第111話

 大山晶はベンチの隅でうなだれている親友の姿に、胸がずきずきと痛むのを感じた。

 思い起こされるのは中三の総体。


 自らのパスを仲間に拒絶されたときも、灯湖はこんな風に、今にも倒れてしまうのではないかと思うほど、青ざめた表情で俯いていた。


 自分たちがやろうとしたことは間違いだったのだろうか。

 素人考えで下手に灯湖のトラウマを刺激して、なおさら傷を深くしてしまったのではないか。


 そんなネガティブな思考がぐるぐると頭の中を巡る。

 灯湖を今すぐここから連れ出して、一緒に逃げればこれ以上傷つくことはないかもしれない。

 一瞬そんな考えが頭を過る。


(ううん、それは違う。そんなんじゃダメなんだ!)


 これまでの晶ならそういう選択肢を選んでいたかもしれない。

 だが晶は首を横に振って、今浮かんだ考えを払拭した。


(ここから逃げたら、確かに灯湖はもう傷つかないかもしれない。だけど、そうしてしまったらもう二度と、灯湖は笑顔でバスケをすることができないかもしれない)


 凪も、菜々美も、涼も、一年生たちも、灯湖のために尽力してくれている。

 ここまでやってくれる仲間が、今後どれだけ現れるだろうか。

 きっと、今、この栄城というチームメンバーがいる今、トラウマと向き合わなければ、灯湖の傷は癒えない。

 一生トラウマを抱えたまま灯湖は生き続けなければならない。


 勝手ではあるが、そんな確信が晶にはあった。


(灯湖は今、過去の悪夢と向き合って、それに打ち克たなければいけないんだ。そうしないと前に進めない……。灯湖も、あたしも……!)


 晶は決意の炎を瞳に宿らせ、灯湖の隣にゆっくりと腰かけた。


「灯湖、大丈夫?」


 反応は返ってこない。

 しかしそれでも晶はへこたれずに話しかける。


「見て、みんな頑張ってるよ。星羅と汐莉も、急に出ることになったのに、自分の仕事を果たそうって走ってる。ちょっと休憩したら、あたしらも戻らないと」


 それとなくもう一度コートに出ようと誘いかけるが、灯湖は顔を上げない。

 すると灯湖は絞り出しているかのようなか細い声で呟いた。


「もう……やめてくれ……」

「え……?」

「君たちがやろうとしていることはなんとなくわかる……。私のトラウマを再現して克服させようという魂胆なのだろうが……残念ながらこの有り様だ。もう無理だよ。どれだけ名前を呼ばれても、そちらの方に顔を向けることはできない。横目に見えるのは、黒いもやがかかった不気味な空間。そこには、何かおぞましい、悪魔のような存在がいるんじゃないかと思ってしまうんだ……」

「…………」


 灯湖は渇いた笑みを浮かべながら言った。

 その顔は先程よりもさらに青ざめており、瞳は潤み、唇はわずかに震えている。


 灯湖を苛んでいるのは紛れもない恐怖だった。

 昔から灯湖を見てきた晶には、その恐怖が痛いほどわかる。

 しかしこの恐怖を乗り越えなければならないのだ。

 そしてそのための条件は、これ以上ないほど整っている。


 晶は一度だけ深呼吸をして心を落ち着かせ、険しい顔でゆっくりと口を開いた。


「灯湖は、みんなとバスケするのは嫌?」

「!」


 晶の問いに、灯湖はビクッと肩を震わせた。


「みんなのこと、信用できない? 昔一緒にやってた子たちと同じだって思ってるの?」


 わざと煽るように質問を重ねる。


「そんなわけないだろう……!」


 すると灯湖は静かに、だが激しい感情を込めて鋭く言った。


「今の試合だけでも皆が本気で全国を目指して頑張るつもりでいるのはわかる! 私のために何かをしようとしてくれているのも感じるさ! だけど……、それでも……」


 灯湖はさらに深く俯いた。

 そして全身をわなわなと震わせながら呟く。


「それでも……怖いんだ……。怖くて怖くて、仕方がないんだ……!」


 昨晩見せた姿と同じだ。

 灯湖は恐怖に足がすくんで身動きがとれなくなってしまっている。


(それなら、あたしにできることは……)


 いつもは、灯湖の言う通り、灯湖が嫌な思いをしないようにと、自分の考えを押し止めて、後ろを付いて行った。

 今回のようなケースなら、一緒にその恐怖から逃げ出すことを選んでいただろう。


 しかし今は違う。

 一緒に、恐怖に立ち向かうと決めた。

 これからは、後ろを付いて行くのではなく、隣を歩き、そして必要ならば前を歩いて手を引いてあげたい。


 これは、その最初の一歩だ。


「灯湖、こっちを見て」


 優しく声をかけるが、灯湖は顔を上げない。


「灯湖」


 もう一度声をかける。

 するとゆっくりと、灯湖が晶を見た。

 幼い子どものように怯えた顔で見つめてくる灯湖を、晶は優しさに満ち溢れた眼差しで見つめ返す。


「今、灯湖の目の前にいるのは誰?」

「……晶だ」

「そう、晶だよ。灯湖の親友で、灯湖のことが大好きな大山晶。あたしは灯湖のこと、地球上の誰よりも信頼してる。灯湖はあたしのこと、信頼できない?」


 灯湖は晶の質問に、若干困惑を浮かべながらも


「……信頼、してるよ……。いつだって……」


 と答えてくれた。


「ありがと」


 晶はほっとしながらも、言葉を続ける。


「昨日、あたし言ったよね。あのときとは違うんだよって。あのときのチームメイトは一人もいない。見て、皆のこと」


 今度はコートの方を指差すと、灯湖もそちらに視線を向けた。

 コート上では、五人のチームメイトが懸命にプレーしている。


「今も必死に闘ってる。このチームは、皆が勝つために頑張れるチームだよ。コーチにやらされてた中学のときとは違う」


 皆それぞれ自分の意思で、厳しい目標を掲げて努力している。

 このメンバーなら、あのときのようなことは絶対に起こらない。


「それにあたしもいる! あたしは絶対灯湖からのパスを避けたりしない! 他の皆だってそうだよ! だから信じて! あたしのこと……皆のことを!」


 感情が昂り、目から涙がこぼれそうになるが、必死に押し止める。

 今は不甲斐ない姿を灯湖に見せることはできない。

 灯湖は目を見開いて驚いている。


(バスケに神様がいるなら、お願いします。これから必死に努力します。だから、少しだけ勇気をください)


 晶は勢いよく立ち上がり、灯湖に手を差し伸べた。


「灯湖がトラウマに、恐怖に打ち克ちたいと思うなら、手をとって。いっしょに闘おう」


 見上げる灯湖の目からは、未だ恐怖は消えていない。

 しかし、先程までのように暗い表情ではなく、生気を感じられる表情になりつつあった。


 そして、灯湖は恐る恐る手を伸ばし、晶の手をとった。


「よし!」


 晶は力を込めて灯湖を引っ張り上げた。

 勢い余った灯湖がもたれ掛かってくるのを、優しく抱き止める。


「何度だって呼ぶよ。灯湖の名前。灯湖からパスが来るまで、何度でも!」


 至近距離で灯湖を見つめながら、晶は宣誓する。


「行こう!」

「……わかった」


 灯湖は眉根を寄せ、唇を固く結んで頷いた。

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