六章 鬼、怒る

 玲菜は誘拐された。

 だが、彼女は意外なほど冷静だった。

 無理やり車に乗せられるとすぐに港に行き、乱暴に放り出された。

「おい、あの原稿はどうした?」

 男が聞いてきた。

 実はヴォイニッチ手稿のことを聞いているのだ。

 玲菜は首を振った。

 知らない。

 本当に知らないのだ。

 ただ、時々、父の書斎で原稿を見て覚えたに過ぎない。

 だから、意味も価値もさっぱりわからない。

 その原稿も警察に押収された。

 だが、彼らには最初からお見通しだったようだ。

「これを見ても、そう言えるかな?」

 玲菜に向って投げつけられたもの。

 それは後ろ手に縛られた傷だらけの正行であった。

 頬や腕には痣や切り傷がある。

「れ、玲菜ちゃん」

 それまで意識を失っていた正行はこう言った。

「に、逃げて……ここは俺がどうにかする」

「何生意気言っているんだよ‼」

 別の男の蹴りが正行の腹に命中した。

 すでに吐くものはないのか、正行は荒い息をするだけだ。

「タフな奴」

 また、別の男が言った。

 玲菜に『ヴォイニッチ手稿』の解読が出来なければ、海外へ『売る』だけである。

 この手の市場は世界規模ワールドワイドだ。

 正行はそれでも、玲菜の前に立とうとした。

 玲菜はそんな正行に逃げろとジェスチャーをした。

 次の攻撃を受けたら、最悪、正行は死ぬかもしれない。

 だが、玲菜の心にこんな思いもあった。

――お父さんの復讐はどうするの?

 父を殺したのは、目の前の男たちで間違いないだろう。

 今なら殺せるチャンスかもしれない。

 しかし、そのせいで正行を見殺しにしていいのか?

「玲菜ちゃん。大丈夫だよ」

 戸惑う玲菜を恐怖で震えていると思った正行が微笑む。

――死んだ父より生きている人を助けたい

 その瞬間、玲菜は声を出した。

「誰か、助けて‼」

 一瞬、その場の空気が止まった。

 けれども、誰も来ない。

「おい、ガキを黙らせろよ」

 いつの間にか、男たちは集団になっていた。

 その中で一番大柄な男が巨大なナイフを持って正行に向って振り上げた。

 玲菜と正行が息を飲んだ時だった。

 黒い影が目の前に現れた。

 デニムのジーンズとブラウス、ツイードのジャケットを着た老人。

 平野平春平、その人である。

 春平は素早くナイフを持った手を蹴り上げると、勢いそのままに男の側頭部にハイキックを食らわせた。

「爺ちゃん……」

 正行は急に意識が落ちるのを感じた。

 今まで張っていた緊張の糸が一気に緩んだ。

「正行!」

 そんな孫を春平は叱責した。

「まだ、気絶をするな!」

 襲い掛かる敵の腹に蹴りをめり込ませながら正行を見る。

「お前は、玲菜ちゃんを守って交番に行け! 事情は話してある!」

「はい!」

 正行は何度か深呼吸をして立ち上がった。

「玲菜ちゃん、行こう」

 座り込んでいる玲菜に正行は手を差し伸べた。

 玲菜は正行の手を取った。

 だが、すぐにひっこめた。

「ごめんなさい」

 玲菜は泣き出した。

 戸惑う正行。

「謝る必要はないよ、玲菜ちゃん」

 男たちの攻撃をかわし反撃をしながら春平は言った。

「これは、俺たちの商売だ。君が気を病むことは一切ない」

 その言葉に玲菜は再び黙った。

 正行は、その間に彼女を連れて去って行った。

 その背後で聞いた言葉は今でも覚えている。

「ここからは、完璧な私事プライベートだ……お前らは、子供を傷つけた。その代償を払ってもらう。急所を外して……なんて器用なことはできないからな」

 その声の恐ろしさを正行は、今でもありありと思い出すことができる。

 地獄の鬼の呪詛のような声だった。

 後にも先にも祖父に対して強烈な畏怖の念を抱いたのはこの時だけだ。

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