第119話

「ね、ねぇ、夏休みの宿題、みんなはどのくらい進んでる……?」


 部活終わり、自主練習前に休憩がてら一年生四人で雑談していると、優理がおずおずと尋ねてきた。


「ウチはもう終わらせたっす! あーいうの、さっさと終わらせちゃうたちなんすよね」


 星羅が余裕の表情を浮かべて言ったので修は驚いた。

 クラスにもよるが栄城の夏休みの宿題は多い方ではないと思う。しかしまだお盆にもなっていない内にすべて終わらせているのというのはかなり早い。


「すごいな美馬さん、俺もそこそこ順調だけど、それでもあと1/4くらいは残ってるよ」

「ウチは毎年遅くとも八月一週目までには終わらせてるっすよ。そしたら残りは何にも追われることなく、縛られることなく自由に過ごせるじゃないっすか」


 少し得意気に笑う星羅に感心していると、汐莉が何も言わずに黙っているのに気づいた。

 ふと顔を見てみると口をぎゅっと引き結び、青ざめた表情で冷や汗を流している。


「宮井さんは……どんな感じ?」


 これはもしやと思いおそるおそる尋ねてみると、汐莉はがくっと肩を落として


「全然……手をつけておりません……」


 と、叱られることを悟った子どものように白状した。


「さすがしおちゃん! しおちゃんはわたしを裏切らないって信じてたよぉ~!」


 優理が汐莉にがばっと抱きつく。


「てことは、優理ちゃんも全然やってないんすか?」

「そうなんだよぉ~! いつもは最後の週にまとめてやってるんだけど、大会とか合宿とか、急にイベントが入っちゃったでしょ? 練習もどんどん厳しくなりそうだし、今のうちにやらないと大変なんじゃないかなぁ~って……」


 優理が言う通りだろう。

 まったく手をつけていないというのは少し呆れるが、本来ならそこからでも残りの日数でなんとかなる量だ。

 しかし全国出場の目標を掲げたバスケ部は、他の部よりも練習が多いし、優理が言ったように月末には合宿と交流大会がある。

 今まで通りギリギリで詰め込んで終わらせるというのは少し無理がありそうだ。


「だからお願い! わたしの宿題を手伝ってください!」

「わっ、私もお願いします!」


 勢いよく頭を下げる優理に、汐莉も遅れて続いた。

 宿題を計画的にやらずに苦しめられるのは自業自得だが、あまりにも必死な姿を見ると、少し可哀想にも思えてきた。


「手伝うのはいいけど、さすがに写させてあげることはできないよ」

「ウチは別に写してもいいっすけど」


 星羅がけろっとした顔で言うが、修はなおも厳しく続ける。


「いや、ダメだよ。それは甘やかしすぎ。それに、ただ写すだけじゃ宿題の意味がない。1ヶ月以上授業も受けてないのに、宿題もまともにやらずじゃ、新学期に痛い目を見るよ」


 少し説教臭くなってしまった修の言葉に、汐莉と優理は揃って「うっ……」とたじろいだ。


「も、もちろん写させてもらおうなんて考えてないよぉ! ただ、わからない所をちょっと教えてもらおうと思って……特に数学とか」


 両手の人差し指をつんつんさせながら、優理が上目がちに言うと、汐莉も同意するようにぶんぶんと首を縦に振った。

 そういえば以前優理が平田に数学の課題を見せてあげているのを眺めていたら、間違いをたくさん見つけたということがあったのを思い出した。


「まぁ、それなら構わないけど」

「ウチもOKっす!」

「ほんとぉ!?」

「ありがとう二人とも!」


 修と星羅が了承すると、汐莉と優理は感激したように喜んだ。





 一度自宅に戻り昼食を摂ってから、修は勉強道具を持って汐莉の自宅へと向かって自転車を走らせる。

 初めはファミレスにしようかと話していたのだが、騒がしくて集中できないということになり、逆に図書館だと静か過ぎて教え合ったりするのもはばかられるということで、それならばと汐莉が自宅を提案したのだ。


 汐莉宅に到着し、自転車を適当な所へ置いてから、修は玄関までやって来た。

 ここに来るのは二度目だが、前回からかなり久しい。

 少し緊張してしまうが、それは女子の自宅だからということだけではなかった。


 修は短く息を吐いてから、インターホンを押した。

 ピンポーンという電子音が鳴ってから、少しの間があったあと。


『はい』


 インターホンから汐莉の声が聞こえてきた。


「永瀬です」

『はーい、ちょっと待ってね』


 少しして玄関の扉が開くと、Tシャツにキュロット姿の汐莉が現れた。


「いらっしゃい。どうぞ入って」

「お邪魔します」

「二人はまだ来てないから、永瀬くんが一番乗りだよ」

「あ、そうなんだ」


 ということは二人がくるまでは汐莉と二人きりだ。

 そう思うと気恥ずかしくなっきて、頬が少し熱くなってきた。


「あら、永瀬くん、久しぶりじゃな~い」


 声がした方を見てみると、リビングから女性がにこにこ顔で出てきた。

 若々しいその姿は一見すると汐莉の姉かと思われるが、れっきとした汐莉の母親である。


「あ、お久しぶりです。お邪魔します」


 修は少し顔がひきつりかけたが、悟られないようにすぐぺこりと頭を下げた。


「もう、ママ、出てこなくていいから! 永瀬くん、先に部屋に上がって。階段上がってすぐが私の部屋だよ」

「う、うん」


 修はこれ以上絡まれる前にと、汐莉の母にもう一度軽く会釈をしてから逃げるように階段を上がり、一番手前の部屋の前で一度立ち止まった。

 汐莉の家に来るのは二度目だが、その時はリビングに通されていたので、汐莉の部屋に入るのは初めてだ。

 女子の部屋に入ることに何故か少し罪悪感のようなものが湧いてきて、ドアを開けるのをためらってしまったが、ドアの前で立ち尽くしているわけにもいかないと思い、意を決してドアノブをひねった。


 瞬間、ふわっと柑橘系の爽やかな香りが漂う。

 芳香剤か何かだろうか、普段汐莉からも香ってくるものに似た香りだ。

 修は遠慮がちに部屋に入りドアを閉めた。


 ベッドに勉強机、部屋の中央には足の短いテーブルがあり、ぬいぐるみやクッション他、女の子らしい小物が雑多ではない程度に飾られており、全体的に明るい、暖かみを感じる部屋だ。


 修はとりあえずテーブルの側に座り込んだが、クッションを使うのはいけない気がして傍らに寄せた。

 しばらくするとガチャっとドアが開き、飲み物を乗せたお盆を持った汐莉が部屋に入ってきた。


「お待たせ~」


 そう言って汐莉はてきぱきとグラスをテーブル上に並べる。


「あれ? 永瀬くん、どうしてクッション使ってないの? 足痛くなっちゃうよ」

「あ、うん、ありがとう」


 せっかく勧めてくれているのを断るのもおかしな話なので、修はお言葉に甘えてクッションを使うことにした。


「そろそろ二人も来るだろうし、先に始めちゃおっか」

「そうだな」


 汐莉は修の向かいに座り、ポケットからスマホを取り出した。


「あれ、着信がきてる。メッセージも……」


 そう呟いて汐莉はスマホを操作し始める。

 すると驚いた表情になり、「えっ!」と声を上げた。


「どうしたの?」


 修が尋ねると、汐莉は困った顔になった。


「ウリちゃんとミマちゃん、来られないって……」

「ええ!?」


 聞くところによると、優理は家の事情で、星羅は兼部している放送部の先輩に呼び出されたとかで、来れなくなってしまったらしい。


 優理は自分が言い出しっぺにも拘わらずドタキャンしてしまったことを平謝りするボイスメッセージまで送ってきていた。


「まぁ、仕方ないね。反省してるみたいだし……」

「うん。なんか聴いてるこっちが気の毒に思えてくるよ」


 修と汐莉は顔を見合わせて苦笑した。


「どうする? 二人になっちゃったけど……」

「え? うーん……」


 汐莉が尋ねてきたので修は少し思案した。

 正直汐莉と二人きりで宿題をすることには若干の気まずさを感じる。

 二人でバスケの練習をすることはしばしばあるが、汐莉の部屋という密室で二人きりというシチュエーションは初めてだ。


「み、宮井さんはどうしたい?」


 結局汐莉に判断を委ねるというなんとも情けない返答をしてしまった。


「そうだなぁ、せっかくだし、永瀬くんがよければ手伝ってほしいです。私も数学がちょっとヤバめだし……」


 汐莉が遠慮がちに言った。

 答えを出してくれたことにホッとしながら、修は頷く。


「わかった。俺も数学はそこまで得意じゃないけど、できる範囲で教えるよ」

「ありがとう!」


 事が決まれば早速テキストや筆記用具をテーブルに広げて宿題を始めた。

 ところが開始数分経たず。

 修がふと汐莉の方を見ると、ペンがまったく動いておらず、小さくうんうん唸りながら眉間に皺を寄せていた。


(早速躓いたのかな……)


 そう思って眺めていると、その視線に気づいたのか、汐莉が顔を上げた。

 二人の視線が合うと、汐莉は一瞬驚いたあとばつが悪そうに笑った。


「えへへ……いきなりだけど、わからないところがあって……。教えてもらってもいい?」

「うん、もちろん。どれ?」

「ここなんだけど……」

「えーと……ふんふん、あぁ、これはね……」


 修が順序立ててできるだけ分かりやすいようにゆっくりと解説すると、汐莉は真剣な表情で頷きながら聴いてくれた。


「てことは……ここがこうで……こういうこと?」

「うん。そうそう。それで正解のはずだ」

「やった! ありがとう! この調子でがんがんいくよ~!」


 嬉しそうにはしゃぐ汐莉を見て、修の頬も思わず緩んだ。

 そのあとも汐莉は時々詰まってしまうが修の解説で理解し、同系統の問題は難なく解けるというのを繰り返した。

 修は教えていて感じたのだが、汐莉は恐らく地頭はそこまで悪くない。

 得た知識は忘れないし、応用することもできている。

 しかし最初の、理解するのに少し手間取ってしまうという弱点があるようだ。

 その辺りは少しバスケにおいてと同じだと修は思った。


(多分授業も、理解する間もなくどんどん進んでいってしまうから追い付けてないんだろうな)


 さらに宿題を進めていると、途中で汐莉の母がお菓子を持ってやってきた。


「あら? 今日は四人でやるんじゃなかったの?」

「それが、二人来れなくなっちゃって」


 汐莉が答えると汐莉の母は楽しそうにニヤ~っとした笑みを浮かべた。


「そう、じゃあ今日は二人きりなんだぁ……ふーん……。あ、なんだったらママ、今から買い物に行って来ようか? 下に私がいると、やりたいこともやれないでしょうし……」


 表情からこの人が何を言っているのかを理解した修は、頬がカァッと熱くなるのを感じた。


「ななな何を言ってるんですか!!」

「私は邪魔しないから、ご自由にどうぞ~。あ、節度は守ってね~」


 そう言い残し、汐莉の母は逃げるように部屋を出ていった。


「どうしたの永瀬くん、顔が赤いよ?」


 汐莉は自分の母が言っていたことを理解していないのか、ポカンとしていた。


「な、なんでもないよ」


 正直に言うと修は汐莉の母が苦手だった。

 初めて会ったときも汐莉との関係を尋ねてきたり、男女の関係を意識させるようなことを言って茶化してきた。

 今もそうで、楽しそうににやにや笑う彼女を見ると、少しげんなりしてしまう。


「うちのママ、たまに変なこと言うんだ。ちょっと変わってる人なんだと思う」


 汐莉が呆れたように言うのに、修は苦笑いを返すことしかできなかった。


 その後少しだけ休憩して、再び宿題を進める。

 汐莉が修に教えを乞う機会は段々減ってきて、とても順調に宿題が消化されていく。

 しかし再開してから一時間程経った頃。


「ね、ねぇ、永瀬くん……」


 汐莉が声をかけてきたので顔を上げると、汐莉の様子が明らかにおかしかった。

 そわそわしているというか、うずうずしているというか。


「ど、どうしたの?」


 おそるおそる尋ねてみると


「もう我慢できないよ……お願い……」


 と潤んだ瞳で懇願してくる。

 上目遣いでこちらを見つめる汐莉の表情は、何かいけないことをしようとしているようで。


(なんだ!? 何を言おうとしてるんだ!?)


 先程汐莉の母が言っていたことが思い出されて、修はたじろぎ顔が赤くなっていく。


(まさか、母親に煽られてその気になっちゃったとか……? いやいや、それはないだろ! でも、もしかしてってことも……)


 もし汐莉にをお願いされたら、自分はどう答えればいいのか。

 修の頭は混乱でまったく考えが纏まらず、まるで縦に横に激しく揺れるジェットコースターに脳が揺さぶられているようだった。


「あのね……ほんとは宿題やるために集まったのはわかってるんだよ……? でも、永瀬くんと二人ってなると、どうしてもそっちを考えちゃうんだ……」


 汐莉が少しずつ前のめりになってくる。

 それに合わせるかのように、修は反対に腰が引けていく。

 緊張で冷や汗が背筋を伝うのを感じ、修はごくりと唾を飲み込んだ。

 そして遂に汐莉が決心したように言った。


「バスケの練習、しよ?」

「……へ?」


 汐莉の言葉に修はなんとも間抜けな声を上げた。

 何を言われたのか理解するのに一瞬時間がかかってしまう。


「だから、バスケの練習……ダメ?」


 親にお菓子をおねだりする子どものように、汐莉は指先を遊ばせながらもう一度言った。

 その瞬間、修の体からどっと力が抜けていく。

 後ろに倒れそうになるのを腕をつっかえ棒にして支え、首を反らして天井を見上げた。


 自分の馬鹿な勘違いに先程よりも更に顔が熱くなる。

 冷静になれば当たり前のことだった。汐莉が修にそういった感情を持つなどあり得ない。

 汐莉と自分はチームメイトで、何か特別な感情があるとすればそれはバスケのコーチングに対する信頼くらいだ。


(恥ずかしすぎる……。凪先輩に告白されたりしたから、浮かれてんのかな……)


 あまりの恥ずかしさに自分が情けなくなり、修は少しへこんでしまった。


「な、永瀬く~ん……?」


 汐莉がおずおずと呼ぶ声で修はハッとした。

 目の前に相手がいるのに、自分自身にうちひしがれたまま黙ってしまっていた。


「ご、ごめん。ちょっと変なこと考えちゃってて……」

「変なこと?」

「な、なんでもないから!」


 きょとんとする汐莉に修は無理矢理笑ってごまかした。


「まぁ、いいんだけど。それで、ダメかな? 練習」

「う、うーん……」


 少しだけ落ち着いてきた心で汐莉の問いに対する答えを考える。

 別に練習するのは構わないのだが、今日は宿題をするためにきたのだ。

 自分は問題ないが、汐莉はやれるときにやっておかないと後々苦しむことになりそうだ。


「いや、今日はやめておこう。伊藤さんも言ってたけど、これから合宿とか交流大会とかあるわけだし、今のうちにやっといた方が良いよ」

「でも……」


 それでも汐莉は引き下がらなかった。


「自主練なら部活の後だってできるじゃないか」


 そう言うと汐莉がちょっぴり拗ねたような表情になる。


「だって、最近部活後の自主練のとき、ウリちゃんたちや先輩のこと見てるから、教えて貰える機会減ってきちゃってるんだもん……」

「うっ……」


 汐莉が寂しそうに言うので、修は胸を針でちくりと刺されたような痛みを感じた。

 確かに最近は汐莉以外の部員の自主練習に付き合うことも多くなった。

 もちろん、修は別に汐莉の専属コーチではない。

 正式にマネージャーからコーチに役職が変わり、チーム全員を指導するのは当然のことだ。


 しかし修が栄城バスケ部に入った一番の理由は、汐莉に恩返しをすることだ。

 自分を救ってくれた汐莉に、バスケを教えて一人前に育てることが恩を返すことになると修は思っている。


 そういう事情がある手前、修は汐莉の不満に対して強く出られなかった。


「わ、わかったよ……。ただし、今やってるプリントが終わってからね!」


 修が観念したように言うと、汐莉の顔がぱぁっと明るくなる。


「ほんとっ? やったー! すぐに終わらせるね!」


 修の許可が出て、汐莉は体を跳ねさせて喜び、素早くプリントとにらめっこを始めたのだった。

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