2―7 地獄の開門
一週間後、ジョンストンの病室のドアが開け放たれ、夫人とノーマンが招き入れられた。ジョンストンのかたわらには、ドイル医師とパメラ看護師がひかえていた。アルもまた、ジョンストンによってその場に呼び出されていた。
ジョンストンはベッドの上に仰臥していた。呼吸をするのにも一苦労といった状態だったが、酸素マスクはしていなかった。
ライアンが到着し、呼び出した全員がそろうと、ジョンストンは一人一人の顔をなめるようにして見回した。
「今日集まってもらったのは、遺言状について話をしようと思ってだ」
ジョンストンがようやく声を絞り出すと、ライアンがすかさず口をはさんだ。
「書き変えるって言うつもりなんでしょうね。自分を殺そうとしている人間に遺産をやろうなんてバカはいませんからね」
「その通りだ」
「やっと正気に返りましたか」
ジョンストンが夫人を相続人から外すつもりだと知って、ライアンは満足げな笑みを浮かべた。夫婦には子供がいないため、夫人がもらうはずの遺産の取り分はライアンのものとなる。さっそく金の使い道の算段をしているに違いないライアンは口元がゆるみっぱなしだった。
「遺言状は書き変えた。あとは証人にサインしてもらうだけだ。ドイル医師、サインしてもらえるだろうか」
ジョンストンは車椅子の上に置いてあった書類をパメラ看護師に頼んでもってこさせた。書類を手渡されたドイル医師は、パラパラとページをめくり、最後の一枚にさっさとサインした。
「あともうひとり。
神父の芝居を続けているアルは名指しされ、ドイル医師から遺言状を受け取った。遺言状に目を通し、アルは驚愕した。
本当にこの内容で構わないのかと確かめるようにアルはジョンストンの顔をみやった。ジョンストンは強い眼力でアルにサインを迫った。
アルは次にドイル医師をみやった。ドイル医師、いやサタンはまたしてもデーモンを放とうとしている。その意志を彼の笑みにアルは見出した。アルが新しい遺言状にサインをすればデーモンが放たれる。わかっていながらサインすることはアルにはどうしてもできなかった。
「
苛立たし気にそう言い、ライアンはサインを促した。
「素晴らしい遺言ではないか。ジョンストンさん、あなたは善人の鑑だ」
ドイル医師ことサタンはアルからペンと遺言状を取り上げたかと思うと、パメラ看護師に渡した。
「かわりにあなたがサインしてはどうだろう」
「でも……」
パメラ看護師は戸惑いながらジョンストンをうかがった。ジョンストンは枕の上で首を前にわずかに動かし、構わないという意思を表明してみせた。
遺言状に目を通すパメラ看護師は、アルが驚愕した一文に出くわしたのだろう、目をしばたかせながら、アル同様ジョンストンをみやった。ジョンストンは面倒くさそうに手をひらつせた。パメラ看護師は次に夫人に視線を送った。怪訝な表情でいる夫人にむかってパメラ看護師はかすかにうなずいてみせた。その口元に微笑みが浮かんでいた。
パメラ看護師はサインをし、遺言状をジョンストンに手渡した。
ドイル医師とパメラ看護師のサインを確認するなり、ジョンストンの息が雑音を叩きだした。呼吸困難に陥ったのかと危ぶんだパメラ看護師がすかさずかけより、酸素マスクをかけようとしたが、ジョンストンはパメラ看護師の手を払いのけた。
ジタバタしている虫の羽音のような息遣いで、ジョンストンは笑っているのだった。かっと見開いた目はらんらんと輝き、裂けたような笑みを口元に浮かべている。ジョンストンは時折苦悶の表情を浮かべながらも笑い続け、遺言状をノーマンに差し出した。
「ノーマン。お前は顧問弁護士としてこの遺言状をしかるべく執行するように」
ノーマンよりも一足先に遺言状を手にしたのはライアンだった。ジョンストンの手から遺言状をひったくるなり、ライアンは取って食わんばかりに書類に顔を近づけた。夫人に遺産の一部を譲るとした前の遺言状を破棄するという一文を読んだのだろう、ライアンの口角が上がった。だが、先を読み進めるにつれ、紅潮していたライアンの顔は血の気を失って真っ青になっていった。
「何です、この遺言状は! ぼ、僕は認めませんよ、こんな遺言状!」
上がった口角のはじに泡を飛ばしながらライアンはジョンストンにくってかかった。
「ノーマン弁護士、こんな遺言状、認められるんですか?」
ライアンは息巻いて書類をノーマンに渡した。ノーマンはパラパラと書類をめくってみせた。専門家だからどこを重点的にチェックすればいいのかわかっているのだろう。証人欄にドイル医師とパメラ看護師のサインを確認したノーマンは、ふうとため息をもらした。
「書類に不備はありません。こちらが新しい遺言状です」
とたんにライアンは雄叫びをあげた。両手で髪をかきむしり、目をむく形相で夫人を睨みつけるなり、「あんたのせいで僕は一文なしだ。お得意の慈善とやらで助けてもらいたいもんだよ」と叫んだ。
夫人はライアンには取り合わず、ノーマンから遺言状を受け取った。その内容を確認した夫人の頬が一瞬で赤くなった。
「あなた、これは一体……」
「わしを殺しても一セントだってお前たちのものにはならないようにしてやった。わしが死ねば、遺産はお前の大好きな慈善団体にいく。どうだ、嬉しいだろう、心優しきギャビーよ」
遺言状には、先の遺言状の内容を破棄し、すべての遺産は慈善活動のために設立した信託にゆだねるものとするとあった。アルが自分の目を疑った一文、パメラ看護師が思わず微笑んだ一文、ライアンを激怒させた一文だ。
「どうした、ギャビー。さっさとわしを殺したらどうだ? おいぼれ一人死ねば、たくさんの恵まれない人間を助けてやれるんだぞ」
夫人がジョンストンを殺そうとしていたという確たる証拠は何もない。ドイル医師ことサタンの「誰かが殺そうとしている」という一言が疑心暗鬼を生じ、ジョンストンが勝手に夫人を犯人と決め付けただけだった。
夫人に遺産はやるまいとジョンストンは遺言状を書き変えた。ジョンストンは夫人から動機を取り上げたつもりでいただろうが、その行為はかえって夫人に大きな動機を与えてしまったとジョンストンはいまだ気づいていない。
色と欲には惑わされなかったかもしれない夫人だが、慈善活動に熱心な夫人のことだ、莫大な遺産が慈善に使われるとなったらかえってジョンストンへの殺意が湧いてきやしないか。
アルはその点を恐れてサインができなかった。何も知らないパメラ看護師は、遺産が慈善事業に用いられるならという善意からサインをしてしまった。誰もかれもがサタンの掌の上で華麗に踊ってみせてしまっていた。
もがき苦しむ虫の羽音のようなジョンストンの笑い声に耐えきれず、夫人は耳を塞いだ。ジョンストンを殺す動機を与えられてしまった夫人は苦しんでいた。苦悩する夫人を見て、ジョンストンは楽しくて仕方ないとばかりに干からびた両手を叩いて笑った。
断末魔の悲鳴のような笑い声はとまらない。呼吸が苦しいのを無理して笑うものだから、ジョンストンは時々咳き込んだ。それでも笑うことをやめない。時おり痰が絡んで、肺をぐしゃりと握りつぶしたような音がたった。
そのうちにジョンストンの咳が止まらなくなった。喉を傷めたのか、咳き込んだ際にブランケットに血の飛沫が散った。苦しそうに胸をかきむしり、ジョンストンは助けを求めるようにドイル医師をみやった。
「どうやら誰かが毒を盛ったようですな」
ドイル医師は手当するでもなく、ベッドの上で苦しみもがくジョンストンを見下ろしている。
「ど、毒。そんなはずは……。ドクターとナース、神父以外に病室には誰も入れなかったというのに……」
ジョンストンは眼窩からこぼれ落ちそうな目を見開いてノーマンと夫人を凝視していた。恐ろしい形相のジョンストンに、夫人はすっかり怯えきって肩を震わせていた。
「私は『誰かが』と言っただけで、夫人があなたを殺そうとしているとは言っていない。手段をどうとでも整えた誰かがこの中にいるというわけだ」
「一体誰がっ」
突如、ジョンストンは、肺が飛び出すのではないかという勢いで咳き込んだ。上半身をベッドの上に折り曲げて何度も血を吐いた。最後の喀血はひどい量で、ブランケットの上にちょっとした血の溜まりができた。
やがて、あたりに腐臭が漂い始めた。その場にいた誰もが鼻をつく異臭に顔をしかめた。
「おや、地獄の門が開いたようですな、神父」
サタンことドイル医師に指摘されるまでもなく、アルも気づいていた。ジョンストンの血を鍵に今度は本物の地獄の門が開こうとしていた。
ブランケットの上に溜まった鮮血はゆっくりと渦を巻き始めていた。渦は次第に速度をあげ、その中心にぽっかりと穴が開いた。闇すらも一歩足を踏み入れたら飲み込まれてしまうその渦こそが地獄の門だった。開いた地獄の門からは地獄の底が覗いてみえた。地獄に堕ちたものたちのうめき声が聞く者たちの肌を粟立たせる。凄まじい腐臭は地獄から立ち上ってくるのだった。
ライアンはフレンチウィンドウを破って外に逃げ出し、夫人は気を失ってノーマンの腕の中に倒れこんでしまった。
「罪喰いを、神父」
やっとのことで声を絞り出したなり、ジョンストンはベッドに倒れこんだ。
その一言に弾かれるようにしてアルはジョンストンの傍らに駆け寄った。地獄の入り口は次第に拡大しつつあり、今にもジョンストンの体を飲み込もうとしている。
「これまで犯した罪のすべてを告白してください、ジョンストンさん!」
アルは肋骨の浮き出たしみだらけのジョンストンの胸に手をあてた。うすっぺらな皮膚の下で心臓が早鐘を打ち続けている。皮膚を突き破って飛び出そうとして、その部分だけが心臓の形に盛り上がっていた。急がなければならない。
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