第2話 アスガルドの甥達

 アース神族が住む国、アスガルド。

 金の装飾に飾られた門を潜るのは、偉大な王であるオーディンだ。

 彼の帰還を喜ぶ神々は歓声をあげ、王に向かって手をふり、つと後ろについて歩く男に視線をよこした。

 見たことの無い、みすぼらしい格好をした美青年。彼はきょろきょろとあたりを見回して、居心地悪そうにオーディンの後をついていく。格好はみすぼらしいが、その中性的な顔は大変整っており、薄目の筋肉が乗った体とのバランスがよい。よって、美しいものを好むアース神族の神々はオーディンの帰還を喜ぶと共に、彼の美青年に夢中になった。


「なあ、オーディン」


「なんだ?ほら、ロキも笑って手を振るんだ。きっとみんな喜ぶ」


「いや、すげー見られてるから。これ、絶対不審がられてるから。なにあのきったないヒモノみたいなの気持ち悪いとか思われてるから」


「はっはっはっ、君はマイナス思考だな」


 とはいえ、当の本人はこんな調子だが。オーディンが彼の住むヴァーラスキャールヴへロキを連れ込んで以降、神々は謎の美青年についての噂話に夢中になった。

 ヴァーラスキャールヴの外で根も葉もない噂がまことしやかにささやかれている頃、そんなことを知らぬロキはオーディンに促されて彼の玉座、フリズスキャールヴの傍らにある小さいながらえらく豪華な椅子に座らされた。


「まあ、とりあえずはくつろいでくれ。酒でも持ってこさせる」


「あ、はい」


 まるで借りてきた猫のようにしおらしいロキの返事にオーディンが思わず吹き出す。普段のロキならば癪に触ってやいやいとわめき出すところだが、どうやら彼は思いのほか気が小さいらしく緊張している現在にかぎり大きな反応を見せなかった。


「フリッグ、愛しのダーリンが帰還したぞ」


 誰も姿を見せないことに気がついて、オーディンが大きめの声で呼び掛けるが返事はない。おかしいな、と呟いて広間を右往左往する彼につとロキは疑問を抱いた。


「お前、嫁いるのかよ」


「そうさ。可愛くて優しくて頭の良い自慢の嫁さんだ。ロキもきっと気に入るさ」


 嬉しそうに笑いながらこちらを振り返るオーディンに、呆れ返る。この男はそんな人が居ながらナンパなどを仕掛けてきたのか。こちとら出会いのひとつもないというのに。無生に腹が立って、ロキはこの件を口に出してやることにした。このすかした野郎が慌てる姿をさらしてくれたら少しは気分も良くなるだろう。


「そんな嫁がいるのに、お前は他の女口説こうと…」


 しかし、その言葉は途中で途切れる。先程までにこにこと笑っていたオーディンが、ロキの少し後方に視線をやったまま顔を青くしたためだ。

 しまった、と思った時には遅かった。

 錆び付いてしまったかのように固くなった首をゆっくり回して後ろを振り返ると、そこには慈悲深そうな笑みを浮かべた金髪の美女。彼女はゆったりとした動作でロキが座る椅子の背もたれに手をつくと鈴のような声を発した。


「アスガルドヘようこそおいでくださいました。大丈夫。私は彼がここを留守にしてからのことを全部、フリズスキャールヴからみていましたからね。夫ははじめから手遅れなのよ」


 彼女の言葉や声色は恐ろしいほどに優しくて、ロキは出ない声の代わりにただ頷いた。それに満足したらしい美女は一度彼に頷いてみせててから、夫のもとへ向かう。


「あの、フリッグ、あれは、その…」


「ロキさん、すぐにお酒とつまめるものを持ってこさせるわ。だから、しばらくお相手出来ないこと、許してちょうだいね」


 おろおろと狼狽えるオーディンの耳が力一杯掴まれ奥まで引き摺られて行く様は、ロキにとってただただ恐怖でしかなかった。だから彼は彼女の言葉に何度も頷くことしかできず、そのまま二人を見送った。静かになった広間で、ほっと胸を撫で下ろすと今度はなにやら子供の声が近づいていることに気がついてロキはそちらへ視線をやる。

 まさか、子供が酒を持ってくるなんてことは無いだろう。ならば、この声の主は何者だろうか。耳をすましてみると、どうやらその声は二人分あるようだ。


「だ、ダメだって、トール…きっとお父様が、場を設けてくれるから」


「何を言ってるんだ!お父様が連れて帰ったお客人だろう!だったら息子である俺達も誠意を込めて出迎えるべきだろう!」


 ばたばたと暴れるような音と、気の弱そうな声に返されるやたらと元気な声。なるほど、二人はオーディンの息子たちということか。ロキはその声に好奇心を刺激されて立ちあがり、ゆっくりとそちらへ向かう。声のする廊下へ数メートルというところまで歩み寄ったところで、ころん、と赤髪の少年が転がり込んできた。


「バルドル!突然手を離すなんて危ないだろう!」


 どうやら止めようとしていた片方が掴んでいた手を放してしまったらしいが、この転がり込んできた少年は無傷のようだ。やいのやいのと怒る少年に続いて、もう一人の少年が側に駆け寄り綺麗に整った銀色の眉尻を下げて小さな声で謝っている。ふたりとも、目の前の客人には気がついていないのか。


「それよりもトール、お客さまに失礼があってはいけないから、とにかくまた出直そう」


 おとなしそうな銀髪の少年が赤髪の少年を促すが、その一部始終を見ていたロキとしてはそのまま退場されてもつまらない。えらく可愛らしい歓迎の先が知りたくて、二人を引き留めることにした。


「俺は気にしてないから、出直すことも無いんじゃねえの?」


 突然かけられた、客人の声に二人が跳んで振り返る。膝を折りその上に頬杖をついたロキの姿を確認して、驚きのためか口をぽかんとあけた赤髪の少年と半べそをかいて大きな目を見開いた銀髪の少年は唖然としながらも手をしっかりと握りあった。


「そう怖がるなって。俺はな、お前の親父さんと血の誓いを交わして義弟になったんだ。親父さんの弟。身内だぞ」


 言いながら、一見自分がすごく怪しい大人であることを自覚したが、これが事実なのだから仕方がない。彼らが信じてくれるかは分からないが、ロキは変に弁明することなくへらへらと笑って見せた。はたから見ると実に怪しい男だ。

 しかし、二人の子供はロキの言葉を聞くなり目を輝かせながら顔を見合わせた。

 純真無垢な子供と言うのは疑うことを知らないらしい。


「ならば、あなたは僕らの叔父さんということですか?」


「そうそう、新しい叔父さん」


 ロキが何度か頷きながら返事をすると、二人は握りあった手をぱっと放して距離を詰めてくる。そして心底嬉しそうに新しい叔父の顔を見上げて確認すると、赤髪の方は無遠慮に膝へ乗り上げ、銀髪の方は遠慮がちに頬杖をついた腕へ触れた。


 うん、悪くない。


 ロキはそもそもから子供の事が好きだっただけでなく、自分で腹を痛めて産んだこともある。そんな彼としては、この二人になつかれて嫌な気などするはずがなかった。


「僕は、長男のバルドルです。こっちは、弟のトール。よろしくお願いします」


 銀髪の少年、バルドルはずいぶんと律儀らしい。膝に乗り上げた赤髪の少年のことも含めて礼儀正しく自己紹介すると首をかしげた。それにつられたように、よろしく、と力強く言った赤髪の少年、トールが膝から落ちないよう支え、バルドルの大きな青い目を見下ろすと、彼は落ち着きなくロキの腕をなで始める。その意図が、ロキにはわかった。律儀で礼儀正しいらしいバルドルは、この無遠慮なトールのようには振る舞えないらしい。


「俺はロキだ。これからよろしくな。バルドル、トール」


 そわそわするバルドルと、膝に乗り上げたトールの二人の背中に手をまわし、抱えあげながら言えば細い腕が左右から首に回される。はたから見ると見知らぬ子供を誘拐しているように見えるかもしれないが、これは全くもって健全な行為だ。二人の父親と義兄弟になったのも事実だし、この二人の叔父であることも事実。何も問題はない。オーケー、セーフティー。


 それからしばらくの間、オーディンの側近である二羽のワタリガラスが慌ててやって来るまでロキは思う存分二人の子供たちと戯れ続けた。二人の甥っ子はすっかりロキを気に入ったらしく、とにかく彼を見つけると離れなくなってしまった。それは良いのだが、問題はまた別の部分で発生していた。

 ロキの自宅は彼の希望で郊外に建てられることになった。しかし、それが完成するまでヴァーラスキャールヴに住まわせてもらっていた彼はいつも二人の甥を連れており、その姿を見た神々はまたまた噂話に夢中になった。彼は愛情の神だの、男に変身している美の女神だの、中にはオーディンや妻フリッグの愛人ではないかと言うものまでいた。しかし、そのようなことを言われてロキが黙っているわけもなく、彼はとんでもなく幼稚な行動に出ることにした。


 簡単な話だ。

 無駄に話を広げてしまう相手に、ちょっとした悪戯を仕掛けてやったのだ。それも、特に子供じみたやつを。普段から身綺麗にした神々は、ロキの悪戯に心底驚いて、渡された蛙を相手に投げて返し、ずぶ濡れになった服でとぼとぼと帰路につき、よごれた尻を両手で隠しながら悪戯の主に憤慨した。そんな神々の姿を見てけたけたと笑うロキの様に、愛の神だ美の女神だなどと散々囁きあっていた彼らは口を揃えてこう言った。


「あいつは、悪戯の悪神だ!」


 だが、どうやらその行いは例の甥達のお気に召したようで、彼らはすっかり叔父っ子になってしまったとかなんとか。






「あのときは、お前がこんなデカブツになるとは思わなかったよ」


 赤毛の男神、トールの隣に腰かけたロキは随分と成長しきった甥を仰いで数百年前を懐かしむ。巨人としては小さいがアース神族のなかでは長身と言われるロキより頭ひとつ分も高い身長に、しっかりとついた筋肉は幼い赤毛の少年だったころの面影など殆どなくなってしまった。身内として嬉しい反面、子供の頃から世話をやいてきた身としては何だか複雑な気分だ。


「雄々しい雷神様に憧れる奴等は、お前がやんちゃすぎて母親にも叔父にも怒られては泣いてたなんて知らないんだろうなぁ」


「そんな昔のことを蒸し返すな、ロキ」


 虹の橋、ビフレストを望むことができるヴァーラスキャールヴの一室、トールの部屋にあるベランダの塀に外へ足を投げ出す形で腰かけた二人の姿は橋の前で目を見張っている気難しい番人に丸見えだ。きっと、アスガルドから出掛ける際、危ないだのなんだのと小言を言われるだろう。そんなことを考えながら思い出に浸っていると、つと後ろから耳に心地よい声がかけられて振り向く。その声は、随分と心配性で気優しいもう一人の甥、バルドルの物だ。


「ふたりとも、危ないからそこに座るのはやめてくれないかい。トールはまだしも、ロキはこの高さから落ちたらかけがをしてしまいそうだよ」


「実はな、俺はトールよりも頑丈なんだよ」


 いつもつるむのは粗暴で不躾なトールだが、神族一容姿端麗で才色兼備なバルドルもロキにとっては同じくらいかわいい。彼の心配をぬぐってやる、というよりはその言葉に苦笑する姿が見たくて冗談を言うと、彼は案の定苦く笑ってからトールとロキの間に入るようにして塀へ手をついた。


「僕もまぜてよ」


「お前こそ落ちたら大変なんじゃないか?」


「何をいっているんだ、トール。僕は君と血の繋がった兄なんだよ。そんなやわじゃないさ」


 言いながらからからと笑い、身軽な動作で塀に座る。そんな何気ない動作も、きっとアスガルドの女神たちを魅了してしまうだろう。なんとなくその銀髪を撫でてやれば幼い頃となにも変わらないのに、ロキの膝に座ってじゃれあっていた兄弟は気がつけば肩を並べて座っている。

 ああ、時が流れるのは早いものだ。

 ロキはしみじみと、自分をアスガルドヘ連れてきてくれたオーディンに感謝した。



「ロキ、どうした。顔がにやけているぞ」


「なにかいいことでもあった?」


 声をかけられてそちらを見ると、体だけは大きくなった甥っ子達。


「そうだな。随分前にあったかな」


 ロキは自然と漏れる笑みをそのままに、一度大きく頷いた。

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