三章 怒りと呪いと

 春平は風呂場の残り湯で体を洗い着流しに着替えて居間の奥に座った。

 平野平家の居間は大人数の弟子たちが来てもいいように広い。

 畳敷きで部屋の隅にテレビと神棚があり、一本木から切り出した巨大な卓が真ん中に鎮座する。

「最初から話せないわけではなかったんですよ」

 猪口は正行の出した麦茶を飲み終えて語りだした。


 少女、加藤玲菜の父である加藤茂は翻訳家だった。

 母は玲菜を産んでから肥立ちが悪く、すぐに亡くなったという。

 その分、父親である茂はとても玲菜を愛した。

 親友であった猪口もその様子を微笑ましく見ていた。

 だが、数か月前。

 雷鳴轟く嵐の日だった。

 いつも絵本を読んでくれる父が来ないことを不思議に思いベットを出て普段は立ち入りを許されない書斎の扉を開けた。

 そこで目にしたもの。

 どす黒い血の池に身を沈めた変わり果てた父の姿であった。

 幸運だったのは、この日が玲菜の誕生日で彼女のプレゼントを持ってきた猪口が家に入ると異変を察してすぐに警察に通報したことだ。

 不幸だったのは、父の変わり果てた死体を見た精神的ショックで玲菜は一切の言葉を話せなくなったことだ。


「犯人はどうなっています?」

 春平が問う。

「目星は大分絞れています」

 猪口が答える。

「ほう……」

「師匠、お願いがあります」

 春平に対して猪口は頭を下げた。

「彼女を、玲菜ちゃんを預かって守ってください」

「狙われているのですか?」

「はい……主に人間関係で……今は児童福祉施設にいますが、口が利けないので虐められているみたいで……以前から行動力のある子で……」

 どうやら、黙って来たらしい。

 春平は、溜息を吐き、縁側であやとりをしている正行と玲菜を見る。

 最初のうち、正行に警戒をしていた玲菜も今ではだいぶ打ち解けている。

 言葉の喋れない玲菜に正行は図工用のスケッチブックとマーカーを渡した。

 筆談である。

 最初はおどおどしていた玲菜も優しい正行たちのおかげで明るい表情が出るようになった。

 元々が明るい少女なのだろう。

 それから、強い子なのだろう。

「猪口さん」

 春平は猪口を呼んだ。

「はい」

「彼女、もしかしたら、近いうちに声が出るようになるかもしれません」

「え?」

 春平は麦茶で口を潤し言葉を選ぶようにつづけた。

「俺も元は医者の卵でしたからね……ここに来る途中で少し診ましたが体に異常なところはありません」

「やはり、精神内科に連れて行ったほうがいいのでしょうか?」

「それも、一つでしょう。でも、肝心なところは、彼女が『誰かのため』に声を上げるようになることです」

「誰かの……為に?」

「これは、常人でも案外難しい事ですがね」

 春平は麦茶を飲み干した。

「玲菜ちゃんを預かりましょう」

 意外な言葉に猪口は一瞬戸惑った。

「何か?」

 猪口の様子に春平も戸惑う。

「普段、師匠って、こういう時にだいぶ嫌がるでしょう?」

「『猪口家は中央政界に入り国家安定に尽力する』『我が平野平家は猪口家を守る』……盟約です。それに、これを見たら……」

 そういうと、正行たちに見えないように猪口に紙の包みを渡した。

 賽銭箱に入れた包みである。

 そこに百円玉や五百円、中には千円のお小遣いと手紙があった。

【おにさまへ

 わたしのおとうさんはわるいひとにころされました。

 とてもくやしいし、かなしいです。

 どうか、かたきをうってください。

 おとうさんをいきかえらせてください

 おかねがたりないのなら、おかしも、なくこともがまんします。

 だから、やさしいおとうさんをいきかえらせてください】

 猪口はこの手紙を見て息を飲んだ。

 字を覚えたてで上手とは言えない。

 それでも、マーカーで紙一杯に書かれた文字は胸に迫るものがある。

 涙の染みもある。

「彼女は自分自身を生贄にしても父親のかたきを討ちたいのでしょうか?」

「敵討ちとは違うかもしれませんね」

 春平は近くの小さい引き出しから煙草を出した。

「たぶん、自分自身を呪ったのでしょう」

「まだ、五歳の子供ですよ?」

「子供だからこそ……単純だから、呪いの力は強いと思いますよ」

 箱から一本紙煙草を出した口に咥え、先端にライターで火をつけた。

 猪口は、玲菜を見た。

 正行と仲よく遊んでいる姿には自分を呪っているとは思えなかった。


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