第28話

 息も絶え絶えになりながら修は屋外の人気のない所へ辿り着いていた。


 この場所は剣道場の裏なのだが、修は今自分がどこにいるのかすらわかっていない。

 トイレに入るという考えも思い浮かばぬまま、ただひたすらに人のいない場所を求めて歩いていたのだ。


 辺りに人がいないことを確認すると修は少しだけ安堵した。


「うっ…………!」


 すると気が抜けてしまったのか、修は今まで必死に腹の中で抑えていた胃液を木陰に吐き出してしまった。


 喉が焼けるような感覚がした。それから自分の嘔吐物の異臭でまた吐き気が促進されたが、二度目は胃液の逆流はなかった。

 代わりに胃が締め付けられるように痛み、修は思わず両手で腹を抑えうずくまる。


 背中から汗が吹き出し、じっとりとTシャツに染み込んでいく。


「永瀬くん……!?」


 聞き覚えのある声がしたので驚いてそちらに顔を向けると、今一番近くにいて欲しくない人物が立っていた。


 そこにいたのは驚いているような、心配しているような表情の汐莉だった。


 瞬間、修は自分の顔がかーっと赤くなるのを感じた。見られた。


 これを見られたくなかったから人気のないところまで必死でやってきたというのに、なぜ汐莉はこんな所にいるのか。


「大丈夫!?」


 汐莉はすぐさま修に駆け寄り、首にかけてあったタオルで修の口元を拭こうとした。


「……っやめろ!」


 恥ずかしさやら苦しさやら、様々な感情が込み上げてきて、修は汐莉の手を乱暴に振り払ってしまった。


 今まで見せたことのない修の様子に、汐莉はビクッとして身を引く。


「なんで……こんな所にいるんだよ……!」

「なんでって……。ふらふら歩いていく永瀬くんの姿が見えたから……」


 どうやらここで偶然鉢合わせたわけではないらしい。

 修は真っ先にトイレに行かなかったことを心底後悔した。


「そんなことより! 大丈夫なの!? 誰か人を呼ぼうか? 何なら、救急車とか……!」

「大丈夫だから……! 放っといてくれ!」


 大声を上げた瞬間また胃が痙攣し出す。

 修は近くにあった木にもたれかかり大きくえずいた。


 汐莉が慌てて近付き修の背中を優しくさするが、修はもはや払いのける気力もなく俯いて荒い息を吐いていた。


「あの~、大丈夫ですか……?」


 今度は男の声がした。

 次から次へと人がやってくる。修は完全に逃げる場所を間違えたと思いながら視線をそちらに向けた。


「なっ!?」


 修は思わず後ずさりした。

 またもや会いたくない人物が立っていたからだ。


 声をかけてきた少年は心配そうな顔をしていたが、修の顔を見て驚いたようにハッと息を飲んだ。


 少年はあの時の6番だった。先程見た試合は終了間際だったのだろう。

 反応を見る限り、うずくまって顔色を悪くしている少年が誰であるかに気付いたようだ。


 周りには数人の男子もいる。恐らくチームメイトだろう。各々手にはコンビニ袋や巾着を持っていることから、昼食をとる場所を探していたと推測できる。


 修はその顔を見て今度は沸々と怒りが湧き上がってくるのを感じた。


「あの、友達がちょっと具合が悪くて……。ここって救護室とかあったり……」


 汐莉が6番たちに助けを求めようとするのを、修は手で遮った。汐莉は困惑の表情を浮かべる。


「……よぉ。久し振りだな……」


「……あぁ」


 6番は視線を下の方に逸らしながら答えた。


「高橋、知り合いか?」


 傍らにいた男子が6番に声をかけた。高橋という名らしい。

 高橋は無言で首を縦に振り肯定する。


「ちょっと、ここは俺に任せて別の場所を探しててくれないか? すぐに追い付くからさ」


 高橋のチームメイトたちは状況が理解できないといったような顔を見せた。


「大丈夫なのか?」


 その内の一人が心配そうな顔で問いかける。


「あぁ。……頼む」


 その場の空気を察したのか、チームメイトたちは来た道を戻っていった。


 それを見送ってから、高橋は再び修に目を合わせる。

 気まずさを漂わせた、辛そうとも、厄介に思っているようにも見える表情だ。


「お前、こっちの高校に進学したんだな。今のはチームメイトか?」


 修は怒りが抑えきれず高圧的な声色で問いかけた。


「あぁ、そうだよ……」


 反対に高橋は今にも消え入りそうな声だ。


「さっきちらっと試合見たよ。楽しそうにやってたなぁ」


 高橋は表情を変えずに修を見つめたまま何も言い返さない。

 その態度に修の怒りは沸点を越えた。


「人からバスケ奪っといてなんでお前がへらへらバスケやってんだよ!? あ!? お前のせいで俺の人生は滅茶苦茶だ! お前さえいなければ俺たちは全国に行けた! お前さえいなければ強い高校に進学できた! お前さえ……お前さえいなければ…………!!」


 早口に捲し立てていると今度は深い悲しみが胸に込み上がってきた。涙で視界がぼやける。


「あの時は……本当にごめん。勝ちたくて……お前を止めなきゃって、必死だった。信じてもらえないかもしれないけど、誓ってわざとじゃない……。でも、最低なプレーでした……。本当にすみませんでした……!」


 高橋は勢いよく、深々と頭を下げた。


「……っ!」


 高橋の姿からは真摯な思いが伝わってくる。しかし修はどうすればいいのかわからなかった。


 謝られたからといって、時間が巻き戻るわけではない。

 修が怪我をして、多くのものを失った事実が変わることはない。


「ふざけんなよ……」


 修は声を絞り出した。


「俺は絶対にお前を許さない。目障りだからさっさとここから消えてくれ……」


 高橋は頭を下げたまま動かない。


「行けって言ってんだよ!」


 修は高橋に向かって地面を蹴り上げた。

 細かい砂粒が高橋の足下にぱらぱらと降りかかる。


 高橋はゆっくりと顔を上げた。


「本当に……ごめん……」


 そう呟くと踵を返して歩き去って行った。


「永瀬くん……」


 修はハッとした。声をかけられて汐莉が横にいることをようやく思い出した。

 しかし今の修は怒りや悲しみの感情に加え、腹の中は未だ気持ち悪さが残っており、汐莉に構っていられる余裕はなかった。


 汐莉を無視して修は近くにあった薄汚れたベンチに腰かけてうなだれた。


 すると隣に人の気配を感じ、そちらを見てみるとなんと汐莉が同じベンチに座っていた。


 修は呆気にとられてしまった。

 汐莉にとっては訳のわからない状況で、他人に対してあそこまで怒り狂う酷い姿を見せられて、怖いと思わないのだろうか。


「お前もどっか行けよ……」

「行かない」


 汐莉は修の方を見ずに、前を見据えて言った。


「状況考えろよ……。一人にしてくれ……」

「一人にしない。ここにいる」


 修には汐莉の言動の意味がわからなかった。

 ただ、何を言っても聞き入れることはなさそうだということは理解できた。


「勝手にしろよ……」


 これ以上の問答は面倒なだけだと思い、修は再び項垂れた。

 しかし不思議と、隣に誰かがいてくれるというだけで、なんだか少しばかり安心するような気持ちになっていった。





 どのくらい時間が経っただろうか。

 修は気持ちを落ち着かせるために呼吸だけに集中していたが、ようやく体調も、心もかなりマシになってきた。


 息を吐きながらゆっくり顔を上げる。

 すると横から何かが差し出された。


 驚いてそちらを見てみると汐莉がスポーツドリンクのペットボトルを修に渡そうとしていた。


「まだいたのか……」

「飲んだ方がいいよ。脱水症状になっちゃうから」

「……ありがとう」


 修は渋々受け取り、一口喉に流し入れた。


 汐莉は先程の修と高橋の会話をすべて聴いていた。

 恐らく大まかな事情は察しただろう。


 修が何故バスケをやらなくなったのか。


(けど違う……。厳密に言えばそれがすべてじゃない……)


 それを汐莉に隠し通したままで今後の生活を送るのは苦しい気がした。

 だが、だからといって修の面白くもない、暗い過去を話すのは汐莉にとっても迷惑な話であろう。


 修は言葉を切り出せず黙りこんでしまった。


「ねぇ永瀬くん」

「……何?」


 沈黙を破ったのは汐莉だった。


「永瀬くんが昔、バスケで辛いことがあったんだなってことは、なんとなくわかった。それに対して私が踏み込むのはお門違いかもしれない。永瀬くんも喋りたくない話だと思う。でも、でもね」


 汐莉は修の目を見据え、はっきりとした真剣な言葉で語りかける。


「永瀬くんがバスケで困ったことがあるなら、私も力になりたいよ。永瀬くんが、私にそうしてくれたように。だって私たち、バスケで繋がり合った友達でしょ?」


 汐莉の言葉からは暖かい気持ちが胸に直に飛び込んでくるようだった。

 興味本位ではない。本当に修の力になりたいと思ってくれている。


(話しても、いいかもしれない。もしかしたら、軽蔑されてしまうかもしれないけど……)


 修はこれ以上汐莉に隠し事を秘めておくのはいけない気がした。

 もしかしたら少しは楽になるかもしれないという期待もある。


「……じゃあ、聴いてくれるか? 馬鹿だった俺の昔話」

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