五月二十日 午後三時

第12話 神事『岩戸献』の二時間前 其の壱





 私の叔父である立花道三を立会人にと推薦していた伊予定之は、私のために宿を用意していた。宿といってもこじんまりとした民宿であった。


「温泉は源泉掛け流しですので、一日中開けています。好きな時間に入ってくださいな」


 民宿『世居待ちよいまちづき』を一人で切り盛りしている女将の天海君恵あまみ きみえに部屋まで案内された。

 用意されていた部屋は二階の畳部屋で、築五十年以上はありそうな古風な和室だった。宿に入ってすぐのところに階段があり、階段を上がって右側に進んだ先の部屋であった。広さは十畳くらいで、中央にちゃぶ台が置かれている。


「ささ、どうぞ」


 座るように促されたので、私は荷物を置いて正座をした。

 私が座るなり、天津君恵は慣れた手つきでお茶を煎れて、お茶とお茶菓子を私の前に出して、


「長旅で疲れているんじゃないですか? 温泉がありますし、汗を流してくるのもいいものですよ」


「……温泉、ですか?」


 温泉などあるとは思っていなかっただけに私はそわそわしてしまった。温泉は嫌いというよりもむしろ好きな類いなものであり、会社勤めに嫌気がさした時に日帰りなどでふらっと温泉によく行っていた。


「ここの温泉ですけど、秘湯だとか一部で囁かれている事もあって、常連さんが多いんですよ」


「おお! で、どのような温泉なのです?」


 秘湯となると単純温泉とは考えられない。他の特殊な泉質なのでは、と思ったのだ。


「塩化物泉なんですよ。結構独特な臭いがしますけど、良いお湯ですよ」


「塩化物泉でしたか」


 一般社団法人 日本温泉協会という法人が存在し、温泉に関する正しい知識の普及と温泉地の紹介などをしている。

 同協会は『温泉の泉質は、温泉に含まれている化学成分の種類とその含有量によって決められる』としており、当然の事ながら『塩化物泉』についての基準を設けている。


『温泉水一キログラム中に溶存物質量が千ミリグラム以上あり、陰イオンの主成分が塩化物イオンのもの』


 以上の基準を満たしている温泉を『塩化物泉』としている。

 その基準を満たしていない温泉は、泉質名が付けられず、温泉分析書に『温泉法上の温泉』あるいは『温泉法第2条に該当する温泉』と記載される。塩化物泉という名称は、主な化学成分を記した『新泉質名』を使うよう環境省によって昭和五十三年から改訂されており、改定前、今現在の塩化物泉はおそらく『食塩泉』と呼ばれていた可能性が高い。

 ブラックな企業や同僚の自殺を目の当たりにして心に傷を負い、休日に癒やしを求めて温泉に行っていたりした時に得た知識ではあるのだけど。


「こんな山奥なんですけど、潮の香りが濃いような温泉なんですよ。なので、山で海に入っているような気持ちで入浴できるのが喜ばれているんですよ。露天風呂もありますし」


「女将さんがそこまで言うのでしたら、すぐに入ってきます」


「そんな急がなくても温泉は逃げませんよ」


 天津君恵はくすくすと笑った。


「五時から予定がありますし、なるべく早めに温泉に入るのがいいのかもしれませんし、ひとっ風呂浴びてきます」


「ああ、そうでしたね。善は急げですね」


 お茶菓子を即座に平らげ、煎れてくれたばかりの熱いお茶をぐっと飲み干し、


「で、温泉はどこにあるのです?」


 と、訊ねた。

 私はまだ温泉のある場所を案内してもらってはいなかったのだ。


「ホント、お客さんは面白い人ですね。玄関から入って右側の通路を進んだ先にありますよ」


「右側ですね」


「タオル等は脱衣所に置いてありますから、それを使ってくださいな」


「分かりました。では、行ってきます」


 時間に追われるようにして私は立ち上がり、温泉へと向かう。

 女将の言っていた通り、玄関から入ってすぐのところに通路があった。通路はさほど長くはなく、突き当たりに『男』『女』という暖簾がかけてあった。

 私は当然『男』の暖簾をくぐり、脱衣所へと入る。

 入った先にあったのは、二段の棚にカゴが六個程度置かれている手狭な脱衣所であった。浴場へはその脱衣所にあるガラスドアを開けた先にあるようだった。

 入って一番手前のカゴの前に立ち、服を脱いで衣服を畳まずにカゴへと放り込んだ。

 カゴに隠れるようにしてタオルが置かれているのを見つけて、一枚を手に取って温泉へと向かう。


「……潮の香りだ」


 浴場のドアを開けると、むわっとした熱気と共に潮の香りが嗅覚を鋭敏に刺激した。

 塩分濃度が濃いため、こういった臭いになっているのかもしれない。人里離れた山奥にこんな塩化物泉があると知れば、温泉愛好家ならば欲望に従って訪れるのも納得できる。

 露天風呂は室内浴場にあるドアから行けるようで、ガラス貼りの引き戸が入って左手にあった。


「まずは汗を流して、と」


 私は身体を軽く洗ってからまずは室内の浴槽に身体を落とした。

 慣れてしまったのか、浴室に入った時に感じた潮臭さはもう気にならなくなっていた。


「ふぅ……」


 どこか肌にはり付く感触のする温泉だった。

 ぬらぬらとしているというべきか、独特の質感があり、肌を否応なしに刺激してくる。これは塩分濃度から来るものなのだろうか。


「……癒される」


 私はここに来て良かったと思えてきた。

 こんなにも良質な温泉があるのならば、数日の滞在も苦にはならないかもしれない。『岩戸献』という神事がつつがなく行われれば、だが……。

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