第118話
午後。
修は市ノ瀬スポーツクリニックで筋力トレーニングに励んでいた。今日は主に上半身を鍛えている。
復帰を少しでも早めるために、かなり負荷を強めに設定してもらっているため、正直かなりキツい。
今日も大量の汗を吹き出し、顔を真っ赤にしながら錘のついた棒を何度も持ち上げる。
「修! もうリタイヤか!? あとたった三回上げるだけだぞ! そんなこともできないのか!?」
今行っているのは仰向けに寝転んで、胸の前でバーベルを持ち上げる、ベンチプレスというトレーニングだ。
疲労が溜まり、バーベルを上げるのが滞り出した修を、トレーナーである杉浦が厳しい声で煽る。
このケーシー白衣がはち切れそうな程マッチョな理学療法士は、見た目に反してとても繊細で緻密な目を持っている。
一歩間違えれば逆に体を壊してしまいそうなメニューだが、決してその一歩を踏ませない、ギリギリのトレーニングを修に施しているのだ。
実際、修はこのトレーニングをキツいと思うことは何度もあるが、無理だと思ったことは一度もなかった。
無理かも、と思ったことは何度かあったが。
今も腕がプルプル震えており、もう限界に近い。
しかし修は最後の三回、振り絞るだけの余力はまだある。
「さぁあと二回だ! なんだ? もう限界か? その程度かお前の根性は!?」
(ちくしょお~~~!)
修はかなりの負けず嫌いだ。
煽られれば煽られる程、このぐらいで音を上げてたまるかとムキになり、それまで以上の力を発揮する。
杉浦はそのことがわかっているため、わざと意地悪な言葉で修を煽っているのだ。
「っぐ、ぅおおおおおお!」
声にならない声を上げながら、修は最後の一回を持ち上げ、金具にバーベルをかけ手を離した。
ガシャンと言う音が響くと同時に、修は腕をだらりと投げ出した。
「よし! よくやったぞ! さすがだな!」
杉浦が笑うと、その色黒の肌と対称的な白い歯がキラリと光る。
修もへろへろの状態で笑い、力の入らなくなった腕をなんとか持ち上げて親指を立てて見せた。
「相変わらずアツいですね、杉浦先生」
すると近くで聞き覚えのある声が聞こえ、修と杉浦は揃ってそちらを見た。
ルームの端にあるベンチに座っていたのは眼鏡姿の凪だった。
「なっ、凪先輩!?」
「やぁ凪ちゃん! 久し振りだね! どうしたんだい?」
「お父さんが忘れ物したからそれを届けに来たの。まったく、そそっかしいところはぜんぜん治らないんですもの」
凪が立ち上がり、やれやれと首を横に振りながら近づいてくる。
修は慌てて体を起こそうとするが、上手く力が入らずに手間取ってしまった。
「それで久し振りだったから、杉浦先生にも挨拶を、と思ったの。元気そうですね」
「当然じゃないか! それに最近は修が来てくれるからね。普段の仕事とはやりがいが違うよ! あ、市ノ瀬先生には今のナイショな!」
「ふふっ、どうしようかな?」
いたずらっぽく笑う凪に、杉浦が豪快に笑う。
仲良さげに話す二人に、蚊帳の外となった修は愛想笑いを浮かべることしかできなかった。
一分程雑談を交わした後、一旦杉浦が退室する。
すると凪がこちらを見てくすりと笑った。
「へろへろじゃない。大丈夫なの?」
「はは……いつもこんな感じです。杉浦先生、スパルタですから」
「そうね、でもちゃんと体のことを考えてくれてる。優しい人よ」
「ええ、知ってます」
杉浦は修が本当にキツそうならメニューを再考してくれたり、おすすめのプロテインを教えてくれたりと、基本的には優しい人だ。
だからこそ厳しい言葉をかけられても、信用してついていくことができる。
凪は満足そうに笑ったあと、今度は少し照れ臭そうな顔になった。
「ねぇ永瀬、今日はもうおしまいでしょ? 待ってるから、駅まで一緒に帰りましょう?」
もじもじしながら上目遣いでいう小柄な先輩に、修は思わずドキッとした。
ストレッチ等諸々のことを済ませた修は、ロビーで待っていた凪のところに早足で向かった。
凪は真剣な表情で英語の参考書を読んでいた。
(そっか、受験生だもんな……)
凪は母の許しを得て、今はバスケに全力を注ぐと決めた。
だからといって、受験が控えていることに変わりはないため、こうして合間を縫って勉強しているのだろう。
修は声をかけて良いのかわからず、その場で立ち尽くしてじっと見つめてしまう。
切れ長の目で参考書の文字を追う凪の表情は、その真面目な性格がよく現れており、とても格好良く、美しく映った。
するとその視線に気づいたのか、ふと凪が顔を上げてこちらを見た。
「ちょっと、終わったなら声かけなさいよ」
少し怒ったように唇を尖らせ、凪が立ち上がる。
「す、すみません」
慌てて頭を下げると、すぐにふっと微笑む。
「別に怒ってないわよ。行きましょう」
修は凪と病院を後にした。最寄り駅までの道を二人並んでゆっくり歩く。
「勉強、大変そうですね。部活もあるのに……」
「ううん、大したことないわよ。実は今はそんなに勉強に時間は割いてないの」
「えっ、そうなんですか?」
あっけらかんと言う凪に、修は目を丸くして驚く。
「ええ。志望校のレベルも落としたし、予備校にももう行ってないわ。それに余程のことがない限り、落ちる心配もなさそうだし」
以前聞いた話によると、凪の元々の志望校は全国でも屈指の偏差値であったらしいが、模試の判定は常にAだったのだとか。
確かにそのレベルの学力があれば、ほとんどの大学に合格することはできるだろう。
修は改めて凪の凄さに感嘆した。
「でも、よくその……お母さんが許しましたね」
今は理解を得られているとはいえ、教育熱心な凪の母が志望校のレベルを落とすことも、予備校をやめることも許すとは驚きだった。
「そうね。『別に偏差値の高い大学に行くことがすべてじゃないわ』って、特に反対もされなかったわ。正直意外よ……」
凪は不審がるようにうーんと唸った。
「でもまぁ、そのおかげでウィンターカップに集中できるわ」
「そうですね。渕上先輩も、大山先輩もしがらみから解放されて、バスケとチームに向き合えるようになったし、あとは一丸となって、やれることをやるだけですね」
夏の間は体力作りをメインでやってきたし、今後もそれは変わらない。
だが、月末の交流大会に向けてチームの連携や戦略的な練習も増やしていかなければならない。
やるべきことは山積みだ。
「そう言えば、今日の凪先輩と渕上先輩の一対一、凄かったですね!」
「そう? 渕上は納得いってなかったみたいだけどね」
部活後の二人の一対一、結果は凪の勝利だった。
始めに灯湖が三本先取し、このままいくかと思われたが、それ以降凪の堅いディフェンスを前に、攻めきれてなくなってしまった。
逆に凪は後半に強さを発揮し、足がもつれ出した灯湖をドリブルで翻弄してゴールを奪っていった。
「渕上先輩も凄いと思いますけど、あそこまで完璧に抑えるなんて、凪先輩のディフェンスはさすがですね」
単純なオフェンス力は灯湖が、ディフェンス力は凪の方が上なのは間違いないだろう。
あとはその差の大小や他の要素が勝敗を決めた。
だがとても良い勝負で、終わったあとも他の部員たちが、灯湖の攻め方のバリエーションや凪のディフェンスの位置などについて議論していたほどだった。
「あの子の実力はあんなもんじゃないはずよ」
しかし凪は不満顔だ。
そして修も気になったことがあった。
一対一が終わったあと、灯湖が何やら深刻そうな顔になっていた。
何かを考えているような顔だったが、あれは一体……。
「うちのエースが、あの程度じゃ困るのよ。きっとまだカンをもどし切れてないのね」
凪の言葉からは灯湖への信頼感が伝わってきた。
三年近く共にバスケをしてきた仲だ、三年にしかわからない何かがあるのかもしれない。
「そ、それより、ねぇ、永瀬……」
修が感心していると、凪がおずおずと声をかけてきた。
そちらを見てみると、凪は若干俯いており、身長182㎝の修からは表情が見えない。
「? なんですか?」
「あんた、渕上と大山のことが色々あって、大事なこと忘れてない?」
その言葉に修はドキッとした。
(もしかして
凪のこの態度、そして凪と修の間にある"大事なこと"と言えば。
思い浮かんだのはあのことしかない。
しかし外れていれば恥ずかしい。
「えと、何のことですか……?」
修はしらばっくれるように言った。
その瞬間、凪が赤く染まった顔を上げ、目をキッと吊り上げて叫んだ。
「私があんたに好きって告白したこと、忘れてないわよね!?」
やはり思っていたことについてであり、修はたじろいだ。
八月初頭に、花火大会で凪は修のことが好きだと言った。
今、そのことを忘れているのではないかと問い詰められている。
凪は肩を震わせ、目を潤ませながら修を見上げていた。
その表情を見て、修は凪を不安にさせてしまっていることを反省した。
告白を受けてからすぐに灯湖たちのことがあって、それどころではなかったというのは本音だ。
(でも、凪先輩の告白を、想いを、忘れたことなんかない)
部活の時だって、凪が近くにくる度に内心ドキドキしていた。
今日、トレーニング中に凪が来て、一緒に帰ろうと言われた時も。
そして今だって、心臓の鼓動が止まらない。
あれから修にとって凪は、いつだって頼れる先輩であると同時に、自分に好意を寄せてくれる女の子なのだ。
(でも、まだ答えは出せない)
だから今返すことのできる言葉だけを、慎重に選ぶ。
「忘れてなんかいませんよ」
凪の強ばった顔が、少しだけ柔らかさを取り戻す。
「最近色々ありましたけど、凪先輩の気持ちを忘れたことはありません。でも、答えはまだ待ってほしいです。凪先輩のことはもちろん好きです。だけど、それがどういう意味での好きなのか、自分でもわからないんです」
喋りながら、どんどん顔が熱くなっていくのを感じる。
今鏡を見たら茹でたタコと間違えてしまうのではないだろうか。
ふと凪の方を見てみると、彼女も同じく顔を真っ赤にして俯いていた。
「す、好きって……」
「……?」
修の耳に聴こえないほどの小声で何やら呟いている。
「凪先輩?」
修が声をかけると弾かれたように顔を上げた。
「ご、ごめんなさい、私の方から勝手に告白して、私が答えはまだいらないって言ったはずなのに……。なんか、催促しちゃったみたいで……。わ、私も、こんな気持ち初めてでっ! だから、その……」
凪自身も自分の気持ちに混乱しているようだった。
早口で捲し立てるが最後は口ごもってしまう。
「きょ、今日のことは、忘れて! じゃ、じゃあまた部活で!」
「あ、先輩!」
凪は一目散に駆けて行ってしまった。
駅まではまだそれなりに距離があるが、凪はスピードを緩めずどんどんとその背中は小さくなっていく。
残された修を咎めるようにアブラゼミが激しく喚き散らした。
木の方を一睨みしてから、修も駅に向かって歩き出す。
(俺だって初めてで、わからないよ……)
知り合ってからまだ二ヶ月程度しか経っていないが、凪は色々な表情を修に見せてくれる。
そしてそれらはどれも、とても魅力的なものばかりだ。
あんなに可愛らしい、恋する乙女の姿を見せられたら、いつまでも答えを長引かせておくわけにはいかないと思った。
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