右折左折を繰り返す。

 そのうち、ケーキ屋やら美容室やらが並ぶ大通りに出た。真ん中を抜ける広いアスファルトが照り返し、日陰をさまよっていた私の目に、明るさがしみる。

 学校の近くに、こんな通りあったんだ。

 のそのそ進みながら軒を連ねるお店を流し見る。ふいに、ごん、と鈍い音がして、スカートからはみ出た膝に痛みが走った。

った……」

 通りの向こう岸を見ていたせいで、目の前に現れた立て看板に気づかなかったらしい。赤くなった膝をさすりながら見てみると、そこにあるのは、黒板に白一色で描かれたコーヒーのチョークアート。ふんわり立ち上る湯気が、本物より柔らかで、ただそれだけなのに「ここのコーヒー美味しそう」と思ってしまった。オリジナルブレンド……って普通のやつだよね。五百円か……悩む値段だな。

 ちらりと店構えを確認してみる。

 大きな黒い正面ドアには、金色の長い取っ手が伸びていて、見た目からして重そうだ。その上には、店名が彫ってある金古美のプレート。蝋燭型のランプが二つ、品の良い看板を挟む。カーテンの開いた窓がドアの両隣に並び、地面には外壁に沿って小さな花壇が付けられている。控えめに植えられた緑の奧に、私の胸くらいまでありそうなウサギの黒いボードが立っていて、そこにも金のインクで店名が刻まれていた。

 レトロで、重厚で、洗練されていて……。

 子どもが入る場所じゃない。

 大抵のことには尻込みしない自負があるけど、ものすごく入りにくい。

 でもやっぱり、重そうな扉の向こう側が気になってしまう。恐る恐るドアに指先を伸ばすと、寸でのところでふいっと逃げられた。ゴロロンと重たいドアチャイムが鳴く。

「あの……大丈夫ですか?今、中から見てたんですが……」

 中から開いたドアの影から、人の良さそうなお兄さんが姿を見せた。白い長袖に真っ黒のエプロンを着けているし、どうやら今しがた私が覗こうとしていたこの喫茶店の従業員らしかった。明るく透ける目が大きく見開かれているのは、思わぬ近さに立っていた私のせいだろう。

「あ、はい……すみません、お店の看板に」

 一部始終を見られていたと思うと、ちょっと顔が熱くなる。

「気にしないでください。お怪我はありませんか?」

「あ、全然大丈夫です……」

 いたたまれなくて黙る私と、お兄さんの間に一瞬の沈黙が流れる。

「いかがですか?お時間あれば」

 ドアに身体ごと向けて動こうとしない私に察しをつけたのか、お兄さんが目尻を下げてそう促してくれる。ふわっとした笑顔に一瞬で絆されて、正直、もう入ってしまいたい。けどコーヒーなんて全然分からなくて場違い感は拭えないし、お兄さんを気に入ったからってホイホイ誘いに乗っかるのもミーハーみたいで恥ずかしい。こんな風に狼狽えるのも私らしくない。考えが混線して、言葉が出てこない。

「ちょっとだけ、ゆっくりされていきませんか?」

 お兄さんがもういちど微笑む。優しい声は、ぐっちゃり絡まった頭の中をほどいてくれた。

 ちょっとだけ、ゆっくり。その響きが気に入った。


***


 重いドアの内側の世界では、品のいいジャズが、微かな音量で店の空気を包んでいた。いくつか年季の入ったテーブルが並び、それぞれに古そうだけど立派なソファーが付けられていて、フラスコちっくな器具が整列するカウンターにも、脚の長い椅子が置かれている。私には、何もかも馴染みがなくて、案内されたカウンター席のふわふわした座面に腰を下ろしても、落ち着かないままだった。

 私を店内に迎え入れたあと、ドアを丁寧に閉めてカウンターに入ったお兄さんをちらちら見やって観察する。細いカウンターを挟んだ向こうに、ひとりで佇む彼の白い肌は、橙の照明あかりを受けて柔らかなつやを返した。


 数分経ち、お兄さんは他のお客さんの注文を取ったりして動いているけど、私は思わぬ難所に当たって身動きできない。

 どうしよう。

 ご注文お決まりになりましたらお声がけください、と言われてメニューを受け取ったけど、そこに並ぶ(おそらく)コーヒーの名称を何一つ解読できない。なんせ、コーヒーという単語が入っていて、正体に見当がつくのは『自家製コーヒーゼリー』だけなのだ。ここは素直に訊いてみるべき?でも何も知らないなんて恥ずかしい気もする……。しゃんと伸ばしていた背筋が曲っていく。

 食には疎くて、コーヒーと聞けば朝に飲むブラック、しかもインスタントのイメージしかなかった。奧の席から常連らしきおじさんが言いつける「ホット」の意味も、わからない。ドッピオって、何?カフェラテって、カフェオレのことかな……モカブレンドとカフェ・モカは違うの?えっ、ホワイト・モカ……?白いコーヒーがあるの?

「いっぱいあると、逆に悩みますよね」

 上から降った声に顔を上げると、お兄さんはフラスコにお湯を注ぎながら私を見ていた。

「えっと……」質問するなら今だ。

「ご迷惑でなければ、僕に味のお好みを教えてくださいませんか」

 えっ、と弱く声が出る。同時にフラスコが赤く光った。

「うちは品数が多いですから。お好みが分かれば、きっとお客様にぴったりの一杯をお出しできると思いますよ」

 これは……助かったかもしれない。

「じゃあ……お願いします」

 はい。とお兄さんは白い歯を見せてくれる。

「普段、コーヒーは飲まれますか?」「インスタントなら……」「お砂糖とかミルクはどうされてます?」「いつも入れません。何をどのくらい入れたら美味しいのか分からなくて」「なるほど。苦さや酸っぱさとか、苦手な味はありますか?」「極端に甘いのとか苦いのとかは苦手ですかね……。あとは、変わった味のものとか、あんまり」「では、何かご希望は?ナッツの香りのがいい!とか可愛いラテアートにしといて!とか」

 少しだけくだけたお兄さんの口調と笑顔に、私も気がほぐれてきたのか、普段ならしないのに、お兄さんを待たせてしばし考える。

 なんだか今日は、らしくないことばかりしてる……。

 今は、気分的にがつんと苦いものは飲みたくないな。でもコーヒーならしっかり苦いほうが美味しいのかな?あ、せっかくだからミルク入りを飲んでみたいかも。うん。

「ちゃんと苦くて、でもミルクが入ったのがいいです」

「かしこまりました」

 少々お待ちください、と笑ったお兄さんの手元では、いつのまにかフラスコにガラスの漏斗ロートが乗っていて、中の粉をお兄さんが竹ベラでかき混ぜていた。フラスコが赤く照って、コポコポとお湯がせり上がっていくのを眺める。他の機械も触って、お兄さんは手際よく動く。

 それなのに、仕草の一つ一つが繊細で、ゆったりして、それがきれいで、ずっと見ていたい。

 本当に、いつも気が急いて空回りする私とは違いすぎる。余裕がなくて、この人みたいに、うまく相手を気遣えない……。そのことにすら、今日気づいたんだ。

 いくつかの声が頭の中で反響しながら騒ぎはじめた。「どこ目指してるの?」「そんなに突き詰めてどうするの?」「頑張るねえ」「皆があんたと同じようにはできない」「人のこと、ちゃんと見てよ」「なんでそんな言い方しかできないの」

 なんでこんなにショックなんだろう。こんなの、全然。ぜんぜん、大したことじゃないのに、どうして。私、間違ってたの?

 息苦しい。

 感情が真っ黒に渦巻いて、心ごと潰してしまいたくなる。

 

 いきなりぶわっと、強すぎる香ばしさに覆われた。ものすごく濃い香り。

 不躾に凝視していた私を見かねたのか、お兄さんが手元の白いカップをこちらに傾けてくれる。

「このエスプレッソに、ミルクを注いでいきますね」

 大きな口のカップにたゆたう濃い液体は、ずいぶんと少ない。でも、とても飲めないほど苦そうなのは、コーヒー豆を凝縮したみたいな香りのせいかな。

 お兄さんは一旦カップを置くと、銀のピッチャーに牛乳を注いだ。よかった、これだけたっぷり牛乳が入れば、たぶん飲める。安心した瞬間、

 シュコ――――――ッ

と大きな鋭い音が耳を突いて、真っ黒なコーヒー液に挑む不安もかき消えた。手元は機械に隠れて見えないけど、お兄さんの顔つきは真剣で、音が止むと、ピッチャーをごんごん打ち付けたり、回したりしている。何もかもが不思議な光景だった。

 いよいよ牛乳とエスプレッソが出会う場面になると、お兄さんはカップを持つ左手を腰の位置まで下げた。おかげでその様子がよく見える。

 エスプレッソのかたくなな黒に融けこむように、高い薫りに混ざり合うように、円を描いてミルクを乗せていく。深い黒に、どんどん白が足されて柔らかな茶になっていく。すっとお兄さんの両手が近づくと、今度は水面に真っ白な泡が浮かんできて、ぴっと泡を切った。

 手つきには迷いがない。ほんの一瞬の、一連のできごとに、くぎ付けになって驚くしかなかった。目の前に現れたのは、最初の姿からは想像もできない一杯。

「お待たせいたしました、カフェ・マッキアートです」

 立ち上る香りに、さっき感じたきつさはない。かわいらしく、小さな白いハートが真ん中に染みを作っていた。

 ひとくち、〈カフェ・マッキアート〉に触れると、ふわふわしたミルクの泡に唇が包まれる。砂糖は入っていないのに、なんとなく甘い。そこから、苦いような、まろいような、熱いミルクコーヒーが注がれる。

 ……おいしい。

 はじめて飲むミルク入りのコーヒーは、舌に重たくて、苦くて、でもふんわり癒やされる心地がした。一口の余韻を舌で転がす。どこか不安そうな表情でお兄さんが見ているけど、ほうっと一息つくと、安心したように微笑んだ。

 鼻の奧にも、香りが充満して心地良い。椅子はふかふかで気持ちいいし、ジャズは耳に馴染むし、湯気で顔まで温かいし、おなかからぽかぽかしてくる。

 あと、お兄さんの笑顔はすてきだし。

 なんだろう、これ……。あったかくて、甘くて、ふわっとゆるむ。凝り固まってコチコチの脳みそとか、肩とか、張った背筋とか。たぶん、私の「いつも頑張ってるパーツ」が、するするっと緩んでいく。気まで緩んで、これもいつもならしないけど、肘をついて両手でカップを持った。

 そうなんだね。わたし、頑張ってたんだ。

 コーヒーは、眠気覚ましの朝のお供でしかなかった。ゆっくり楽しむなんて、ぜんぜん考えていなかった。コーヒーを大事に飲むのが楽しいなんて知らなかった。私に必要だったのは、ただ真っ直ぐ頑張ることじゃなくて、少しのミルクを足してあげることだってことも。



「こんなこと言うのは失礼かもしれないですが……」お兄さんはぽつりと零した。「店先にいらしたあなたを見たとき、なんだかお疲れなのかなって思いました」

「そうなんですか?」

「それで、うちのコーヒーを飲んで一息ついていただきたいなって」

 ドアを開けて声をかけたのは、そういう理由わけなんだと、お兄さんは言う。遠目から見て分かるほど、暗い顔してたんだろうか……。

「おかげさまで元気になりました」

 お兄さんを見習って渾身の笑顔をつくると、表情筋が不自然に引き攣った。そういえば、しばらく笑うってことをしていない。「なんか……肩に力を入れすぎてたみたいで」

「お役に立てて何よりです。……たまには、ゆっくり休憩してみてくださいね」

 そっか……がんばらない時があってもいいんだ。自分の頭撫でて、背もたれに沈んで、頑張ったねって……。

「ちょっとくらい、自分を甘やかしても、いいのかな」

 いろいろ認めて、許してしまったら、もう何にも悩まなくていいような気がした。

 なんでこんなに気持ちいいんだろう。

 どうしようもない腑抜けになったみたいだ。気分は最高。日常の、ほんの一瞬。呼吸を緩めたっていいよね。

「ええ。僕もそう思いますよ。よろしければ、ぜひまたここで」



 帰る方向に踏み出して、ごろろん、鈍い音が聞こえた。なんとなく、くるっと振り返るとボードアートの裏面がこっちを見ていた。

 〈心ゆるむ、特別な一杯〉

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ひといきついてティータイム 夏永遊楽 @yura_hassenka

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