第101話

 翌朝、修はいつもより早めに体育館に入り、練習の準備を手早く済ませてベンチに座っていた。

 昨日の件で気持ちが落ち着かず、普段の時間よりも目覚めが早かったので、どうせなら早入りして心の準備をしておこうと考えたのだ。


 しばらくして汐莉が体育館にやって来た。

 既に準備が終わっていることに驚いた表情になりながら、汐莉は修に近づいてくる。


「おはよう。今日は早いね」

「おはよう。ちょっとそういう気分でさ」


 修は力なく笑った。

 それを見た汐莉は心配そうに眉をひそめた。


「昨日、灯湖先輩と晶先輩とは何があったの? けっこう険悪なムードみたいだったけど……」

「うん……実は……」


 修は汐莉にも言い合いになった経緯を説明した。


「そっか、それで喧嘩になっちゃったんだ……」

「渕上先輩の言ったことは許せないけど……俺も言い方がまずかったって反省してる。感情に任せて怒鳴っちゃったし……。だから、まずはそのことを謝ろうと思う。凪先輩もそうした方がいいって」


 本音を言えば灯湖と晶に対しての不満の方が大きいため、こちらから謝るのは癪だという感情もある。

 しかし凪が言っていたように、全国出場という目標を達成するためには二人の力が必要だ。

 二人をその気にさせるためならば、自分のプライドのことなど気にしてはいられない。


「灯湖先輩がパスをしない理由についても訊くの?」

「いや、それは……タイミングを見てって感じかな……。どっちにしろそれは凪先輩に任せると思う。俺が訊くとまた揉めちゃいそうだし……」


 この問題を完全に解決するには当然それもはっきりさせておかなければならないだろう。

 しかし焦ればまた昨日と同じようなことになる可能性が高い。

 急がなければいけないのに急ぐことができない。修はジレンマに歯噛みした。


「ねぇ、私にも何かできることってあるかな?」

「……いや、とりあえず今回のことは俺と凪先輩でなんとかするよ。宮井さんは自分のスキルアップに集中して」

「でも……」


 汐莉はすぐに引き下がらなかった。

 恐らくチームの問題に対して何もしていない自分に不甲斐なさを感じているのだろう。


 しかしそもそもチームをまとめることに本腰を入れて動いている修と凪は、汐莉の尽力によってこの部にいられるのだ。

 そう考えると充分な働きをしているので、汐莉が悩む必要はない。


「大丈夫だって。それに、いつかは宮井さんに頼るときは来ると思ってるから。『今回は』ってだけだよ」

「……うん、わかったよ」


 渋々と、といった様子ではあったが汐莉も了承してくれた。

 そしてそうこうしているうちに残りの一、二年生が現れ、程なくして凪がやってきた。

 凪もこの後のことを考えてか、少し緊張の面持ちになっていた。


 しかし練習開始時間10分前になっても灯湖と晶の姿はまだない。


「もしかして来ないつもりじゃないでしょうね……」


 凪が腕組みをして険しい声で呟いたので、修もなんだかそんな気がしてきた。

 冷静に考えてみると、昨日あんな風に別れておいて、翌日普通に顔を出すとは考えにくい。


「これは本格的にまずいことになったかもしれないわね」


 凪としては何気なく言った言葉なのかもしれないが、隣に立っていた修の胸にぐさりと突き刺さった。

 もし本当に二人が来なければ、それは確実に修のせいだ。


 他の部員たちも、昨日起きたことをなんとなく察しているのか、灯湖と晶がまだ姿を現さないことにそわそわしている様子だった。


 このままでは練習に影響が出てしまう。

 それを見越して早めに来ていたのに、肝心の二人が来ない可能性を考えていなかったのは浅はかだった。


 しかしそう思っていた矢先、灯湖と晶の二人が出入口からフロアに入って来るのが見え、修はとりあえずホッとした。

 ところが二人の後に続いて川畑も一緒にやって来たのが見え、修は落胆してしまった。


 川畑がいては二人と話ができない。

 何故なら川畑にこのことを知られてしまえば、大事になってしまう可能性が高いからだ。


「先生がいたんじゃ話せないわね。しょうがないから、練習終わりに急いで二人を捕まえるわよ」

「わかりました」


 もしかすると既に二人が川畑に、昨日のことを報告したのではないかとも思い少し緊張したが、川畑の元に集まって挨拶をした時にそういった雰囲気はなかった。


 そのことには安心したが、その後の練習が最悪だった。

 いつも通り修が指示を出して進行しているが、灯湖キャプテン副キャプテンと揉めている中、皆にあれこれ言うのはとても気が引けてしまい、変にぎくしゃくしてしまった。


 さらに、灯湖と晶は修の指示に反発したりすることはなかったが、まったく目を合わせようとしない。

 三人が醸し出す険悪な雰囲気にあてられて、他の部員たちもやりづらそうにしていた。


 さすがに川畑も異変に気付き「何かあったのかな?」と修に尋ねてきたが、「いえ、別に何もありませんよ」としらばっくれた。

 川畑は首を傾げていたが、それ以上追及してくることはなかった。


 そしてそんな最悪の練習もなんとか終わりまで漕ぎ着けることができた。

 川畑は今日も仕事があるらしく、クールダウンの頃には既に体育館を離れていたので、すぐさま解散となる。


 案の定灯湖と晶は足早に去ろうとしていた。

 修は凪と視線の合図を送り合い、急いで二人の元へ向かう。


「待って二人とも! ちょっと話があるんだけど!」


 凪が声をかけると二人は立ち止まり振り返った。


「……何? こっちは話すことなんてないけど。特にそっちのヤツには」


 晶は修を睨み、驚くほど冷たい声で拒絶した。

 修はそれに対して腹立たしい気持ちが沸いてきたが、なんとか表情に出さないよう努める。

 他の部員たちは突然始まった不穏なやり取りに何事かと驚きながらも、成り行きを見守るために適度な距離を空けて集まってきた。


「そんなこと言わないで。永瀬も反省してるのよ。昨日のこと謝りたいって」


 そう言って凪は修に視線を送り、それを受けた修は少し前に出る。


「昨日のこと、すみませんでした。感情的になって、出すぎたことを言ってしまったと思います。すみません」


 修は深々と頭を下げた。

 これで事態が好転してくれればという期待を込め、恐る恐る顔を上げる。


 それぞれの表情を確認してみると、晶は素直に頭を下げられたことにたじろいでいるようだった。

 灯湖は何かを考えているかのように、視線を床に向け口をつぐんでいる。


「ま、まぁ、そこまで言うなら、こっちも、別に……。ね、ねぇ灯湖……?」

「…………」


 晶が灯湖にすがるような声をかけたが、灯湖はすぐには口を開かなかった。

 晶はどうしていいのかわからないのか、一瞬凪の方を見て、それからまた灯湖に視線を戻す。


 晶は恐らく灯湖が何か言わない限り自分の答えを出さないだろう。

 修は灯湖が反応を返してくれるまで待つのが最善だと考えた。


 すると灯湖ふぅ、と軽くため息を吐くと


「うわべだけの謝罪なんか聴きたくないな」


 と、冷たい声で言い放った。


「大方、とりあえず下手に出て場を収めようとしているのだろう? それくらいわかる」

「そ、そんなこと、ないです……!」

「どうかな。前々からわかっていたよ。永瀬君、君が私のことを疎ましく思っていること」

「…………!」

「私がキャプテンとしての仕事をまっとうしていないことが腹立たしかったんだろう。つまり昨日のことはきっかけでしかない。溜まりに溜まった鬱憤が、君の怒りに火を着けたんだ」


 修は図星を突かれて咄嗟に言い返せなくなってしまった。

 灯湖は淡々と言葉を連ねているが、すべてお見通しだと言わんばかりに修の心を言い当てるので、修はわずかに恐怖すら感じた。


「それに、この前総体を見に行ってから辺りか……。明らかに練習姿勢が変わったね。凪、永瀬君、それに汐莉と二年の二人かな。何か共通認識ができたみたいに見えたけど」


 灯湖は目を動かして名を挙げた者の顔を順番に見た。

 別に睨みをきかせたわけではなかったが、修は得体の知れない迫力を感じて少しうろたえてしまった。


「そのことで余計に私と君たちとの意識の差が明確になってしまったな」


 灯湖はすべてわかっていたのだ。

 わかった上で、以前と変わらないいつものような態度を崩さなかったのだ。

 しかし何故、そこまで頑なな態度をとるのか、その理由がわからない。


「そこまでわかってるなら白状するわ。私たちは次のウィンターカップで全国出場を目指してる。察しの通り、この認識を共有しているのは私と永瀬、菜々美、涼、宮井の五人よ」


 凪は両手を腰に当て、ため息混じりに言った。

 このことは本来ならばもっと段取りを踏んでから打ち明けるつもりだった。

 しかし凪は今言うのが一番良いと……或いは今言わなければいけないと判断したのだろう。

 そして名を呼ばれた修以外の三人は、頷いて肯定の意思表示を見せる。


「全国って……本気?」

「本気よ」


 唖然とした表情で問いかける晶に、凪はきっぱりと言い放った。


「それはまた……立派な目標だな」


 今度は灯湖がポツリと言った。

 その表情からはいまいち感情が読めないが、呆れているわけでも馬鹿にしているわけでもなさそうに見えた。


「そしてその目標はあんたたち二人が協力してくれる前提、絶対条件だと思っているわ。あんたたち二人が必要なのよ」


 凪の言葉からは真摯な思いが伝わってくるが、二人にとってはどうだろうか。

 灯湖の顔を窺うと、一瞬だけ目が揺らめいたように見えた。


「……悪いが、お断りだ」


 ところが灯湖の返答は無慈悲なものだった。

 しかし凪は簡単には引き下がらない。


「どうして?」

「無理だからだ。例え私たち二人も君たちと同じように本気になったとしても、全国出場なんてできやしない。公立で部員も少ない弱小校、それが私たちだ。今さら努力したって無駄なんだよ」


「そんなことありません!」


 力強い声が響き渡り、全員がその声の主に視線を向けた。


「宮井さん……」


 修が言おうとしたことを、汐莉が先に言ってくれたのだ。


(そういえば、禁句だったな……)


 修は一年生大会のときを思い出して、思わず笑みがこぼれた。


「無理とか、無駄とか……そんなのやってみないとわからないです! 最初からそうやって諦めてしまえば、良い結果は絶対にやって来ません……。だけど、無理じゃないって信じて努力すれば、可能性は生まれるんです!」


 きっと我慢できなかったのだろう。

 汐莉の辞書には「無理」や「できない」という文字はない。


(あれ……?)


 しかしよく見ると汐莉の体は震えていた。

 そこでふと思い出した。凪の退部の件で彼女の母と話したとき、汐莉はあまり積極的に発言できておらず、その後自分でもそれを認めていた。

 つまり汐莉は目上の人に対して強く出られないのだ。


 今回の汐莉の行動はかなり勇気を振り絞ってのものだったのだろう。

 その表情はとても不安げなものに変わっていた。

 するとそんな汐莉に菜々美が近付いて、優しく肩を抱いた。


「私も汐莉ちゃんに賛成です。頑張ってみる価値はあると思うんです。この八人なら」


 汐莉を庇うように菜々美が言うと、涼も前に出て頷いた。

 これまで部が崩壊してしまわないように気を遣って一歩引いていた菜々美が、こういった行動に出るとは意外だと修は驚いた。

 菜々美が動いたのは、恐らく汐莉の想いに感化されてのことだろう。


 そしてそれを見た灯湖は苦しそうに唇を噛んでいた。

 晶はどうしたらいいのかわからないといった様子でおろおろしている。


「……どっちにしても、私に期待するのは無駄だ。私はもう本気でバスケをすることはできないんだから……」

「……? どういうことです……?」


 弱々しく話す灯湖の言葉の意味がわからずに修は問いかけた。

 しかしその瞬間灯湖はハッとした表情になり、慌てて口をつぐんだ。言うつもりでなかった言葉を無意識に発してしまったようだ。


「それってもしかして、あんたが右サイドにキックアウトできないことと関係あるの?」


 その隙を逃すまいと凪が鋭く問いかけると、灯湖の顔はさらに歪み、みるみる青ざめていく。

 どうやら凪の質問は核心を突いていたようだ。明らかに何かある。


「待って! それ以上は……!」


 晶が慌てて灯湖と凪の間に割って入った。

 しかし凪も引き下がらない。


「お願い、聴かせて。あんたがバスケに本気になれない理由。理由がないなら私たちはいつまでもあんたにこだわるわよ。でも理由があるなら、その内容次第では諦める。本当に苦しんでる人に強要はさせられないもの」


 灯湖が心に何らかの傷を負っていることは明白だ。

 凪は優しい声で、心配そうに眉を寄せながら灯湖に問いかける。


 灯湖はまだ俯いたままだ。


「やめて凪! ダメなんだよこの話は! これ以上は灯湖が……」


 灯湖の姿を見ていられなくなったのか、晶が必死に凪を止めようとした。


「待ってくれ晶」


 ところがそれを灯湖が遮った。

 晶が驚いたように振り返ると、灯湖がゆっくり顔を上げた。

 依然として顔色は悪いが、その目からは決心が窺い知れる。


「凪は頑固なところがあるからな……。恐らく、話さないと解放してもらえないだろう……。だから話す。私が本気になれない理由を。そうすれば、諦めてくれるんだろう……?」


 灯湖が力なく笑いながら言った。

 その声からはどこか諦めのような感情も込められているように感じる。


 そんな灯湖を晶は心配そうに見つめていた。


「……少し長くなるが」


 灯湖は力が抜けたようにベンチに座り込んで、長いポニーテールをほどいた。

 そしてうなだれた状態でゆっくり語り始める。


「あれは今から三年前、私が中学三年のときだ……」

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