二冊目 610 - 131 - AID
その【
日々の業務である壁一面に埋め込まれた書架の掃除を終えた私は、とある天才の魂を一冊だけ取り出して手に持った。
その本に
色の褪せた革で装丁されているが、頁は和紙で作られている和洋折衷の本だ。他の本とは違い、辞典のような大きさだ。表紙からはほんのりとアルコールの香りがした。
背もたれの堅い椅子に身を沈め、私は本を開こうとする。すると、湯気を放つ
「助手ちゃん、この前に読んでいた本はどうだった? 探し物は見つかったかな」
「その質問には『いいえ』と答えるしかありません。ただ、天才と呼ばれている人間も人並みに苦心して呆気なく死んでいくことは理解できました」
無愛想な私の答えに対し、司書の男はにっこりと微笑んで満足そうに頷いた。
彼は持っていた珈琲をゆっくりと啜り、眼鏡が湯気で曇っていった。
「先生、ここで珈琲を飲まないでいただけますか。【
【図書館】の本に匂いが付くことを厭わない彼を睨めつけた私は【610 - 131 - AID】を開き、情報圧縮文字で記述された
【March 17th, **12 Weather == Sunny】
【AID】は医療分野の天才である。
彼女は街のはずれにある小屋のような家で慎ましやかに暮らしていた。時折、街に赴いては熱が治まらない子供たちや農作業で怪我をした青年を治療し、出産を間近に控えた妊婦を励ましていた。心の優しい彼女は、自らの知識や技術で何人もの患者を救っていた。
彼女は小さな庭に拵えた可愛らしい家庭菜園から採れる瑞々しい野菜や自身が救った患者たちから贈られた生活雑貨や衣料品で暮らしていた。【AID】が着ている和洋折衷の着物も何度も面倒を見た妊婦の女性から譲られたものだ。
「あら……」
【AID】は庭先に羽を怪我した小鳥が弱々しく蹲っているのを見つけた。
「可哀想に……大丈夫、私が治してあげるから」
【AID】は医療分野の天才である以前に、少し変わった力を持っていた。
彼女は小鳥を優しく手で包み込み、徐に目を閉じて祈った。すると、小鳥の怪我はみるみるうちに修復され、元気を取り戻した小鳥は彼女の手から力強く羽ばたいていく。
彼女は手で触れたものの傷や病を元通りに修復することができた。
そして、それが自身の寿命と引き換えであることも彼女は知っていた。
【May 14th, **12 Weather == Cloudy】
医療分野の天才である【AID】にも治すことのできない病があった。
それは唯一の家族である妹を蝕む原因不明の熱病だ。風邪と同じような症状と共に、妹が触れたものは材質に関係なく融解した。
その症状を所以として、妹は自由に両手を扱うことができなくなった。それに起因した精神的疲労から妹はどんどん弱っていった。
触れたものを融解させる症状を持つ病など、いくら【AID】でも聞いたことがない。
しかし、【AID】が諦めることはなかった。
「絶対に、絶対にお姉ちゃんが治してあげるからね……」
医療の発展した他国から取り寄せた医学書をすり切れるまで読んだ。解熱効果のある薬草を自らの論理に従って調合し、新しい薬をいくつも開発した。
【AID】は唯一の家族である妹を失い、独りぼっちになるのが怖かった。だから、彼女は一人になりたくない一心であらゆる最善を尽くした。
この過程で開発した新薬は、熱病に苦しむ世界中の人々の命をたくさん救うことになる。
しかし、彼女が救いたかった患者だけは。
――妹の病気だけは、治すことができなかった。
【June 27th, **14 Weather == Rainy】
【AID】は最善を尽くしたが、妹の体力は衰えていく一方だった。精神的疲労はもちろん、何年間もの間、風邪を引き続けているようなものだ。天才である【AID】は妹がもう長くないことを嫌でも知っていた。
しかし、【AID】は諦めなかった。そして、覚悟を決めた。
「お姉ちゃんが居なくなっても、ちゃんとお野菜は食べるんだよ?」
【AID】は妹の耳元で優しく囁いた後、彼女の手を優しく両手で包み込んだ。
数年ぶりに触れた妹の手は暖かく、彼女が奇病に冒されているとは思えなかった。だが、それを包み込んでいる自身の両手が異常な湯気を放ちながら溶けていく様子が、【AID】を非情な現実に引き戻した。
聡明な彼女は理解していた。自分の修復能力で妹の病気を治せば、代わりに自らの命が尽きることを。しかし、それでも治療を止めることはなかった。
生命体としての寿命の尽きた【AID】は、身体が構造を維持できず細かい灰となって散った。
「さよなら、■■■。大好きだよ」
独りぼっちになりたくない【AID】は優しくて、独善的な少女だった。
唯一の家族である妹を、独りぼっちにしたのだから。
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