五章 ヴォイニッチ手稿

 約三十分後。

 春平と玲菜は近くの商店街にある古書店にいた。

 玲菜は春平を見る。

「大丈夫」

 その言葉に安心する。

 ただ、手に商店街で買った袋さえなければ、もっと安心できるのだが。

 春平は年季の入った引き戸を開けた。

 うっすらかび臭いにおいがする。

「おおい、お茶菓子持ってきたぞ」

 だが、店は無人なのか返事はない。

 春平は薄暗い店内に再び声をかける。

「菓子屋の詰め合わせを持ってきた」

 すると、薄暗い闇が動いた。

 パッと電球が付き、明るくなる。

 奥から、額から後頭部まで髪の毛のない、辛うじて耳の両サイドにうっすら白髪がある、老人が出てきた。

 眉毛も口ひげも白い。

 ブラウスにジーンズ、その上からエプロンを着ている。

 あたりには、様々な本がある。

「なんだ、また、君か?」

 その老人は春平を見て声を上げた。

「そうだよ」

 老人、つまり、店主はあからさまな溜息を吐いた。

「昼寝をしていたのに……」

 と、春平の横にいる玲菜を見た。

「そのは?」

「ああ、

 春平の言葉に、店主は何かを察したようだ。

 黒電話を取り出すとダイヤルを回し始めた。

「……ああ、お前か? 今、大丈夫か? 何? 『放課後だからいいけど、いちいち電話かけるな。せめてメールしろ』? あんな無味乾燥なものの何処が……まあ、いい。少し、面倒を見てほしい子供がいるんだ……」

 電話を切って十数分後。

 その間、玲菜は古書店を物珍しそうに見ていた。

 近くの高校の制服を着た少し口の大きい少女がやって来たのは玲菜が少し飽きた頃だ。

「お父さん、来たわよ!」

 声も少し大きい。

「おう、おひさ」

 春平が読んでいた古本を戻し少女に挨拶した。

「春平さん、お久しぶりです」

 少女が挨拶する。

 その春平の横で小さくなっている玲菜を見た。

「かわいい!」

「こら、あまり驚かすな……」

 父である店主が制する。

「ねえ、この近くにできたクレープ屋さんに行っていい? この子と食べたいの」

「じゃあ、ついでに、俺たちも適当に何か買ってきてくれない?」

 そういうと春平は財布を出し五千円札を渡した。

「いいですよ! こんな……」

 戸惑う少女に父は言った。

「もらっておきなさい。これから、お前も高校に入って入用になるだろう」

 そう言われ、少女は渋々と五千円を手に取った。

 だが、少女の内心では『五千円が自分のものになれば買いたいものが買える!』と喜んでいた。

「じゃあ、お菓子買いに行きましょうか?」

 少女は玲菜を誘った。

 玲菜は少女と春平を見比べていたが、背中を押された。

「大丈夫」

 その言葉も加わり、玲菜は少女の下に移動した。

「お菓子で何が好き?」

 などと声をかけながら少女と玲菜は見知った商店街へ出て行く。

「さて、の話をしようか?」

 店主は一つ声を低くして春平に言った。

「話が早くて助かる……この原稿の裏に書かれているものを解読できないか?」

 春平は鞄の中から玲菜が書いた原稿を出した。

 それを手に取る店主。

「うん……これは、まさか……少し借りるぞ」

「どうぞ、どうぞ」

 店主は原稿を手に店の奥に行った。

 五分ほど、過ぎたあたりだろうか?

 再び店主がやって来た。

「これ、どこで手に入れた?」

「あの娘が書いた」

「加藤茂の娘か?」

「分かるのか?」

 店主は答えず、三度みたび、店の奥へ行った。

 話が長くなる時、この店の店主は相手にコーヒーを出す。

 実際、再び現れた店主は両手にコーヒーの入ったマグカップを二つ持ってきた。

「まあ、飲みたまえ」

「いただきます」

 春平は目の前に置かれたコーヒーを啜る。

 秀でて美味いわけではない。

 しかし、美味いコーヒーだ。

 持ってきた洋菓子と一緒だと、お互いを引き立てる。

 同じ商店街のコーヒー屋で買った豆だ。

 有名農園ではない。

 手摘みではないのかも知れない。

 多少酸化しているかもしれない。

 けれど、それを春平も納得の味にするのはなかなかのものだ。

 不意に店主は口を開いた。

「お前さんの持ってきた書類は『ヴォイニッチ手稿』だ」

「ヴォイニッチ手稿?」

 春平は持ってきた箱からシュークリームを出し食べながら聞いた。

「細かいことを省くが、いまだに解読されていない難文章だ。加藤茂は、日本における『ヴォイニッチ手稿』研究の第一人者だ」

 店主はスノーボールを出して一粒食べた。

「ほう……」

「多くの大学や教授が立ち向かったが完全なる解読にはいたらなかった……ところが、この文章は解読されている」

 手早くシュークリームを食べ終えた春平は考えた。

 あの時、父親が殺されたときの血に染まりながらも目の前にあった原稿、ヴォイニッチ手稿の翻訳を脳に焼き付けたのだろう。

 本人が意識しているか、していないかは分からないが玲菜が声の代わりに得た驚異の記憶力なのかもしれない。

「で、何が書いてあった?」

 店主は鼻で荒く息を吐いた。

「おい、元大学医学部の同期を何だと思っている?」

「この星ノ宮、ひいては豊原県一の情報屋であり知恵袋」

 この言葉に店主は少し目を閉じた。

 春平の言葉は最大の賛辞だ。

 ただ……

「平日は、ほとんど、お前さん以外客が来ないのは……なぁ」

「だったらさ、ここを喫茶店にしちゃえば?」

「古本屋を辞めろというのか?」

 店主が厳しそうな目で春平を見る。

「そういう意味じゃないさ……空きスペースあるだろ? あそこに椅子とテーブルを置いて古本を読みながらコーヒーが飲める店にするのさ」

「そういうことで客が来るかね?」

「さあ、ね……で、そのヴォイニッチ手稿には何が書かれていた?」

 今度は店主も答えた。

「この手稿には太古の儀式が書かれてあった」

「儀式かぁ……」

「子を成す儀式。早い話がセックス解説だ」

 店主もコーヒーを飲む。

「しかし、この原稿は一枚だけでも相当な金になる……お前、どうする?」

 シュークリームを食べながら店主は問うた。

 その時だ。

 店主の娘が大急ぎで帰って来た。

 だが、加藤玲菜の姿はない。

 よく見れば、娘の姿も埃まみれだ。

「どうしよう、お父さん‼」

 半泣き状態で娘は父を見た。

「どうした⁉」

 娘は泣きそうなのを我慢しながら説明した。

「あのね、喫茶店に行く途中に不良に絡まれて……必死で抵抗したんだけど……」

 限界だ。

 娘は泣き出した。

 春平は己の迂闊うかつさを恨んだ。

「大丈夫、泣かないで」

 春平は娘に声をかけた。

「どこに行ったか分かる?」

 娘は春平の穏やかな言葉に頷いた。

「星ノ宮港だと思う……」

「そこまで分かれば大丈夫」

 春平は安心させるように微笑むと残ったコーヒーを一気に飲んだ。


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