第59話

 永瀬修はリズム良く靴を鳴らし、そして息を吐きながら歩道を走っていた。


 時刻は6時半。早朝と言える時間ではあるが、この季節になると既に太陽は昇り、アスファルトをジリジリと焦がし始めている。


 昼間と比べると涼しいのは間違いないが、30分近く走っていると既に汗が滝のように流れ落ちてくる。

 修はスピードを徐々に落とし、ジョギングからウォーキングへと移行した。


(こりゃヤバイな……)


 修は息を整えながら自分のスタミナ不足に落胆した。

 かつてなら30分走ったくらいでここまで息切れしなかった。しかも今日はランニングではなく、かなり遅いスピードのジョギングだ。


 バスケの試合は10分×4ピリオドの計40分間。今の状態だと半分ももたないだろう。

 二度目の怪我以来一切の運動を行ってこなかったことで、ここまで体力が低下していたのだ。


 修はランニングポーチからペットボトルを取り出し、渇いた喉にスポーツドリンクを流し込む。火照った体に冷たい飲み物が染み渡るようだ。

 おかげでネガティブになりかけていた頭も冷えてきた。


(こんなんで落ち込んでたらキリがない。一つずつ受け入れて、一歩ずつ進むんだ)


 今までずっとバスケから逃げてきた。しかし今は、病院に行って自分の状態を知り、そして体作りのためのジョギングを始めた。

 確実に前進している。今の修にとって、それだけでとても心が躍るようであった。


 帰宅してシャワーで汗を流し、手早く髪を乾かして制服に着替える。そしてリビングで明子が朝食を用意するのを待っている間、修はノートを開いてボールペンを走らせた。


「何を書いてるの?」

「リハビリノートだよ。どのくらい走ったとか、筋トレを何回何セットしたとか、そういうのを全部記録するんだ」

「へぇ~」


 明子は感心したように何度か頷いた。

 これは理学療法士の人におすすめされたから始めたことだ。

 記録をとっていれば自分の現在地が常に把握できる。そしてどれ程の期間でどれだけ成長したのかも数字で確認しやすい。

 目標がはっきりしている修にとって、それはモチベーションになるし、道標にもなり得る。


「無理はしないようにね」


 明子が穏やかながらも心配そうな顔で言った。


「わかってる」


 焦りは大きな敵だ。修は既に二度同じ箇所を怪我してしまっている。

 もう一度やってしまえばそれこそ二度と走れなくなってしまうかもしれない。

 まずはもう怪我をしないような体を作るところから。焦らず、ゆっくりと。





「放課後自主練してもいいか川畑先生に訊きにいかない?」


 放課後、メッセージで呼び出しを受けた修は、踊り場で向かい合う少女からの一言に驚いた。


「それは別にいいけど、テストは大丈夫なの?」

「う……そ、それは大丈夫! ……たぶん」


 修を呼び出した同級生の少女、汐莉は露骨に目を逸らしながら自信なさげに答えた。

 反応を見るに汐莉は学業の成績はあまり良くないのだろう。


 来週から始まる期末テストに向けて、今日からテスト最終日前まで部活動は休止になる。つまり本来なら放課後はテスト勉強に充てることを推奨されているわけだが、汐莉はその時間を自主練習に使う気でいるらしい。


 何のためのテスト休みかということを考えると、汐莉の提案は少々無謀にも思える。しかしながらもしかしたらということもあるかもしれない。


「じゃあ、訊くだけ訊いてみようか」

「やった! ありがとう!」


 汐莉は両手を祈るように組んで笑顔で言った。二人は早速その足で職員室に向かう。


「そういえば昨日病院行ってきたんだよね? どうだった?」

「うん、一応膝の状態はかなり良くなってるみたい。復帰も可能ではあるって。ただやっぱり、再発のリスクは常に付きまとうとも言われた。三回目同じ所をやってしまったら、最悪歩けなくなることもあるって念押しされたよ」

「歩けなくなるかもしれない……」


 汐莉がしゅんとした顔になってしまう。修のプレイヤー復帰を焚き付けたのは汐莉であるため、もしかしたら修に深刻なリスクを負わせることに責任を感じているのかもしれない。


「そんな顔するなって。大丈夫だよ。そういう可能性があるから覚悟しておけってだけの話さ。それに、そうならないように今からしっかり体作りをしていくんだ。市ノ瀬先生や病院の人とも話し合って、リハビリのメニューも作ったし。今朝もちょっとだけ走ったんだ。でも30分走っただけでもうヘトヘトでさ。こりゃまだまだ時間がかかるなぁ~って……」


 ふと見ると、汐莉がこちらを微笑みながらじっと見つめていることに気づいた。


「ど、どうしたの……?」

「ううん、なんでもないよ。ただ、永瀬くんが嬉しそうだったから、私も嬉しくなっちゃって」


 予想外の発言に修は可笑しくなってしまい「なんで宮井さんも嬉しくなるんだよ」と笑った。


「なんでだろ? よくわかんないよ」


 汐莉もふふっと笑った。その笑みは大袈裟な表現ではなく、本当に慈愛に満ちた聖母のようだったので修はドキッとしてしまった。


「永瀬くんがもう一度試合でプレーしてる姿を見るの、楽しみだなぁ」

「……ありがとう。俺、頑張るよ」

「うん! 一緒に頑張ろう!」


 一緒に、か……。

 汐莉がどういう意図で言ったのかは定かではないが、こういう何気ない言葉は修に勇気を与えてくれる。

 修は長い間自らを孤独に追い込んで過ごしてきたが、今はもう一人ではないのだと思わせてくれる。


「あれ? あれって凪先輩?」


 職員室前に近づいた時、ふと汐莉が声を上げた。汐莉の視線を追ってみると、二人の反対方向に歩を進める少女の後ろ姿があった。あの髪型と身長は確かに凪だ。

 足早に角を曲がっていき、その姿はすぐに見えなくなった。


「ほんとだ」

「何か職員室に用事でもあったのかな?」


 このフロアの大半は職員室が占めており、他の部屋に生徒が入ることはほぼないので、恐らく汐莉の言うとおり職員室に用事があったのだろう。


「そういえば凪先輩、昨日部活で怪我しちゃったんだよ」

「え、そうなの?」

「うん。左手の薬指。本人は大したことないって言ってたけど……」

「昨日のメッセージでは何も言ってなかったのに……」


 修は凪と少し仲良くなった気がしていたので、言ってくれればいいのにという小さな不満が湧き上がった。

 しかしよく考えてみたら自分が怪我したことをわざわざ後輩に報告する理由もない。修はこの不満はお門違いだと反省した。


「なんか永瀬くんと凪先輩、いつの間にか仲良くなってるね」

「うーん、そうなのかな。市ノ瀬先輩、意外に優しい人だし、けっこう好きかも」

「へーそうなんだ。じゃあ行こっか」


 汐莉は短く答えて職員室へと歩き出した。その顔は笑っていたが、なんだかいつもとは雰囲気が違うように感じたのは気のせいだろうか。


 先を行く汐莉に付いて職員室へと入っていく。教師たちはテストの準備やらで忙しいのか、いつもよりも少し慌ただしさを感じる空気となっていた。


 遠巻きから川畑が自分のデスクにいるのが見えたので、二人はまっすぐそちらへと向かった。


「川畑先生」


 汐莉の呼び掛けに川畑が振り返る。二人の姿を確認するとすぐに穏やかな笑みを作った。


「やぁ、二人とも。何か用かい?」

「あの、テスト期間中って放課後体育館空いてますよね? 自主練習とかしちゃダメですか?」

「ええ!?」


 川畑は予想以上に大きな声で驚いたので、修も驚いて跳び上がりそうになった。川畑は続いて何やら小声でボソボソと呟いたが、何と言ったのかは聞き取れなかった。


「せ、先生、どうしたんですか?」


 汐莉も驚いているのか、たじろいだ様子で川畑に話しかけた。


「え、いやぁ、はは。すまない、なんでもないんだ」


 川畑は取り繕うように手を振って笑った。


「ええと、自主練習がしたいって話だよね。申し訳ないけど、それは許可できないな」

「そうですか……」


 やっぱりな、と修は思ったが、隣でうなだれる汐莉がいたたまれなくて少しだけ食い下がることにした。


「どうしてですか?」

「今日から部活が休みになるのはテスト休みだからだよ。テスト勉強をするための休みなのに、結局部活をしていたら意味がないだろう? それに、監督できる人もいないから何かあった時に対応ができないからね。二人とも赤点をとるようなレベルではないからそこまで心配はしていないが、今はバスケよりも勉強をしておきなさい」


 優しくはあるが少し厳しさも混ざった口調で川畑は言った。

 分かりきっていたことである上に、ここまで丁寧に説明されると反論の余地がない。

 二人は引き下がることにして職員室を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る