第72話

 涙を流してまで瑛子に立ち向かう修を見て、凪は自分の心が震えるのを感じた。

 この子はどうしてここまでしてくれるのだろうか。


 修が怪我をしてバスケができなくなったのは軽く聴いていただけだったが、今の姿を見ていると恐らくそのことでとても苦しんだのだろうということがわかる。


 状況はまったく違うが、自身の経験と今の凪を重ねているのだろうか。

 まるで自分のことのように感情を露にしてむせび泣く修に対して、凪はいとおしさを感じた。


 後輩がここまでしてくれているのに、自分はだんまりを決め込むのか。

 そんなことはできない。次は自分の番だ。


「永瀬、もういいわ」


 市ノ瀬凪は懸命に瑛子に懇願する後輩をなだめた。


「もういいって……。何を言って……!」


 信じられないといった表情の修に、凪は優しく微笑んで「違うのよ」と首を横に振った。

 凪の本意に気付いたのか、修は口を閉じる。


「ありがとう。私のために泣いてくれて。おかげで決心がついたわ」


 そう言って凪は少し椅子を引き、間を開けて瑛子の方に体を向き直した。

 瑛子は眉間に皺を寄せながらも凪の方へ顔を向ける。


「いい後輩でしょ? わざわざ家まで乗り込んできて、家庭の事情にここまで首突っ込んでくるやつなんて、そういないわ」


 ちらりと修の顔を見ると、戸惑っている表情になっていた。

 汐莉も同様だ。無理もない。ずっと黙っていた凪が急に喋り出したのだから。


 決心が遅れたせいで二人に嫌な思いをさせてしまったことを内心で詫びる。


「永瀬は男子なのに女子部に入部してきたときは、変わったやつだなって思った。でも雑用も一生懸命こなすし、バスケについての知識もたくさん持ってて、あぁ、こいつもバスケが大好きなんだってすぐにわかった。宮井は初心者なんだけど運動神経も抜群でセンスもある。やる気もあるからすぐに私なんか追い抜くわ」

「……何の話をしているの?」


 凪が何を話したいのかわからず、瑛子にも困惑の色が広がる。

 しかし凪は構わずに話を続けた。


「一年から三年まで、意外に戦えるんじゃないかってメンツが揃ってる。部員は少ないけど、頑張ったらもしかしたら良いところまでいけるんじゃないか、なんて。そんなことを考えたりしたこともあったわ。今はあんまりチームとしてまとまってないけど、それでも私の大切な仲間。そんなこの子たちに、これ以上私の個人的な事情で迷惑かけられないって、それならいない方がいいって思ったから、お母さんの言うように部活を辞めることにしたの。自分で決めた課題もやり遂げられなかったしね……」


 凪は自嘲気味に笑った。

 修が取り乱してくれたおかげだろうか、凪自身心に余裕があることに気付き少し驚いた。


「でもそれは違った。それは建前だった。私は他人を辞める理由にすることで、私自身の本音を押し隠そうとしたの。でも、おせっかいな誰かさんたちのせいで気が変わったわ」


 出会って数ヶ月、修に至っては数週間だ。それなのに自分のことを想って行動してくれた心優しい後輩たち。

 そんな後輩たちに報いるために、凪は言葉を紡いでいく。


「嘘をつくのはもうやめる。他の人に気を遣うのもやめる。私が、私のことだけを考えて湧き上がった気持ちを――わがままを、お母さんに伝えたい」


 ここからが本題だ。

 凪はさらに真剣な表情で瑛子の瞳を見つめた。

 正直に言うと母に歯向かうのは少し怖い。しかし、もう後には引けない。

 凪は意を決して口を開いた。


「お父さんから話は聴いたわ。お母さんが、昔本気でバレエに打ち込んでたこと」


 瑛子の眉がひくついたが、凪は構わずに言葉を続ける。


「そのことが自分の人生を狂わせたと思ってることも。その事に私を重ねて、同じ失敗をして欲しくないって心配してくれてるのも充分理解してる。でも、でもね。お母さんはバレエをしてたことを後悔してる? バレエに打ち込んでた時間は無駄だったって思ってるの?」

「当たり前でしょう! バレエなんて全部無駄だったわ! バレエなんてしていなければ、私だって今頃は……!」


 瑛子は反射的に声を荒げたが、修と汐莉がいることを思い出したのか、ばつが悪そうに口をつぐんだ。

 今頃は、の後はなんと続けるつもりだったのか。仮に予想するのなら「今頃医者として輝かしい毎日を過ごしていた」だろうか。

 たしかにそれはその通りかもしれない。だが、そうだとしても、瑛子はバレエが無駄だったと本気で思ってはいないはずだ。何故なら。


「嘘だよ……。写真のお母さん、楽しそうに笑ってたもの。すごく綺麗でかっこよかった! それに、お父さんはお母さんがバレエをしてる真剣なところを好きになったんだって言ってた。それってつまり、今私がお父さんとお母さんの子どもとしてここにいるのも、お母さんがバレエをしてたからなんだよ。それでも無駄なんて言うの?」

「…………!」


 図星を突かれたのか、瑛子は言い返せず口をへの字に曲げてたじろいだ。


 先程修は瑛子に向かって「何かに本気で取り組んだことのない人間にはわからない」と、まるで瑛子がそういう人間であるかのように言ったが、それは違うと凪は知っていた。


 瑛子だって学生時代本気で取り組んでいたことがあった。

 そんな瑛子が、凪の気持ちをわからないはずがない。

 凪は立ち上がり、ぴんと背筋を伸ばした。


「私は、将来バスケを続けたことを後悔なんて絶対にしない。お母さんにも後悔させない!」


 凪は勢いよく言い放ったあと、瑛子に向かって頭を下げる。


「お願いします。バスケを続けさせてください……。バスケが大好きなの……。お母さんがバレエが大好きだったのと同じくらい」


 凪はゆっくりと顔を上げて瑛子の顔を覗き見た。

 瑛子は今にも泣き出しそうなとても辛そうな表情をしていた。

 そして両手で額を覆い俯いた。娘の反抗に頭を抱えているのか、それとも葛藤に苦しんでいるのだろうか。


 次に返ってくる答えが凪にとっての結論になる。もし却下されたとしても、これ以上楯突くつもりはなかった。これがこの件においての最後の反抗だ。

 凪は心臓の鼓動が速くなるのを感じた。


 時間にしてみれば恐らく一分にも満たない間であったが、凪にとっては数十分にも感じられる程重苦しい空気が流れる。

 しかし凪は瑛子を見つめたまま、じっと待った。

 やがて瑛子が髪をゆっくりかき上げ、大きく深いため息をついた。


「……あなたは昔から良い子だったけど、たまにそうやってわがままを言っていたわね……。思えば、新しいシューズが欲しいとか、どうしても試合を見にきてほしいとか、わがままを言うときはいつもバスケのことばかりだった……」


 瑛子は遠い目をして昔を思い出しているようだ。呆れているような、笑っているような、どういう感情なのか測りかねる表情。どんな結論が返ってくるかの予想がつかない。

 凪は瑛子の瞳をから目を逸らさずに心の中で祈った


「もう知りません」


 瑛子が俯いたままボソッと言った。


「えっ、そ、それって……?」

「好きにしなさい、と言っているの」


 凪がバスケを続けることについて、とうとう瑛子が許可を出したのだ。

 少し遅れて凪の顔に明るい笑みが広がる。


 修も汐莉も、今にも雄叫びを上げそうな表情で笑っていた。


「その代わり、冬の大会……ウィンターカップだったかしら? それで敗退したら大学に進学するまではすっぱり辞めると誓いなさい」


 まるで厳しい条件を出すかのように瑛子は言ったが、ウィンターカップまで、それはつまり高校最後の大会までやらせてくれるということだ。

 我が娘にはほとほと愛想が尽きたと言わんばかりの表情でぶっきらぼうに言う瑛子だったが、その言葉からは親としての優しさを感じた。


 凪は目尻からこぼれる涙を指で拭きながら、くしゃっとした、それでいて満面の笑みで言う。


「うん……! 約束する! ありがとうお母さん!」

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