第71話

 凪の部屋では狭いから、と瑛子が言うので、修と汐莉はリビングダイニングに通された。

 修は突然の展開で緊張感が増してしまい、きょろきょろと不躾に部屋を見回してしまう。この部屋もとても広く、大きなテーブルやテレビ、ソファなどが並んでいるにも拘わらず、しっかりと開けたスペースも確保されている。


 瑛子があんなドンピシャのタイミングで凪の部屋にやって来たのは、修と汐莉が持ってきたケーキと、紅茶を持ってきてくれていたからだ。

 恐らく部屋の中の空気を察して入るタイミングを窺っていたところ、自分の話になったので入ってきた、といったところだろうか。


「こちらへどうぞ」


 瑛子に促されてダイニングテーブルの椅子に座る。修の隣には汐莉が、対面には瑛子が座った。

 凪はどうしていいのかわからない様子で、口を真一文字に結んで俯いていたが、程なくして瑛子の隣に座った。


 子供三人の前に瑛子が紅茶のカップとケーキを並べてくれたが、誰も手をつけようとしない。

 瑛子の冷徹な表情もあってか、とても張り詰めた雰囲気だ。


「改めてまして、凪の母です。今日はわざわざ娘のお見舞いに来てくれてありがとう」


 そう言って瑛子が微笑むが、どう見ても作り笑いだ。


「……一年の永瀬修です」

「同じく、宮井汐莉です」

「さっき偶然聞こえてしまったのだけど、私と話したいことがあるのですって? 何かしら」


 瑛子からは大人の余裕とそれから生じる少しのプレッシャーが感じられた。

 子供相手に何を言われようが問題ない。そういった意思を言外に匂わせている。


 修は圧倒されかけたが、この人を突破しないと凪が部に戻ってくることはできない。

 そう思い、修は意を決して口を開いた。


「単刀直入に言います。いちの……凪先輩の退部を撤回してください」

「退部を撤回? どうして? それは凪本人も納得してのことなのよ?」

「凪先輩の本心をちゃんと確かめたんですか? 凪先輩は部活を辞めたいなんて思ってませんよ」

「あら、そうなの? どうなのかしら、凪?」


 瑛子がわざとらしい口調で凪に問いかけるが、凪は俯いたまま何も言わない。


「そんなことないみたいだけど?」

「凪先輩はお母さんに気を遣っているんです。勉強のこととか、この前のこととかの負い目もあって、お母さんの方針に従わざるを得ないんですよ」

「それはあなたの妄想でしょう? それとも、凪がそう言っていたのかしら」


 瑛子は取り付く島もないといった様子だ。話を聴いてもらうには凪の言葉が必要だろう。


「凪先輩、お願いします。お母さんに本心を打ち明けてください」


 修の声に反応して凪が少しだけ目線を上げた。


「…………ない」


 凪の口が小さく開いて微かな声を発した。


「……何? はっきり喋りなさい」

「……私、バスケ辞めたくないよ……」


 やはり小さな声だったが、今度は聞こえる声量で凪は言った。

 それを聴いた瑛子の顔が烈火のようにみるみる紅潮していく。


「何を言っているの!! あなたがバスケなんかしている間に、他の優秀な子たちはもっと勉強しているのよ!? それにこの前みたいにまた倒れたらどうするの!! 大事な手や指に大怪我を負ったらどうするの!! お母さんがこんなにあなたのことを心配しているのに、どうしてそれがわからないの!?」


 ヒステリックに叫ぶ瑛子に修と汐莉は思わず目を見開いて驚いた。凪も俯いたままビクッと身をすくめる。

 怯える我が子の姿に気付いたのか、瑛子はハッとした表情を見せたあと、咳払いをして自身を落ち着かせた。


「このままバスケを続ければ、あなたは絶対に後悔する。目先のことより、将来のことを考えなさい」


 修は瑛子の言葉にはっきりとした不快感を覚えた。


 凪は大怪我をしたわけでも大病を患ったわけでもない。

 この前少し体調を崩して倒れてしまったが、オーバーワークが祟っただけで、基本的には元気な体を持っている。

 修と違って、望めばバスケができる状態であり、本人もバスケを続けることを望んでいる。


 そんな凪がバスケを辞めなければいけないなんて、とても理不尽だと修は憤りを感じた。


「お母さん、少し僕の話を聴いてもらえませんか」

「……どうぞ」


 ここで感情に任せても仕方がない。修は沸々と湧き上がる怒りを理性で抑えながら、なんとか瑛子の理解を得られないかと言葉を探る。


「僕、中学の終わりに膝の靭帯怪我したんです。かなり治ってはいるんですけど、今も常に再発のリスクは抱えたままで、全力で動くことはできません」

「そうなの……。それは気の毒なことね」


瑛子がほとんど感情のこもっていない声で反応した。


「僕は……自分の馬鹿みたいな失敗で怪我悪化させて……。それで勝手に絶望して、最近までずっとバスケから逃げてきました……。でも、やっぱり改めて気付いた……気付かされたんです。俺はバスケが大好きなんだって……」


 それを気付かせてくれたのは、隣に座る同い年の少女だ。

 心配そうな目で修を見つめている。


「今、すごく後悔しています。何故バスケから離れてしまったんだって。死ぬほど後悔してます。もし、凪さんがこんな風に本人が納得できないまま辞めたら、絶対後悔する。そして、その後悔は、一生残る」


 納得していないという言葉を凪がはっきり口にしたわけではない。

 だが凪の表情を見れば、気持ちを推し測れば、それは間違いではないはずだと修は確信していた。


「……あなた、一年生って言ってたわよね。凪より2年も遅く生まれているのに、一生だなんて、まるでわかったような口をきくのね」


 瑛子が心底不機嫌そうに吐き捨てた。

 年端も行かぬ高校生の子供に楯突かれているのが気に障っているのだろうか。

 しかし修は怯まずに続ける。


「わかりますよ。これは、何年生きてるとかそういうことじゃない。何かに本気で取り組んだことのない人間にはわからないでしょうけどね」


 先輩の親に向かって話しているにしては、修の態度はかなり無礼なものとなってきた。

 しかし修の気持ちは昂る一方で、それを押し止める余裕は既になかった。


「凪さんには、後悔して欲しくないんです! 自由にバスケできる体があって、こんなにバスケが好きなのに! それなのに、辞めなきゃいけないなんて…………!」


 気付けば修の瞳からはポロポロと涙が溢れ出していた。

 自らの後悔、凪の無念、瑛子への憤り。様々な感情が混ざり合い、雫となってテーブルへ降り注ぐ。


 さすがの瑛子も涙を流す少年を前にしては困惑してしまっているようだった。

 凪も汐莉も、恐らく驚いていることだろう。だが二人の表情を確認することはできない。今見据えるべきは瑛子だ。

 瑛子に想いを伝えなければならない。


「お、……お願いします……! 凪さん、を、辞めさせないでください……! お願いします……!」


 最後は最早説得と呼べるようなものではなく、ただの懇願だった。

 本当はもっと理性的に、理論的に瑛子を説得したかった。

 しかし高校一年生の少年は、そんな大人の処世術を持ち合わせていなかった。

 どんなに無様でも、ただ感情を素直にぶつけることが精一杯だった。


「……あなたの気持ちは充分わかりました。娘のために泣いてくれていることには感謝の念すら覚えます。でも答えは変わりません」


 しかし瑛子から返ってきた言葉は無慈悲なものだった。

 口調と表情から察するに、少しは瑛子の心にも届いたとは思われるが、やはり瑛子は頑なだった。


「そんな! お願いします……!」


 修は再び悲痛な叫びで懇願を繰り返す。だが瑛子はもう修に目を合わせてくれようとはしなかった。

 それでもと、また修が頭を下げようとした時だった。


「永瀬、もういいわ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る