二章 平野平正行と加藤玲菜

 正行が彼女と出会ったのは家と隣接している道場で日々の鍛錬を終えて庭先の井戸水で顔を洗っていた時のことだ。

 当時十歳だった。


 正行は六歳の時に親が離婚した。

 子供ながらに父親が『せんじょう』という場所で仕事をしていることは知っていた。

 それが普通の親でないことも。

 今のように何でも自分から語る父ではなかった。

 寡黙で静かな父。

 母は育児よりも家事がとても苦手な人だった。

 また、若い母だった。

 何しろ、十六歳で正行を生んだのだから。

 通信制の高校に入学したが育児や家事で全て中途半端だった。

 そんな二人に秋水の父、春平が声をかけた。

「俺は一人暮らしで淋しい。だから、正行を預からせてくれないか?」

 この提案に両親は少し迷い、「とりあえず、一週間」として正行を預けた。

 最初の一週間は普通の祖父であった。

 家事を手伝わせつつ、様々なことを教えた。

 祖父の本業は郷土歴史家だが、道場の運営や指導もしていた。

 その中に正行も放り込まれ、同い年の友達もできた。

 そのまま一か月、半年、一年間と過ぎた。

 正行はだんだん、この家の、自分に流れている血のことを知ることになる。

――自分の祖父は星ノ宮の『うらしゃかい』『やみしゃかい』に通じていること

――祖父は時々困っている人を誰にも言わないで助けていること

――かつて、自分の祖先は鬼と呼ばれていたこと

 預けられて一年を過ぎたころ。

 親が正式に離婚したという連絡が来たころだ。

 正行は改めて、祖父に問うた。

「俺も、誰かを守れるようになりたい」

 文机で原稿用紙に向かってペンを走らせていた春平は部屋の入り口で立っている正行を見た。

 怒鳴られると思った。

 否定されると思った。

 親元に送り返されるとさえ思った。

 だが、その反応は意外なものだった。

 春平は孫を居間に連れて行った。

 お互い正座になって向き合う。

 正行の胸は不安でいっぱいだった。

 まじまじと孫を見て祖父は言った。

「守るということは強くなることだ」

 これが初めて、正行に語った祖父の教訓である。

「どんな立派なお題目を言ったところで、それに見合う力がなければ、ただの戯言だ」

 当時の正行に『お題目』や『戯言』という意味は分からない。

 それに気が付いて春平は言い直した。

「正行がどんなに『守りたい』と思っても、ちゃんと力がないと誰も聞いてくれないし、守れない」

「じゃあ、強くなればいいの?」

「それだけじゃだめだ……芯を持たないと」

「しん?」

「自分が守べき規律……自分のルールだ。それがなきゃ、ただの暴力」

 改めて春平は正行を見た。

 数十秒、お互い沈黙を守った。

「まあ、お前のことだ。規律、ルールの部分は守るだろうね」

「じゃあ、あとは強くなること?」

「そういうこと」

 それから春平は腕を組み少し考えた。

「強くなるのは一朝一夕、つまり、簡単に強くなることはできない。修行を言い訳に勉強をしないのはダメだ」

「はい」

 正行は背筋を伸ばした。

「これから、しばらくは基礎体力をあげて体捌きだけを教える……」


 それが三年前だ。

 未だ、正行は木刀どころか竹刀も持たせてもらえない。

 早朝からランニングをして、昨日の残り湯で汗を流して、祖父の作った朝食を食べ、ランドセルを背負って小学校まで数キロの道を歩く。

 最初の数日だけは祖父も付き合っていたが、その後は自主練習だった。

 学校が終わると、数キロの道を帰り、空手着を着て正拳突きや蹴りの練習をする。

 後日談として、その様子を春平が秋水に語り、父は当時の息子をこう褒めた。

「最初は、爺様も数日で根を上げると思ったらしいよ。だって、俺の道場、子供も大人も差別なくハードメニューだからねぇ。俺の代で子供用のメニューも多少作ったけど、えげつねぇべ、俺んちの修行なんて……それをたかだが十歳の子供がさぼらずこなしたんだから偉いもんだ」

 これは石動と酒に酔った勢いで言った言葉である。

 本人には言ってない。

 ともかく、この頃から正行の体は目に見えて大きくなっていった。

 第二次成長期に突入したのだ。

 身長だけ見れば中学生でも通じる。

 顔がまだ少し幼さがあるので少しアンバランスだ。

 水の付いた顔を犬のように払い、濡れた髪を整える。

「おう、精が出るねぇ」

 そこに胡麻塩頭の顔の四角い男がやって来た。

「猪口さん」

 正行は男の名前を呼ぶと一礼した。

 猪口直江。

 春平からの弟子で公安部のベテラン刑事である。

 当時の正行に『公安』というものはよく分からなかった。

 しかし、忙しい合間をぬって正行が淋しくないように修行に付き合ったり、勉強を教えたりしていた。

 当時の正行もそんな猪口に対して尊敬のまなざしを持っていた。

「あれ、師匠は?」

「寺の雑草狩りに行きました」

 すぐに正行は答えた。

「……じゃあ、保護したのかな?」

「保護?」

「うん、実はさ……」

 事情を話そうする猪口に背後から声がかかった。

「この娘だろ?」

 猪口が驚いて振り向くと服が雑草まみれの春平と小綺麗な少女がいた。

「ああ、保護してくださいましたか……」

 猪口は心からホッとした顔になった。

 正行は少女の視線が自分に向けられていることを感じた。

 すぐに口角を上げ、正行は少女に話しかけた。

「こんにちは。俺、平野平正行。君の名前は?」

 当たり障りのない挨拶だ。

 だが、少女は春平のズボンを握ると視線を落とした。

 最初、正行は彼女の態度が理解できなかった。

 ただ、口をつぐみ、下を見て申し訳なさそうにしている。

 猪口が戸惑いながら言った。

「実はね、正行君……」

「この娘は口が利けない」

 春平が断言した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る