扉の向こうは不思議な世界
滝皐(牛飼)
トイレがどこで○ドアになった
『
アナウンサーの丁寧な日本語を、ぼんやりとした意識で聞きながらトーストを齧る。
今年は、有給休暇を使えば約9日間もの休みを取れる、まさにGWという名に恥じない休暇期間になっている。
しかしそんな中でも、飲食店のかたやレジャー施設、ホテル、旅館などの人はいつものように働いて、いつものようにお客さんを出迎える。この時期は書き入れ時なので仕方がないこととはいえ、休みがないというのはなんとも言えないな。
本当に、なんで休みないんだろう?
GWでどこの会社も休んでいるというのに、俺は今日もスーツを来て会社に出社しないといけない。特に今日は土曜日で、本来なら定休日であっておかしくないのだが、俺は絶対に休むことはできない。任されている仕事が、まだ溜まっているからだ。
俗にいう社畜と呼ばれる人間。俺はそれに該当する。
毎朝9時に出社。残業込で11時退社。家に帰るのは0時手前。そこから風呂に入って寝て7時に起きる。もう幾度となくこなした日常に、いつの間にか俺の感覚は腐り落ちていた。
もはや何で仕事をするのかとか、俺は何をやっているのだろうとか、何で辞めないんだろうとか……この言葉が頭をかすめたのは、何年前の話しだろうか。2年? いや1年前か。ああ……思ったより近かったな。
存外まだ俺は壊れてないのかもしれない。休日出勤にも手慣れたものはあるでしょ絶対。いや~だってな。もう何週間休日出勤してるんだよって話だからな。かれこれもう……1ヶ月くらいになるのか。
テレビ画面を見ているのに、その映像がどこか遠くに感じる。
旅行……旅行か。そう言えば、最後に旅行に行ったのはいつだったかな。確か大学生の時は行ったような気がしたんだけど、正直もう記憶が風化してる。
「旅行か……行きたいな~」
トーストを食べ終えて時間を確認する。もうそろそろ家を出なければ、会社に遅れてしまう。コーヒーを飲みほし、リモコンでテレビの電源を切る。食器を台所のシンクに置いて水にだけ付けて、そのままトイレに入った。
旅行……旅行な~。
頭の中はもう旅行のことでいっぱいだった。こうして仕事がなかったら、一人で気晴らしに旅行に行きたい。行くんだったらどこにしよう? 海外でもいいな~。
思いを馳せながらようをたし、汚物を流す。
「旅行、行きたいな~」
叶うはずのない思いを口にしながらトイレの扉を開けた時だった。
目の前には、海が広がっていた。
「…………あっ?」
潮の香りと波の音、真っ白な砂浜に肌を焼く太陽の光。まさに南国のそれを思わせる光景に、ついに脳がバグったのかと思って目を瞑り大きく深呼吸をした。
大丈夫大丈夫。きっと何かの見間違い。まさかお前、トイレの出入り口が別の場所に繋がるとか、どこのファンタジーやんって話でしょ。大丈夫大丈夫。目を開けたらそこは我が家……。
「……じゃないやん」
依然として砂浜は広がっていた。
何これ? えっ、いつの間に俺の家のトイレの扉どこで○ドアになったの? いや待て待て待て、待てっておい。物理的にそんなことあり得る訳がない。瞬間移動とかファンタジー過ぎる。こわっ!
本能的に扉を閉めた。
「え、マジか?」
やっぱり脳がバグって起こした見間違いかもしれないと、再確認のためにもう一度扉を開ける。
するそこは先程とは打って変わって、見たことない草花が生えており、人三~四人分の幅はありそうな大きな木が何本も見受けられる。チチチッ……と鳥の鳴き声が聞こえ、何か光る物体がふよふよと辺りに漂っている。
景色が一辺したことで、また思考がフリーズした。
扉から顔をだし、左右、上、そして後ろを確認する。見渡す限りの密林だ。
そっと扉を閉めた。
……ちょっと冷静になろう。というか、もっかい見てみよう。
再度扉を開けると、再程の密林とは打って変わって、青々とした草が地平線まで広がり、爽やかな風が吹く草原に出た。動物の声などは何も聞こえず、ただ風が通り抜ける音だけが耳を捉える。
「どうなってんのこれ?」
開ける度開ける度、さっきとは違う場所に飛ばされる。夢でも見ているような気分だ。
生唾を飲み込み、トイレの外に一歩足を踏み出す。草を踏みつける感触と音。それは現実とうり二つで、見ている景色が幻ではないことを証明してくれる。つまりこの現象は、まぎれもない現実に起こっていることだ。
「トイレのドアが、どこで○ドアに進化した」
草原の上に浮かぶトイレへの空間。そこだけまるで写真を張り付けたような違和感はあったが、俺は先程まであそこに居たのだ。
「後ろからはどうなってるんだろう」
興味本位で後ろに回ってみると、そこには何もない。ただ空間の先が映し出されている。手でトイレがある場所を触っても、手は空を切るだけだ。しかし前に回ってみると、そこにはちゃんと自宅のトイレが存在する。
「マジでどうなってるんだ?」
基本原理がわからない。なんかしらの拍子に空間と空間が繋がった? だとしても、なんで俺の家のトイレなんだよ?
何もかもが意味わからなかった。
「そうだ! スマホ!」
そう思い立ってポケットをまさぐるが、スマホを自宅のテーブルの上に置いて来ているのを思い出す。まあトイレに入ってまでスマホを弄ることはないので、当たり前と言えば当たり前か。
「どうしよう……会社……」
こんな状況になっても、何故か思いつくのは会社のことだった。
他に思うことないのかと自分でも思うが、非現実的なことを目の当たりにすると、人は思いのほか日常的な部分が恋しくなるのかもしれない。
日常的な部分が会社って言うのも、ちょっと寂しい気もしなくないが。
会社に連絡する手段はない。加えて、時間もわからなかった。
普段時計をするのだが、それもまだ家を出る前だったこともあってテーブルの上に置きっぱなしだ。たぶんまだトイレに入って10分も経ってないし、急いで戻って電車に駆けこめば遅刻せずにも済むかもしれない。
でも遅刻したらどうしよう。なんて言い訳しよう。こんな状況説明のしようもないし、こんなこと言ったら精神病院行った方がいいんじゃない? と心配させてしまう。
ならいっそ休んでしまえばいいのでは……?
楽観的な思考を打ち切る。休みは所詮、問題の先送りに過ぎない。もし今日休んだとしても、その次の日に上長に怒られ、仕事は溜まり、そして結局残業になる。そんなことになるくらいなら、休まず毎日会社に出勤した方がましというものだ。
なんとしても家に戻らなければ!
トイレに駆け込み、扉を閉める。
唯一、先程のやり取りでわかったことがある。それは扉を閉めて再度開ければ、別の空間に移動しているということだ。何回もやり続けていれば、いずれどこか見慣れた場所に辿り着くはず。根拠はないが、それぐらいしか帰れる手段が思いつかない。
それから俺は、幾度となく扉を締めては、開けてを繰り返した。
飛ぶ場所の規則性はなく、けれどもどこも人はおらず、雄大な自然が広がっていた。
まるで世界遺産を彷彿とさせるその景色たち。本来ならゆっくりと観賞したいとところだが、生憎と俺には余裕がない。会社に行かなければならないという使命感と、もし会社に行かなかったらどうなるかという不安から、必死に……ただ必死に扉を開けては閉めてを繰り返す。
しかし結局、扉は俺の見知った場所には行かなかった。
もう何度扉を開けたのだろう。出口のない迷路に入った気分だ。もしかしてこのまま俺は、帰れないのだろうか。
眼前には、最初に見た真っ白な砂浜が広がっていた。力なくふらふらと砂浜に降り立ち、波の音や動きをジッと眺める。
もし一生帰れないのだとしたら……俺はどうなるんだろう。仕事は? 居場所は? きっと全てが無くなるのか。俺がいなくなったら、会社はどうなるんだろうか?
……簡単な話か。俺以外の誰かが仕事を引き継ぐだけ。まるで最初から俺の存在がなかったかのように、会社は悠然と動き続ける。会社は、けして俺のことを必要とはしていないのだから。
なら俺は……帰らなくてもいいのではないか? ここにいて、いいんじゃないだろうか?
そう思ったら、なんだか必死になって頑張っていた自分が馬鹿らしく思えて、笑いが抑えられなかった。
なんだか腹の底につっかえていたものが、スッと落ちたような不思議な感覚だった。自分で抑圧していたものが全て払われ、楽になった。
「そうだよな。生きる方法なんていっぱいあるんだ。あんな会社に俺の人生を左右される筋合いはない」
帰れないのなら、この状況を存分に楽しもう。ただ今は少し疲れた。
疲弊からなのか、それとも抑圧から解放されたことによる安心からなのか、急に眠気が襲ってきた。俺はそのまま横になり、睡魔に身を任せて眠りにつく。
次に目を覚ましたら、空は夕焼けに染まっていた。
長い時間眠りについていたらしい。体を起こして、付いた砂を手で払い落す。ずっと海岸に居たせいか、潮風で髪がごわごわする。
何時間寝たのだろうか? 体感的には7時間くらいか。なんか、こうやって昼寝するのも随分久し振りな気がする。
起き上って大きく伸びをする。睡眠をとったことで体はかなり休めたようだった。
「さてと。これからどうしようか」
自由の身になったと言っても、ぶっちゃけこれは遭難に等しい。これからは自給自足のサバイバル生活。大変なのは目に見えてわかる。
目先で必要なのは食べ物と住か、この二つだろう。海が近いから食べ物はいいかもしれないけれど、そのぶん天候などで危ない場面はでそうだな。この海は拠点の第一候補として、一先ずいいところがないか改めて扉で確認するのはありかもしれない。
何度か扉を開け閉めすれば、海には出られるだろうと考えた俺は、いったん別に良い場所がないか確認することにした。開けっ放しのトイレに入り、扉を閉める。
どこでもいいとは思うけど、できるだけ住みやすい環境が整ってる場所が良いな。天候が激しく変わらなかったり、獰猛な動物がいなかったり。まあ、結局それは扉の気分次第というか、俺の運の問題かもしれないな。いいところに出ることを、祈るだけだ。
そう願って扉を開ける。するとそこは、見慣れた廊下だった。
「……あれ?」
家に帰ってきた。
確かに住みやすい環境が整っていて、獰猛な動物もいない。けれど自由とは縁遠い発展した場所だ。
廊下から窓の方を向く。先程まで夕焼けに染まった空を見ていたのに、今は青々とした空が広がっていた。
「今何時だ?」
リビングに戻りテーブルに置かれた腕時計を確認する。時刻は8時手前。俺がトイレに入るちょっと前の時間だ。
「今日、何日だ?」
スマホを開くと、GW最終日の日付になっている。完全に時間が巻き戻っている。
「――!」
トイレ!
トイレに戻り、中に入って扉を閉める。一度大きく深呼吸をして、確認のためゆっくりと扉を開ける。が、そこは先程見た自宅の廊下だった。何度も閉めて、何度も開ける。けれど目の前の景色は変わらない。
帰ってきた。帰ってきてしまった。その気持ちだけが、心の中に渦巻いている。
これから新しい人生が始まるのだと思っていたのに、現実はこうもあっさり俺の目の前に返り咲く。しかも時間が巻き戻っているというおまけつき。これはあれか? 神様が仕事を放棄するなとでも言っているのか? だとしたら、本当に笑えないな。
脱力感から、その場に座り込んでしまった。
今から出れば、会社には間に合う。いかなくてはならないのだろうか? 戻ってきてしまった以上、行くべきなんだろうと思う。だってそうしなければ、俺はこの現実で生きていくことが難しいのだから。
でも……そうだな。
重い腰を上げて、テーブルに置かれたスマホをポケットに突っ込み。腕時計をはめる。ジャケットを羽織って玄関に向かい、靴底がすり減った革靴を履いた。
仕事には行く。それが社会人としての責務だから。けれど、今の仕事は辞めようと思った。
不思議な旅行を得て、色々と放棄していた感情が戻ってきた。
生きることは大変だ。食べ物、着る物、住む場所、それを得るための金が要る。そしてその金を得るためには仕事がいる。だから人間は皆、生きるために働いている。
けれども自分の人生を、生きるために会社に費やすのは間違っている。生きるのだから、自分のために費やすべきだ。
当たり前だろうと思っていたことでも、時が過ぎて行けばその感情も擦り減って、正常な判断ができなくなってしまうのが人間なんだ。俺のように、社畜でいいと思ってしまう。
もしかしたら。神様は本当はこういうことが言いたかったのだろうか。仕事に戻れではなく、その考えを改めろと言いたかったのかもしれない。不思議な旅行は、そのために神様が用意した贈り物だったのだろうか。
いつものように玄関に立つ。けれども普段のような憂鬱はそこにはなかった。まるでさっきトイレの扉を開けるように、軽やかな気持ちで玄関の扉を押し開ける。するとそこは──。
──まるで世界が崩壊したかのような、荒廃した都市部の道路の真ん中だった。
扉の向こうは不思議な世界 滝皐(牛飼) @mizutatu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます