第58話
「はい、お待たせ」
風呂から上がり食卓に着いていた凪の目の前に、圭吾がご飯を並べ終えた。
「ありがとう」
お礼を言って手を合わせながら、凪はまた複雑な思いになった。あれだけ瑛子に反発しておきながら、瑛子が作ったご飯を食べるということに、子供としてのやりきれない思いを抱かざるをえない。
「食べ終わったら怪我を見てあげるよ」
そう言って圭吾はソファに座り、また資料に目を通し始めた。その真剣な姿を見て、凪は改めて自分の父親を格好いいと思った。
凪は幼少の頃から、医者をやっている父親のことが大好きだった。歩けない程の大怪我をした患者を、走り回れる程にまで治療した話を聞いた時には、父は魔法使いなんじゃないかと思っていた時すらあった。
そういった感情は、凪が成長しても形を変えつつ残っており、今でも強い尊敬の念を抱いている。そしてその影響で、凪も父と同じく整形外科医になることを志していた。
圭吾が自分に期待してくれていることも凪は知っていた。だから極力、自分のことで圭吾に迷惑をかけたくない気持ちは強かった。
(今、確実に私はお父さんの邪魔をしてる……)
それもくだらない親子喧嘩のせいで。
凪は申し訳ない気持ちになりながらも、箸を進めた。相変わらず美味しいのか不味いのかよくわからないが、のろのろ食べていたら圭吾に心配させてしまう可能性がある。悟られぬよう急いで食事を終えた。
「ごちそうさま」
手を合わせて呟き、食器を流し台に持っていった。洗い桶に水を張って食器を浸ける。
「凪、テーピングを持ってこっちにおいで」
圭吾が呼ぶので、テーブルにあったテーピングセットを持って圭吾の隣に座る。そして促されるまま左手を見せた。
「うん、大したことなさそうだ。一週間もすれば治るよ」
少し触って様子を見た後、圭吾は笑って言った。そして患部を固定するためのテーピングの用意をし始める。
「凪が怪我してるのに気づかずに、悪化させてしまったかもしれないって、お母さん反省してたよ」
圭吾の言葉に凪は耳を疑った。思わず怪訝な目で圭吾を見てしまう。
「嘘よ。あの人が反省なんかするわけない」
「嘘じゃない。お母さん落ち込んでた。凪に酷いことしたって」
「…………」
圭吾の言うことは凪には到底信じられなかった。子供が自分の思い通りにならないとヒステリックに喚き散らすあの母親が、反省して落ち込む。想像もできない。
「最近、お母さんと上手くいってないみたいだね」
圭吾は凪の指に優しくテーピングを貼りながら、諭すように言った。それに対して凪は、なんとなく父が母の肩を持とうとしているのではないかと感じて憤りを覚えた。
「お母さんが私から大事なもの奪おうとするからよ! 私は……私はお母さんの言うとおり勉強だってしてる。それなのにきつく当たってくるお母さんの方がどうかしてるわ」
途中で圭吾に当たるのはお門違いだと思い直し、なんとか心を鎮める。するとテーピングを終えた圭吾が、まっすぐ凪の目を見つめて言った。
「少しここで待っててくれるかい? すぐに戻ってくるから」
圭吾はソファから立ち上がり、スリッパをパタパタ鳴らしながらリビングを出ていった。そして数分後にまた戻ってくる。手には何か冊子のような物を持っていた。
「お待たせ」
そう言ってそれを凪に手渡してきた。
「これは?」
「私の宝物のうちの一つ。最初から開いてみて」
圭吾に促され、凪はよくわからないまま最初のページを開く。そのページには写真が三枚ずつ入っており、横には文字を書くスペースがあった。アルバムだ。
その写真には学校の制服を着た、凪によく似た顔の女の子が写っていた。
「これってまさか、お母さん?」
「そう。高校時代のね」
圭吾は照れ臭そうにはにかんだ。
今の鉄仮面のような面影はなく、ピースサインを掲げて朗らかに笑っている。
「この写真集めるの、けっこう苦労したんだ。当時の同級生に片っ端から電話してさ」
だからなんだと言うのだろうか。圭吾がこのアルバムを見せてくる意図がわからず凪は困惑した。
「めくってみて」
促されて凪はページをめくる。写真にはどれも笑顔の瑛子の姿が写っている。数ページめくったところで「そこ」と圭吾が言った。
そのページにも瑛子の写真ばかりであったが、他のページと比べても異彩を放っていた。
「バレエ……?」
「そうだよ。お母さん、高校までバレエをやってたんだ」
きらびやかなバレエの衣装を着て様々なポーズをとる高校時代の瑛子。満面の笑みのものもあれば、キリッとした荘厳な表情のものもある。凪はバレエのことはよく知らないが、写真を見ただけでその芸術性の高さが伝わってくる。
「知らなかった」
「……言うなって言われてたからね」
圭吾は瑛子に口止めされていたようだ。だがどうして?
凪は圭吾の言葉を待った。
「お母さん、けっこう凄かったんだぞ。大きなコンクールでも入賞の経験あってな。ほんと、綺麗だった……」
圭吾は当時を思い出しているのか、うっとりとした表情で宙を仰いだ。
「お父さん、話が見えないんだけど」
凪の言葉に圭吾は現実に引き戻され「すまん」と口にした。
「なんでお母さんがお前の部活を辞めさせたがっているのか。それを教えてあげようと思ってな」
「え……? それって単に勉強に集中させたいからなんじゃないの?」
「まぁ、そうなんだけど。そのさらに深いところの話だよ」
「深いところ?」
戸惑う凪に、圭吾はゆっくりと話を続けた。
「お母さんもお父さんと一緒でな。医者になりたかったんだ。大学も医学部を目指してて、勉強も頑張ってた。でも医者になりたいって思いと同じくらい、バレエも大好きだった。高三になって、周りの皆は部活や習い事を引退して、勉強に集中してた。でも瑛子は周りには反対されてたけど、それを押しきってバレエを続けてた。それなのに成績も落としてなかったから、次第に周りも納得せざるをえない状況になったんだ。でもね」
圭吾は両手を組んで肘を太腿につける。その目はなんだか悲しそうだった。
「最後の最後でスランプに陥っちゃって、自分の思い描く演技ができなくなってしまったんだ。そして、それに呼応するように学業の成績も下降していった。バレエは瑛子の『心』だったから、バレエでの躓きは瑛子のすべてに影響をもたらしてしまった」
そこまで聞いて、凪は圭吾の言いたいことになんとなく察しがついた。
「結局最後のコンクールでも結果は残せなかった。学業成績も上がらずに医学部には入れなかったんだ。瑛子の親御さんも、浪人させる余裕がなかったから、卒業した後普通の大学に進学したよ。……瑛子は凪に同じような失敗をして欲しくないんだ。心配なんだよ、凪のことが」
圭吾は真剣な、それでいて優しい眼差しで凪を見つめた。
圭吾の言いたかったことは、やはり凪の察していた通りだった。
「……だから、何だっていうの?」
「お母さんの気持ちも理解してあげて欲しいんだ」
やはり父は母の肩を持っているんだ。凪にはそう思えてならなかった。尊敬する父ですら、自分の味方になってくれない。信用してくれていない。そう思うと怒りや悔しさがどんどんと胸に込み上げてきた。
「お母さんの過去の失敗なんて私には関係ない。私は勉強も部活も両立させて最後までやり遂げるわ。そして医大に進学して、二人が納得できるような医者になる」
凪は努めて冷静に言葉を発した。しかし凪の言葉の端々から溢れるネガティブな感情に気づいたのか、圭吾は慌てて口を開いた。
「違う凪。別に凪の活動に制限をかけようとしてこの話をしたんじゃない。私はただ……」
「違わないわ。お父さんは私よりもお母さんの方が大事なのよ。だからお母さんの顔を立てろって言いたいんでしょ」
「凪! 話を聞きなさい!」
優しい父は凪の見たことのない剣幕に驚き怯んでいるようだった。
「私はお母さんとは違う。それを証明してみせるわ」
「凪……!」
これ以上話すことはないというように、凪は勢いよく立ち上がりリビングの扉に向かった。そしてドアノブに手をかけてから立ち止まる。
「お母さんのこと、話してくれてありがとう。あと、ご飯とかテーピングも」
そして圭吾の言葉を待たずしてリビングを退出し、足早に自室へと戻った。
(もう話しても意味がない。お父さんもお母さんも、行動と結果で黙らせてやる!!)
凪の心にやる気の炎が燃え上がる。
だが凪の心の燭台は、土台がすでにボロボロになってしまっていることに、凪自身気づけていなかった。
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