第85話
土曜日の早朝。
修はポロシャツにハーフチノパンという出で立ちでリュックを背負い、玄関に座り込んで靴を履いていた。
靴紐をきつく結んで立ち上がり、靴のフィット感を確かめてから食卓の方へ向き直る。
「じゃあ俺行ってくるから!」
修が軽く叫ぶと奥の方から声がして、今度はパタパタとスリッパを鳴らす音が近づいてくる。
扉を開けて廊下に顔を出したのは修の祖母、明子だ。
「修、これ電車代とお昼ご飯代」
そう言って剥き身の一万円札を修に差し出した。
修はお礼を言って素直に受け取った。
以前は遠慮していたが、働いていない内は家族に甘えても良いんだと強く諭されて以来、差し出されたお小遣いは受け取るようにしている。
もちろんそのお金は無駄に使ったりしない。
そしてそのお金が余っても明子は返却を受け取らないため、いつか返せるように貯金箱に集めていた。
「夜までには帰ってくるんでしょう?」
「多分ね。帰る頃にまた連絡を入れるよ」
「わかりました。じゃあ、気を付けてね」
「うん、行ってきます」
微笑みながら見送ってくれる明子に手を振り返して、修は玄関を出た。
自転車に乗り、駅を目指して漕ぎ始める。
今日は総体の本戦初日。
これから熱い戦いが始まるということを思えば、出場チームに無関係な修でさえも胸が高鳴る。
ミニバス時代も中学時代も、修は全国大会に出場したことがなければ見に行ったこともない。
各都道府県選抜の大会には出たことがあったが、それは修にとってはお祭りのようなものだという認識だった。
つまり今日が、全国の空気を肌で感じられる最初の日となる。
自転車を漕ぐ足が自然と速くなり、思っていたよりもかなり早く駅に着いた。まだ集合時間の25分前だ。
しかし自転車を置いて駅の構内に入ると、見知った顔が二つ修の目に入ってきた。
「お早うございます!」
「あ、おはよう永瀬くん」
「おはよう……」
先に待っていたのは菜々美と涼の二人だった。
菜々美はタイトめのデニムパンツに白の半袖ブラウスといった大人っぽい服装で、練習中と同じく後頭部の低い位置で一つに結ったポニーテールという髪型だ。
涼はダメージデニムに少し大きめのTシャツといったラフな服装で、頭にはキャップを被っている。
「早いですね」
修としては最低学年なので一番乗りで皆を待っていようと思っていたのだが、なんと先輩に先を越されていて驚いていた。
「通学とかはそうでもないんだけど、こういういつもと違うシチュエーションのときはなるべく早く来るようにしてるんだ」
「菜々美は、心配性だから。アタシはそれにくっついてるだけ……」
「永瀬くん、切符? IC? 往復で2000円ちょっとかかるよ」
「あ、チャージしときます」
昨日も思ったことだが、菜々美はよく気が回るししっかりしている。
そして涼はそんな菜々美のことを信頼しきっているようだった。
ICカードにチャージした後、三人で雑談していると程なくして凪がやってきた。
「おはよう。もしかして私が最後?」
「いえ、まだ汐莉が来てません」
「そう。じゃあもう少しここで待ちましょうか」
凪は以前図書館で見かけた時と同じく、おさげ髪を下ろして眼鏡をかけていた。
花柄のスカートに白のフリルが付いたノースリーブシャツを着た彼女は、可愛さと知的さを両立させた独特の雰囲気を纏っており、修はドキッとした。
そんな修の視線に気付いた凪が怪訝な顔になる。
「? 何よ」
「い、いえ、なんでもありません!」
慌てて目を逸らす修に、凪はふふっと笑って「変なやつ」と呟いた。
気を取り直して、後は汐莉を待つだけとなった。
しかし集合時間が近づいても、一向に汐莉がやって来る気配がない。
四人はさすがに変だと思い始めた。
「俺、連絡してみます」
修がスマホを取り出し汐莉の番号をコールした。
しかしコール音が繰り返されるだけで汐莉の応答はない。
「ダメです、出ません」
「……時間に遅れるような子じゃないし、何かあったのかしら」
凪の言う通り、汐莉が遅刻をしたのを見たことがないし、もし遅れそうなら連絡を入れてくるだろう。
事故か何かに巻き込まれたか……。四人が心配で顔を曇らせた時だった。
「すみませーーん!!」
そう叫びながらすごい勢いで汐莉が構内に走り込んできた。
その姿は練習着であり、汗で肌に貼り付いている。
心配が杞憂に終わり皆ほっとしたが、凪はすぐに安堵の表情を厳しいものに変える。
「遅い! 何してたの!」
「す、すみません、すごい試合が見られるんだって思ったら気分が昂っちゃって……。ランニングしてたらいつの間にか時間が……」
すると構内に接近放送が流れた。
修たちが乗る電車がホームにやって来る。
「言い訳は後よ。あんた切符は?」
「あ! 切符買います!」
「大丈夫、もう購入済みだよ」
菜々美がいつの間にか買ってあった切符を汐莉に差し出した。
ここでも菜々美の気配りが発動したことに修は感心し、菜々美に対する尊敬度がぐぐっと上昇した。
汐莉はお礼を言ってそれを受け取り、皆でホームまで急ぐ。
修たちがホームに辿り着くと同時に、ちょうど電車の扉が音を立てて開いた。
電車に乗り込んだ一同は皆一様に安堵の息を吐いた。
「はぁ、とりあえず、座りましょう」
土曜の早朝ということもあり、電車内は閑散としていたのですぐに座席を確保することができた。
端から修、凪、涼、菜々美の順で座る。
「私、汗だくなので立っときます!」
と、汐莉は四人の前真ん中辺りのつり革につかまった。
「皆さん、すみませんでした!」
汐莉が改めて申し訳なさそうに皆に頭を下げた。
「いや、大丈夫だよ、間に合ったんだし」
菜々美が優しくフォローをしてくれたが、汐莉は甘えてはいけないと思ったのか、頭を下げたままだった。
「宮井、顔を上げなさい」
今度は凪が鋭い口調で言った。
汐莉は言われた通り恐る恐る顔を上げる。
「テンション上がる気持ちはわかるわ。でも、きちんとメンタルコントロールできなきゃ一人前のプレイヤーになれないわよ」
「……はい、すみません……」
凪の厳しい言葉に汐莉はシュンとしてしまった。
「……まぁ、かく言う私もまだまだ半人前よ。だからお互い気を付けましょってこと。ほら、しゃんとしなさい!」
凪は汐莉の太ももを平手でぺちんと叩いた。
「……はい!」
汐莉の反省タイムは終了した。
これから一時間電車に揺られていれば、会場の最寄り駅に到着する。
(全国のレベルをこの目に焼き付けてやる)
修は窓の外に流れていく景色を眺めながら、そんなことを決意した。
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