三冊目 158 - 040 - SUICIDE

 その【図書館ライブラリ】は――天才たちの魂を《三日間だけ》記録している。


 日々の業務である壁一面に埋め込まれた書架の掃除を終えた私は、とある天才の魂を一冊だけ取り出して手に持った。

 その本に標題タイトルは書かれていない。ただ、【158 - 040 - SUICIDEスーサイド】という分類番号が振られていた。

 目をこらしても傷一つ見つからない黒い革で装丁されており、同素材で作られた紐できつく縛られている。しかし、中の頁は今にも崩れそうなほどに劣化していた。


 肌触りの良い微風が吹き込み、不思議な質感のカーテンが揺れる。私は心地良く本を開こうとすると、遮るように司書の男が騒ぎながら部屋に入って来た。


「助手ちゃん! 僕のお気に入りの本を知らないかい?」


「もしかして、この本ですか? 先生の机の上に置いていたので、また片付けるのを忘れているのかと思ったんですけど」


「……君って奴はッ!」


 私の無愛想な態度に対し、彼にしては珍しく怒ったような表情だ。


「先生、あまり騒がないでいただけますか。――【図書館ライブラリ】ではお静かに」


 私から本を奪おうとする司書の手を避ける。そのまま【158 - 040 - SUICIDE】を開き、情報圧縮文字で記述された文章じんせいを読み解いていく。そして、私の世界が暗転した。




【May 1st, **98 Weather == Sunny】


 【SUICIDE】は心理相談カウンセリングの天才である。


 彼は市街地の中心部にある心理相談所で働いていた。特注品の黒いスーツに身を包み、【SUICIDE】は自身が担当した患者のカルテに目を通していた。


「彼女だけは無事に社会復帰してくれたら嬉しいなあ」


 愛しげにカルテに貼られている女性の写真を撫でながら、【SUICIDE】は独りごちる。何故か彼しかいない心理相談所に、独り言が虚しく響いた。


 彼が担当する心理相談はこの街で一番に評判が高い。極度の鬱状態にある患者でも、彼と一時間会話しただけで精神状態が元に戻った。

 患者からは毎日のように感謝の手紙が送られてくる。小学校に再び通い始めることを決心した少女や何十年も苦しんだ精神病を克服し、社会復帰する見込みのある男性まで数多くの患者からそれは送られてきた。


「でも、どうせ無理なんだろうなあ」


 彼は瞳に涙を浮かべながら、カルテをゆっくりとゴミ箱に捨てた。


 【SUICIDE】は非常に優秀な相談者カウンセラーである。

 彼が今までに担当してきた患者が、結果として全員自殺してしまったことを除けば。




【May 2nd, **98 Weather == foggy】


 【SUICIDE】は常日頃から耐えがたい自殺衝動に襲われていた。


 彼は自殺衝動を抑え込むために数多もの方法を試したが、それらが結果を残すことはなかった。しかし、彼の自殺衝動を抑えることのできる唯一の方法があった。

 それは、会話を通じて他者の無意識に自身の自殺衝動を書き写すことだった。この程度の催眠術は心理相談の天才である【SUICIDE】には造作もないことだ。


 たった数日の間だけではあるが、彼は自身を苦しめる自殺衝動から解放された。無論、使い捨てのメモ帳代わりにされた人々は無意識の命令に従って自殺を遂げる。

 彼は自身の自殺衝動の肩代わりを罪のない人々に押し付けていたのだ。


 先が見えないほど深い霧の中を歩いていた【SUICIDE】が何かに気が付いて歩みを止めた。


「ニーチェの格言に『深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ』という言葉がある」


 【SUISIDE】のぎょろりとした目と――あなたの目が合った。


「あまり他人の物語を覗き見するのはおすすめしないなあ。所詮はただの物語と思わない方が良い。若者が影響されて自殺してしまった本もあるほどだからなあ」


 彼は懐から『若きウェルテルの悩み』と標題の付けられた本を取り出して言った。


「ちょうど私も死にたいところだったんだ。君が良ければ、心理相談カウンセリングをさせてくれ」




【***** ***, **** Weather == Sunny】


「しっかりするんだ、助手ちゃん!」


 【158 - 040 - SUICIDE】から戻ってきた私は、司書の男に抱かれるようにして身体を支えられていた。その状況に気が付いた私は、顔に妙な熱を感じながらも彼から離れた。


「な、な……! せ、先生如きが触らないでください」


「待つんだ。君は『コイツ』の三日目まで読み進めていないね?」


 彼は真面目な顔で手に持った【158 - 040 - SUICIDE】を見せてくる。必死に首を縦に振る私の様子を見て、彼はほっと安心したように顔を緩めた。


「いいかい、助手ちゃん。これは【図書館ライブラリ】でも禁書指定されている本だ。禁書の中でも『コイツ』は他者に与える影響の強い本でね。三日目まで読み進めていたら、君は間違いなく死んでいたよ。たぶん、そこの窓から飛び降りてね」


 私はさぁーっと血の気が引いていく感覚を覚えながら、地上の見えない窓の外を見た。


「そ、そんな本を適当に置いておかないでください。ちゃんと所定の場所に返却するのがルールですよ、先生」


 対して、彼は苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。そして、「でも」と付け加える。


「これだけは覚えておいて欲しい。【図書館ライブラリ】の蔵書が皆、善人ではないということを」

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