第57話

 自分のお腹からくぐもった唸り声のようなものが響いて、市ノ瀬凪はゆっくりと目を開けた。

 目の前にあったスマートフォンを、体を起こさずに手に取り時間を確認する。


 時刻は23時を過ぎたところだった。いつの間にか寝てしまっていたようだ。目を擦ると乾いた涙がパリパリと目尻から剥がれていくのがわかった。

 とりあえずベッドから起き上がろうと左手をつき体重をかける。その途端全身に激痛が走り、あまりの衝撃に思わず飛び上ってしまった。


(そうだ、突き指……)


 まどろんでいた意識が完全に覚醒した。顔を歪めながら自分の左手人差し指を見ると、やはり第二関節周りの腫れは引いていなかった。

 凪は数時間前の出来事を思い出して唇を噛んだ。最近母親との仲は険悪なムードであったが、あそこまでの怒鳴り合いをしたのは初めてだった。


 確かに凪は瑛子に対して嘘をついていた。ウィンターカップは三年生にも出場権はあるので、正確には嘘ではないのだが、弱小である栄城高校においては総体で引退が一般的と考えられるのはわかっていた。

 それを隠した上で瑛子と約束を取り付けたというのは紛れもない事実だ。


 凪は自分にも少し反省する部分があるなと一瞬考えたが、慌てて頭を振りその考えをかき消す。


(私はやることはやってる。部活を辞めさせられるいわれなんてないわ……!)


 するとスマートフォンの通知ランプが点滅しているのに気づく。凪は右手でスマートフォンを取り、画面を確認した。

 永瀬修からメッセージが届いている。


『お疲れ様です!

 今日お父さんの病院に行って来ました!

 とても立派なお医者さんで、親身に相談を聴いてくれました。今後もここに通おうと思います!紹介してくれてありがとうございました!これはお礼です。』


 わざわざお礼のメッセージを送ってくるなんて、なかなか律儀な後輩だ。そう思いながら凪が文を下にスクロールすると、修がお礼と称して添付していた画像が目に入る。


 とても荒い画像だったが、一人の人物がドリブルをしている全身のアップだった。普通の人には誰だか判別もつかないだろうが、凪にはすぐにこの人物が誰なのか判った。


(アイディン・イルハーム……)


 ユニフォームのカラーリング、薄褐色の肌、そしてドリブルのフォーム。まさしく凪の大好きな選手、アイディン・イルハームその人だ。試合を俯瞰で撮った画像か動画から切り抜いたのであろう。一昔前の、しかもクウェートの代表選手であるイルハームの画像は恐らくそうそう出回っていない。

 修が凪のために一生懸命探して切り抜いてくれたのだと思うと、自然と笑みが溢れた。


「かわいいやつ……」


 ほんの些細なことだが、荒んでいた心が少し晴れてきたように感じる。『どういたしまして。画像ありがと』と、短いメッセージを打ち込み修に送信した。

 すると再び凪のお腹がぐーと鳴った。昼食以降何も食べていないのだから当然だ。瑛子と顔を合わせたくなかったが、この時間ならいつも瑛子は床に就いている。


 一度リビングに下りようと凪は立ち上がり、自室のドアを開けた。そこでふと、扉の横に何かが置いてあるのが目に入る。


 少し大きめのお盆の上にはテーピングのセットと弁当箱が二つ入る程の大きさのクーラーバッグ、そして一枚のメモが乗っていた。クーラーバッグを開けると、保冷剤とゼリー飲料が入っている。凪は次にメモの内容をに目を移した。


『晩ご飯は冷蔵庫にあります』


 書かれていたのはそのたった一言だけだった。

 凪は自分のために用意された品々を見て複雑な気持ちになってしまう。

 謝罪の言葉がないのが気に入らないが、気を遣ってくれていることはわかる。だが凪が今瑛子に期待しているのはこんな気遣いではないのだ。


 小さくため息をつき、置いてあった物をお盆ごと持ち上げゆっくりと階段を下った。もしかしたらまだ瑛子がリビングにいる可能性がある。凪は恐る恐るリビングの扉を開けて中を覗きこんだ。すると中に人影が見えたので、凪は息を飲んで動きを止めた。


 その人影が凪の気配を感じとったのか、ゆっくりと振り返った。


「あぁ、凪。おはよう、と言うべきかな?」


 人影の正体がわかり、凪は胸を撫で下ろしてリビングに入った。


「そうね。おはようお父さん」


 凪の父、市ノ瀬圭吾けいごがマグカップを片手に食卓に座っていた。穏やかに笑う彼の目の前のテーブルには、何やら資料のようなA4サイズ程の紙の束があった。


「家に帰って来てもまだお仕事?」

「あぁ、これかい? 次の学会の準備をしていたんだよ」

「ほどほどにしないと体壊すわよ」

「大丈夫だよ。それにそろそろ切り上げようと思ってたところだ。ほら、これもコーヒーじゃなくてココア」


 そう言って圭吾はマグカップを傾けて中身を凪に見せた。そしてそれをテーブルに置くと「よっこらせ」と典型的な年寄りの台詞を言いながら立ち上がる。


「お風呂に入っておいで。その間にご飯の用意をしておいてあげるから」


 圭吾は凪の手からお盆を受け取ってテーブルに置いた。


「自分でできるわ。お父さんだって疲れてるのに」

「子供が親に気なんて遣わなくていい。ほら行った行った」


 圭吾は凪の背中をぐいぐいと押してきたが、その手は優しく温かかった。それが嬉しくて、凪も父親同様穏やかに笑う。


「お父さん、ご飯の用意なんてできるの?」

「あ、馬鹿にしたな? 電子レンジの使い方くらいオヤジにもわかるんだぞ」


 凪はそのまま廊下に押し出されたので、圭吾の言うとおり風呂に入ることにした。


「あ、そういえば指を怪我しているんだってな。 患部はお湯につけないようにしろよ」

「それくらいわかってるわよ」

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