第108話
自身の自転車を停めた場所までやってきた灯湖は、そこに修たちが待ち構えていたことに気付いて、あからさまに不機嫌そうな顔になった。
「……晶、君がそんなに口の軽い人だとは思わなかったよ」
灯湖が吐き捨てるように言うと、晶は少し眉根を寄せた。
するとその間に割って入るように凪が前に出る。
「渕上、単刀直入に言うわ。明日からまた部活に戻ってきて。全国目指して一緒にやりましょう?」
まっすぐ灯湖を見つめて言う凪に対し、反対に灯湖は決して目を合わせようとはせず、黙ったままだった。
「あんたが必要なの。別に誰でもいいわけじゃない。今まで一緒にやってきた仲間だと思ってるから言ってるのよ」
灯湖の眉が一瞬ぴくりと動いたように見えた。
もしかしたら完全には心を閉ざしていないのかもしれない。
そう思ったとき、灯湖が短くため息をついた。
「昨日も言っただろう。もう私は本気でバスケをすることはできない。お遊びでいいなら話は別だが、君たちは明確な目標に向かって努力する覚悟を決めたんだろう? それなら、私がいない方が都合が良いはずだが」
やはり灯湖の態度は変わらず頑なだった。
しかし凪も負けずにはっきりとした口調で反論する。
「あんたはそれでいいの? 本当にお遊びだけのバスケで満足できるわけ?」
灯湖がようやく凪と目を合わせたが、その表情は不快感を露にしていた。
「何が言いたい」
「未練があるんでしょ」
確信を持っているかのように凪が言った。
図星だったのか、一瞬たじろいだようにも見えた。
しかし灯湖はほとんど表情を崩さずに淡々とした口調で言う。
「昨日私はこう言った。『私は本気でバスケをできない』。そして『私が本気でやれば誰もついてこれない』とな。傲慢で最低な発言だ……。だが、やはり本心でもある。私はここにいる誰より上手いという自負がある。もちろん、凪、君よりもだ」
挑発ともとれる物言いだが、恐らく本気で言っている。
修も先程の灯湖のプレーを見た後だと、それが過信ではないと理解できた。
凪も同じように思っているのか、表情を変えず、反論もせずに灯湖の次の言葉を待っている。
「一人だけ実力がかけ離れたメンバーがいれば、その人頼みになるか、あるいはその人が周りに合わせてプレーする。そんなものはもうチームではない。そんなチームに全国など目指せるわけがない。だから私は君たちとは一緒にできない。一緒にやるべきではない」
灯湖は諦めているかのように、伏し目がちに首を横に振った。
灯湖の言い分は一理ある、と修は思った。
修も実を言うと中学時代実力が飛び抜けていたため、チームでは若干浮いていた。
だが同級生や後輩は向上心が高かったので、修に負けまいと努力をしてくれたおかげで、先輩が卒業してからはそんなこともなくなった。
灯湖は、栄城ではそういう風にはならないと思っているのだろうか。
しかし凪はすこしだけ不機嫌そうな顔で、灯湖の発言を否定する。
「どうしてその二択しかないわけ? 選択肢はもっとたくさんあるはずよ。例えば、私たちがあんたが全力でプレーしても遅れをとらないレベルにまで上達する、とか」
予想外の返答だったのか、灯湖は少し目を見張った。
「私たちならあんたの期待に応えられる。ううん、絶対に応えてみせるわ」
まるで誓うように凪が言うと、修たちも全力で頷き同意する。
灯湖は段々と気圧されているような表情になってきた。
「……私にはトラウマがある。あんなものを抱えたままでは、いずれにせよまともにプレーできない」
「みんな苦手なプレーの一つや二つあるものよ。あんな限定的なプレーが一つできないぐらいじゃ別になんの問題もないわ」
「それじゃあ私が満足できないんだよ」
灯湖が言葉に少しだけ怒りを含ませた。
凪との押し問答に苛ついているのだろうか。
(でも多分……、渕上先輩もみんなと一緒にバスケをしたいって思いはあるはずだ)
修のときと同じなのかもしれない。
「こうしたい」と思っても、トラウマへの恐れや諦め、自信の喪失などからあと一歩を踏み出せない。
(過去にケリを付けなきゃ前には進めないんだ)
修がトラウマを克服したきっかけを作ってくれたのは汐莉だった。
ならば灯湖がトラウマを克服するきっかけを作るのは誰か。
そんなのは決まっている。
「とりあえず、私が今言ったのは部員の総意よ。みんなあんたを待ってる。私たちからは以上よ」
凪はくるりと振り返り、
「あとは任せたわ」
と言って晶の肩に腕を伸ばしてポンと叩いた。
「うん」
晶も固く口を結び、決意のこもった目で頷いた。
「帰りましょう」
凪の合図で修たちはその場に背を向け立ち去る。
あとは晶次第だ。
責任を押し付ける形になってしまうが、灯湖と最も長い時間を過ごしてきた晶にしかできないことだ。
修は心の中で晶へエールを送る。
(よろしくお願いします、大山先輩)
大山晶は自転車を押しながら夜道を歩いていた。
隣には大親友である渕上灯湖もいる。
いや、もしかしたら大親友だと思っているのは自分だけかもしれない。
こんなに近くにいたのに灯湖は自分に本当の悩みを打ち明けてくれたことがなかった。
その事実を知ったとき、晶の胸はきつく締め付けられ、捨てられた子犬のように惨めな気持ちを味わった。
しかし今は違う。
苦しんでいる灯湖を救い出すことができるのは晶だけだと、チームメイトたちは言ってくれた。
そして灯湖のために何かしたいという気持ちが一番強いのも自分だと自信を持って言える。
この際灯湖が自分のことをどう思っているかは関係なかった。
チームの信頼を背負って、そして灯湖の笑顔のために、晶はやらねばいけないことがある。
(当然、灯湖に嫌われるのは怖いけど……ね)
街灯と二台の自転車の明かりを頼りに、二人肩を並べてゆっくり歩く。
皆と別れてから二人ともまだ無言だ。
恐らく晶が何か喋らない限り灯湖は無言を貫くだろう。
しかし灯湖は晶を置いて先に帰るということはせず、一応は一緒にいてくれている。
そのことに晶はほっとしたが、このまま家まで黙って歩き続けるわけにはいかない。
晶は意を決して灯湖に話しかけた。
「灯湖……ごめんね、あそこで練習してること、勝手にみんなに言っちゃって」
「……別に、秘密にしていろと言った覚えはないし、構わないよ」
落ち着いた灯湖の声からは上手く感情を読み取れない。
しかし会話には応じてくれるようだったので、晶はひとまず安心した。
「私こそ、今日はサボってすまなかった……。それに、昨日も……感情的になって、皆に嫌な思いをさせた……」
灯湖は苦しそうに顔を歪めて言った。
先程もかなり頑なな態度をとっていたが、内心申し訳なさや後悔の気持ちはあったのだ。
「それはあたしじゃなくて、みんなに言おう。みんなに謝って、それでまたみんなで一緒バスケやろうよ」
できるだけ優しいトーンで言うと、灯湖は晶を横目でちらりと見た。
「凪に私を説得するように言われたのか」
「まぁ……そう、だね。それもある。だけど別に凪やみんなに言われたからこうしてるわけじゃないよ。灯湖に……灯湖と一緒に、みんなでバスケがやりたいと思ってるから、今ここで話してる」
すると灯湖がつらそうな顔で俯き、
「晶はいつでも私の味方をしてくれると思っていたが、勘違いだったか……」
と呟いた。
それを聴いた晶は、胸がきゅっと痛むのを感じた。
灯湖が落胆している。
灯湖の信頼を裏切っている。
そう思うと胸がさらにずきずき痛む。
今、灯湖に「みんなのことは気にせず部活なんかもう辞めちゃってもいいよ」とか、「あたしも一緒にサークルの方でやるよ」とか言えば、灯湖は笑ってくれるだろうか。
一瞬そんな誘惑に負けそうになった。
その方が楽だし、灯湖がこれ以上傷つく可能性も大いに減る。
(ううん、そんなんじゃダメだ!)
しかし晶は心の内で自分を叱咤し、奮起を促した。
今灯湖に必要なのはそんなうわべだけの寄り添いではない。
そんなことを繰り返したところで、灯湖の傷は癒えることはなく、本当の意味で満足することはできないのだ。
(灯湖だけじゃない……。あたしだって、弱いままの昔の自分にケリを付けなきゃいけないんだ!)
奥歯を噛みしめ目に力を込める。
灯湖のために。自分のために。
「ううん、あたしはいつだって灯湖の味方だよ。灯湖のことが大切で、大好きだから……。だからこそ、灯湖が嫌だと思うことだって言う。このままじゃダメだよ。灯湖だって、本心では凪たちの言ってることに魅力を感じてるんじゃないの? 期待してるんじゃないの?」
胸の鼓動が早くなる。
こんなに灯湖に歯向かうことなど今までなかった。
灯湖に嫌われることへの恐怖で足がすくみそうになる。
しかし決して弱った表情は見せまいと歯をくいしばった。
「無理だよ……」
灯湖が泣きそうな声で呟いた。
「怖いんだ……! どれだけ忘れようと思っても、またパスを拒絶されるかもしれない……。自分のせいでまたチームがバラバラになってしまうかもしれない……。それがたまらなく怖い……!」
灯湖が立ち止まり、片手で顔を覆った。
肩が震えている。泣いているのだろうか。
この数日間だけで、これまでからは考えられない程灯湖の弱った姿を見た。
だがそれは今まで表に出てこなかっただけで、灯湖は胸の中にずっと痛みを抱えていたのだ。
それを放置したまま隣にい続けるのは、親友として自分を許すことができない。
「あのときとは違うよ」
晶は静かに、それでいてはっきりとした口調で言う。
「明日、急遽練習試合が入ったんだ」
今日の練習後、川畑から告げられた。
凪はそれをちょうどいい機会だと捉えた。
「だから来てほしい。そこで感じてほしい。みんなの……あたしたちの本気を」
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