第127話
「ええっ! この人が!?」
汐莉の言葉に修は驚きを隠せなかった。
というのも、汐莉が知り合いからバスケを教えてもらったということは聴いていたが、修は勝手にそれが女性だと思っていたからだ。
だが汐莉のワンハンドシュートは男子顔負けの完成度だ。
冷静になれば男性が教えたという考えが出てもおかしくなかったが、修は何故かそういう考えに至らなかった。
「そういうこと。今は大学二年だ。よろしく」
「ど、どうも……」
緒方は爽やかな笑みを浮かべて手を差し出してきたので修も応じる。
一度握ってすぐに離そうとしたが、緒方が修の手を離さない。
「あ、あの」
修が不審に思って緒方を見ると、彼は微笑んだまま修の顔をじっと見つめていた。
その目がなんだか値踏みされているように思えて、修は一抹の不快さを感じた。
無理やり振り払ってやろうかという衝動に駆られたが、そうする前にようやく緒方が手の力を緩めた。
「最近よくコート使ってるって聴いたけど、もしかして彼と一緒に?」
「えっと……まぁ、うん。そうだよ」
汐莉が気まずそうに目を逸らしながら答える。
(なんだ? もしかして宮井さんは、俺とこの人を会わせたくなかったんだろうか)
そういえば今日、修が練習を手伝うと申し出たときも、すぐには頷かず何かを考えていた。
あれは緒方が外出しているかどうかを思い出していたのではないか。
(だとしたらなんでだ?)
修はその理由について考えを巡らせた。
(緒方さんちの持ち物であるこのコートを、俺も一緒に使ってることを隠したかったのかもしれない)
元々汐莉はこのコートはあまり使わないようにしていた。
緒方家の人は汐莉にコートを自由に使っていいと快諾してくれていたらしいが、修繕費等がかかってしまうので荒らしてしまうのは申し訳ないのだと。
最近になって汐莉もお言葉に甘えてというようにしょっちゅう使っているが、人が増えるとその分傷むのも早くなってしまうということで、部の誰にもこのコートのことは教えていないらしい。
例外は修だけだ。
(なるほど、宮井さんは自分以外にこのコートを使わせていることを引け目に感じてるのか)
それなら汐莉の態度にも納得がいく。
修と一緒にコートを使おうとしているところを緒方に見られ、まずいと思っているのだろう。
「あ、あの! 宮井さんは悪くないんです。俺が勝手に来たみたいなものですから。都合が悪いなら帰ります」
汐莉を困らせたくなくて、修は自ら身を引くことにした。
「な、何言ってるの永瀬くん? 違うのあっちゃん。永瀬くんは私が頼んだから来てくれたんだよ」
「いや、無理やり押し掛けたようなもんだし……」
「そんなことないよ! ねぇあっちゃん、永瀬くんもこのコートを使ってもいいでしょ? 高校に入ってからはほとんどずっと永瀬くんに教えてもらってるの。名コーチなんだよ」
「へぇ、名コーチねぇ」
汐莉が修を褒める言葉を聴いて、緒方の顔が少しだけにやりと笑ったように見えた。
その途端、修は悔しさと情けなさで頬が熱くなるのを感じた。
おそらく今、緒方は修を馬鹿にした目で見ていた。
しかしそれは無理もない。
先程のシュートを見ただけでも緒方はかなりの上級プレーヤーだとわかる。
それに大学二年の緒方は体つきも逞しく、身長はそこまで変わらないのにサイズは一回り以上大きく感じる。
緒方にとって修は完全に格下に見えているのだろう。
だが怪我のブランクがあり、現在復帰のためのトレーニング中の修では、確実に緒方と張り合えない。
その自覚があったため、修は黙って唇を噛むしかできなかった。
「それで、そのコーチに今から何を教わるつもりだったんだ?」
「その……シュート、だけど……」
ばつが悪そうに汐莉が答えると、緒方は大げさに驚きのリアクションをとった。
「シュートを? 俺がいるのにこの子にシュートを教わろうとしてるのか? おいおい汐莉、お前のシュートは誰が教えたのか忘れたのかよ」
緒方は片手で頭を抱えて大きくため息を吐いた。
(なんだろう……俺、この人嫌いだ)
緒方の言動に苛ついて、修は顔をしかめてしまう。
「別にいいでしょ。今日はあっちゃんいないと思ったんだもん。それに、今は永瀬くんが正式にコーチなんだから、教えてもらうのはおかしくないでしょ」
汐莉がムッとした表情で反論する。
「いやいや、別におかしいなんて言ってないだろ? 汐莉はすぐムッとするんだから」
緒方はそう言って汐莉の頭を乱暴に撫でた。
「もう! 子ども扱いしないでよ!」
汐莉が怒ってその手を振り払うが、緒方は気にも留めずにけらけらと笑っていた。
その光景を見て修は胸がもやっとするのを感じた。
一見すると喧嘩しているようにも見えるが、二人の距離感はとても近く、お互いのことをよくわかった上でのやり取りなのだとわかる。
それに対してなぜもやっとするのか。
修はその理由を理解することはできなかった。
「わかったよ。じゃあ俺のことは気にせずコーチに見てもらえ」
緒方はそう言ってベンチにどかっと腰かけた。
「言われなくても! 永瀬くん、やろ」
「えっ、あ、うん」
汐莉に声をかけられてはっと我に返った。
いつものように修はゴール下へ、汐莉はミドルシュートのポジションに移動する。
「じゃあ撃つよ」
「うん」
汐莉がジャンプシュートを撃つ。が、やはり入らない。
修がボールを拾い汐莉にパスを出す。
二本目はリングの奥に当たり大きく弾かれた。
三本目も惜しかったがネットを揺らすことはなかった。
やはり目に見えておかしなところはない気がする。
それなのに、汐莉のシュートは入らない。
アドバイスをするために来たのに、何も言葉が見つからず修は焦りを感じた。
このままでは汐莉を不安にさせてしまうだけだ。
何か一旦声をかけてリズムを変えよう、そう思ったとき。
「ちょっといいか?」
緒方がすくっと立ち上がり、汐莉に近付いていった。
「撃ってみ」
緒方に促され、汐莉はシュートを撃つ。
やはり入らない。
「もう一本」
汐莉がもう一度撃とうとボールを頭上で構えた瞬間。
「ストップ」
緒方が突然汐莉を制止した。
そして後ろから抱き締めるように腕を回し、汐莉の手に自分の手を重ねた。
予想外の行動に修は動揺して目を丸くする。
「ちょっ……」
汐莉が驚いて振り返るが、すぐに緒方が冷静な声で告げた。
「ボールをセットする位置が若干低い。この辺から撃ってみろ」
「え?」
汐莉が構えていたボールの位置を、緒方は少しだけ調整した。
「ほら」
緒方が汐莉から離れる。
汐莉は半信半疑といった表情で、もう一度緒方が言っていたように構え直し、シュートを放った。
「!」
ボールはスパンッと音を立ててネットを通過し、ゴールの真下にいた修の手元に収まった。
「な?」
緒方が勝ち誇ったように笑い肩をすくめた。
「セットの位置を意識してあと何本か撃ってみろよ」
「う、うん」
汐莉が修にアイコンタクトをしてきたので、要望通りパスを出す。
それを受け取った汐莉がシュートを撃ち――また入る。
その後数本撃ったがほとんどが入り、先程までの不調を感じさせない、いつもの汐莉のシュートに戻っていた。
修は信じられないものを見るような目で緒方に視線を向ける。
(なんで……なんでわかったんだ?)
ボールをセットする位置がずれていると緒方は指摘したが、そのズレはほんのわずかなもので、修は気づいていなかった。
というよりそのズレは誤差の範囲内と言える程の小さなもので、そこまで影響があるとは思えない。
しかし現に目の前では、緒方に指摘されたそのズレを修正した汐莉が復調している。
「あ、あの、どうして宮井さんの不調の原因がわかったんですか……?」
修はおそるおそる緒方に尋ねた。
「どうしてって、そりゃ当然だろう。汐莉にシュートを教えたのは俺だ。スタンスから膝を曲げる角度、ボールの位置、手首の返しまで、全部俺が教えた。だからちょっとでもおかしなことがあればすぐに気づくさ」
緒方はさも当然のことのように言った。
その瞬間修の胸に悔しさが沸き上がってくる。
修だって何度も汐莉のシュートを見てきた。
それなのに、自分が気づかなかった微妙なズレをこの男はすぐに見抜いたというのか。
「というか、俺はなんで汐莉のシュートにそんなズレができてたのかってとこの方が気になるな。永瀬君、何か変なこと教えた? シュートフォームいじったとか」
「いえ、いじってませんよ。宮井さんのフォームは完璧に近いし、俺がシュートに関して教えることなんて……」
そう反論しかけて修の口が止まる。
(待てよ……まさか……)
確かにミドルシュートに関しては何も教えていない。
だが最近、
「何か心当たりがあるのか?」
緒方が詰めるように尋ねてきた。
修は視線を地面に落として答える。
「……この前、3Pの撃ち方を教えました。頭からじゃ届かないからって、顎の下くらいから構えるようにって……」
「……汐莉、最近3Pの練習は?」
「……部活ではやってないけど、ここではほとんど3Pばっかり撃ってた」
「完全にそれだな。3Pのフォームに引っ張られて、少しだけだがセットの位置が低くなってた。その上力もいつも以上に入ってたから、リングの奥に当たって外れるパターンが多くなる」
緒方が短く息を吐く。
「シュートってのはデリケートなんだ。ちょっとの誤差でまったく入らなくなったり、逆に面白いくらい入るようになったりする。長年やってきた熟練者ならともかく、初心者ならなおさらだ。君もバスケやってたんならわかるだろ」
緒方の言葉に修は返事をすることができなかった。
修は3Pを教えるとき、やれることが増えて良いくらいにしか思っていなかった。
まさか、そのことが他のプレーに影響を与えてしまうなんて思ってもみなかった。
「そもそもなんで3Pなんか教えたんだ?」
緒方の詰問が続く。
「それは……宮井さんが3Pを撃てるようになれば、チームの武器が増えると思って」
「つまりチームの都合ってわけだな」
緒方が蔑むように鼻で笑う。
「違うよ! 私が3P撃てるようになりたいって言ったから、永瀬くんは教えてくれたんだよ!」
「だったらなおさらだ。部員の無茶な要望を冷静に諫めるのもコーチの仕事だろ。汐莉の実際のプレーを見たわけじゃないから正確にはわからんが、察するにまともにできるプレーはミドルシュートくらいだろう。今はそのミドルを中心に、もっと基本的な部分を教え込む段階じゃないか? 3Pなんか、ただ遠い位置から撃ってるだけに見えるが実際はかなりの高等技術だぞ」
修は現役時代バスケに関することでコーチから怒られることはほとんどなかった。
しかし今、先程知り合ったばかりの男から説教を受けている。
何よりつらいのは説教を受けていることよりも、それに対して何の反論もできないことだった。
「曲がりなりにもコーチを名乗ってんなら、部員の力量やタイミングをちゃんと測って指導しろよ。チームのことを考えるあまり個人を潰してるようじゃ、コーチ失格だと思うぜ」
冷たく言い放たれた緒方の言葉は修の胸に深く突き刺さった。
顔を上げることができず、口の中はからからに渇いて舌が上顎に貼り付く。
このままいっそ地面に潜り込んでこの場から消えてしまいたいとさえ思えた。
「いい加減にして!!」
そんな淀んだ空気を吹き飛ばすかのように汐莉が一喝する。
修は現実に引き戻され、弾かれたように汐莉の方を見た。
汐莉は眉を吊り上げて緒方を睨み、荒く呼吸を繰り返していた。
「言い過ぎだよ。永瀬くんに謝って」
「な、なんだよ、そんな怒らなくても」
汐莉のあまりの剣幕にそれまで饒舌だった緒方もうろたえていた。
「てか、俺謝らなきゃいけないか? 何か間違ったこと言ってたかよ?」
緒方は汐莉の怒りから逃れるように修に尋ねる。
修は反論しようと口を開けたが、やがてゆっくりと閉じた。
(反論できない……)
すべてが悔しくて、情けなくて、惨めだった。
汐莉のシュートを狂わせたのは自分だったのに、それに気づけなかったこと。
自分はできなかったのに緒方は汐莉のシュートを簡単に修正できたこと。
緒方に正論を言われて何も言い返せなかったこと。
そして汐莉にそんな顔をさせてまで自分を庇わせてしまったこと。
あまりの惨めさに、一周回って渇いた笑いが込み上げてきた。
「……緒方さんの言ってることは正しいです。俺からは何も言えることはありません」
だからそう言って受け入れた。
これ以上汐莉が自分を庇わなくて良いように。
「ごめん宮井さん、俺帰るよ。シュートも修正できたし、緒方さんがいれば俺は必要なさそうだから」
「えっ、ちょっと待って……」
汐莉が何か言おうとしたが、修はそれを聞かずに足早にコートを使っても出ていき自転車に跳び乗った。
汐莉の顔も緒方の顔も見たくなかった。
いや、正確には自分の情けない顔を見られたくなかった。
汐莉が何か叫んでいたような気がしたが、無我夢中で自転車をこぐ修の耳には届かなかった。
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