2-3 良い知らせと悪い知らせ

ジョンストンには罪喰いをする意思がないため依頼は引き受けられないと伝えると、夫人は長い睫を伏せ、落胆していた。

 ニューオリンズへ戻るというと、夫人はそれならジョンストン家のセスナで送ると申し出た。

 翌朝、夫人自らが運転する車で、アルは空港まで送ってもらった。タクシーを呼ぶとアルは断ったのだが、客人を迎えにいくついでだからと夫人は譲らなかった。

 アルを乗せて飛び立つはずのジョンストン家のセスナはまだ空港に到着していなかった。主に自家用機の離発着に用いられているというこじんまりした空港だ。

 ジョンストン家の客人を降ろした翼で、アルを乗せてニューオリンズへ飛び立つ予定なのだが、スケジュールに遅れが出ているらしい。急ぐ身でもないから、アルはのんびり構えていた。

「遠いところを、わざわざありがとうございました」

 夫人は改めて礼を述べた。何もしていないアルは、夫人の丁寧な礼にかえって恐縮してしまった。

「こちらこそ。泊めていただいて、助かりました」

「いいえ、私どもがお呼び立てしましたのですもの」

 ノーマンに引き立てられるようにしてだったと思い出して今さらながらに腹が立ったが、夫人に免じてアルはぐっとこらえた。

「小切手には手をつけていません。お返ししたいのですが――」

「あら、構いませんの。あれは神父さまに差し上げたものですから」

「その呼び方はやめてもらえませんか。芝居はもうしなくていいのでしょう?」

 そういうアルはいまだカソックを身につけていた。他に着る服がないので仕方なく着ている。

「ええ、そうでしたわね。その格好をみてるとつい……。そうお呼びする方が楽なんですの。私、教会で育ちましたから。教会に捨てられていましたのをシスターたちに育てていただいたのです」

「小切手は捨ててしまったので、お返しできないのです」

 小切手を破り捨てた理由――女の依頼は引き受けたくはなかったからという理由はアルの胸にそっとしまった。

 捨てるくらいなら寄付してほしかったと言わんばかりに夫人は顔を曇らせたが、アルを責めはしなかった。

「ハリケーンはどうなったのでしょう」

 ふと夫人が呟いたので、そういえばハリケーンが近づいている中をボストンに向けて飛んできたのだったと思い出した。とにかく風が強くて機体が木の葉のように揺れ、心もとない状況だった。二日前になる。ハリケーンが来るとひどくなる頭痛は今回はそうでもなかったから、ハリケーンも大したことはなかっただろう。ボストンは快晴の秋空だった。帰りの旅路は快適なものになりそうだ。

「ああ、来ましたわ」

 空の一点をみすえていた夫人が声をあげた。夫人の目線の先に、胴体に赤いラインの入った白いセスナの機体があった。

 次第にその姿を拡大させながら空をかけおりてきたセスナは轟音をたてて着陸、滑走路をゆっくりと走って夫人とアルのもとへと近づいてきた。

 ドアが開いてタラップから男が降りてきた。夫人とそう年の変らない三十代、ネイビーの地にボルドーカラーの細いストライプの入ったスーツを着ている。着る人間を選ぶタイプの洋服で、その男はそのスーツには選ばれていなかった。

「息子です。ライアン、こちらは――」

「セラーティ」

 アルはファミリーネームを名乗った。神父さまと呼びかけ続けた夫人はアルの名前を知らなかった。

「セラーティ神父さま。我が家にお越しいただいていたのですが、もうお帰りになるのでセスナでお送りするところなの」

「神父というと、また寄付の話か何か?」

 神父ではないと否定しようとするアルをライアンはさえぎってしゃべり続けた。 

「この人はね、出せと言われたら言われただけものを出すような人だけど、あまり人の財布をあてにしないでもらいたいものですね、神父。まあ、出せと言われたからといってほいほい出す方もあれだが」

 迎えにきてくれた夫人への礼もないまま、ライアンはさっさと夫人の車の助手席に乗り込んだ。

 息子だというが、同じ年頃のライアンが夫人の子であるはずがない。前妻の連れ子がいるとジョンストンは言っていたから、ライアンがその連れ子なのだろう。

 身なりは上等だが、どこかに卑しさと狡さを感じさせる男だった。寄付の話かと言った時、ライアンはあからさまに嫌な顔をしてみせた。

「あまり揺れないといいですわね」

 夫人はタラップの下まで見送りにきてくれた。

 タラップの上から夫人に挨拶しようと振り返った時だった。セスナ目がけて転がってくる黒い物体が目に入った。目を凝らして見ると、物体の正体はジョンストン家の老執事だった。

 老執事は、セスナめがけて走っていた。両腕を前で大きく交差させる動作を繰り返している。まるでアルにむかってセスナに乗るなといっているようである。

 アルがセスナに乗り込もうとしないので、いぶかしがって背後を振り返った夫人が老執事の存在に気づいた。

 老いた体に鞭打って駆けてきた老執事は、息をきらしながら主人の伝言を述べた。

「神父さま、すぐお邸へお戻りください。ご主人さまがお呼びです」

 老執事にせかされ、アルは押し込められるようにして車に乗せられた。

 ライアン、老執事、アルを乗せた車は夫人の運転でジョンストン邸へと取って引き返した。

「奥さまと神父さまが出発された後のことです。ご主人さまが急に、神父さまを呼び戻せと仰せになられまして……」

「それはまたどうしてなの?」

 老執事の言葉が続かなかったので、夫人が優しく先を促した。

「はい……。あの、その、地獄の入り口がみえる、自分はもうすぐ死ぬ、死ぬ前に懺悔したいと……」

「それで神父さまを呼び戻しにきたのね?」

「はい」

 車中での老執事の話は要領を得なかったが、何ごとかが起きたことだけははっきりしていた。事情を知らないライアンだけは、地獄がどうの懺悔がどうのとは何だと目を白黒させていた。

 車をポーチに進入させるなり、夫人は運転席から飛び出した。アルもその後に続いた。振り返ると、ライアンはのんびりと助手席から降りてくるところで、老執事は車内で震えていた。

 ジョンストンの病室の前には、ノーマンと看護師、数人の使用人とが集まっていた。ドアは閉まっていて、ノーマンが必死になって開けようとしていたが、びくりともしない。部屋の中からはジョンストンのわめき声が聞こえてきていた。

「どうしたの、何があったの?」

 夫人が尋ねると、パメラ看護師が涙ぐみながらこたえた。

「洗い物を出そうとちょっと席を外して戻ってきましたら、ジョンストンさんが狂ったように叫んでいまして。地獄の入り口がみえる、もうダメだとかおっしゃってました。奥さまはお出かけになった後でしたから、私、慌てて執事のローソンさんを呼びました。ジョンストンさんはローソンさんに、『今すぐに神父を呼び戻せ』とおっしゃいました。ローソンさんが空港へ向かった後、ノーマンさんがお見えになったので、一緒に病室まで来てほしいとお願いしました。だって、地獄の入り口がみえるだなんて、おそろしくてとても一人では部屋に入りたくないですから。そうしたらドアはもう閉まっていて……。鍵なんかついていないドアなのにノーマンさんがいくらがんばっても開かないんです」

 パメラ看護師が話をしている間も、おそろしい叫び声は続いていた。聞くに堪えないおぞましい悲鳴声に、みな不安げな表情を浮かべている。

 地獄の入り口が見えるとジョンストンが言うからには彼の死期が迫っている。罪喰いをするのなら急がなければならない。

 アルの心の内を読み取ったかのように、夫人が突如、ノーマンを押しのけてドアに体当たりをくらわした。固く閉まっていたはずのドアはいともたやすく開いた。

 とたんに耳をつんざくような喚き声が廊下へと放たれた。その場にいた全員が一斉に耳を塞ぎ、恐怖におしつぶされた人間は一目散に逃げ出していった。

 アルはひとり、部屋の中へと入っていった。

 ジョンストンはベッドの上で激しくのたうちまわっていた。酸素マスクは外れ、喚き声をあげる口元からはだらしなく涎が幾筋も垂れている。眼窩に落ちくぼんだ目はかっと天井を見据えている。何をみているのかと視線を追った先に、暗褐色の粘液の塊が見えた。地獄の入り口だと思った瞬間、それはすうっと消えてなくなった。

「地獄が、その口を開いてわしを飲み込もうとしておる。わしはもうすぐ死ぬ。今すぐ罪喰いをしてくれ。地獄へは堕ちたくない、堕ちたくないぞ」

 今すぐ罪喰いをしてくれと、ジョンストンはうわごとのように繰り返した。

「神父さま、罪喰いを!」

 夫人が部屋の外から叫んだ。

 アルはためらった。地獄の門は消えてなくなっている。罪喰いは地獄の門が開いたままの状態でないと行えない。

 アルが戸惑っていると、部屋の入り口にたまっていた人の山をわけいって男が入ってきた。

「地獄だの、死ぬだのと。大丈夫、あなたは死にはしない。少なくとも今日は、だが」

 ドクター・ドイルと夫人に呼びかけられたその男は、ベッドのかたわらにいたアルをおしのけ、ジョンストンのそば近くに寄っていくと酸素マスクをかけ、手際よく注射を打った。

「鎮静剤を打っておいたから、しばらくはおとなしくしているだろう。地獄をみただなどと、幻覚にすぎない」

 ドイル医師はぐるりと辺りを見回した。パメラ看護師をはじめ、夫人やノーマンもみな、部屋の中へは足を踏み入れられず、入り口付近に固まっている。ドイル医師が地獄の入り口は幻覚だと言い切ったので、使用人らはほっと安堵の表情を浮かべていた。

 幻覚であったはずがない。アルは確かに地獄の入り口を見た。幻覚ではないが、はたしてあれは本物の地獄の門だったのか。

先生ドクター、ありがとうございました」

 夫人がドイル医師をねぎらった。興奮さめやらずといった風で頬が赤く、ドアに体当たりしたせいで髪が乱れていた。

「ジョンストンさんに話があるからと立ち寄ったら、死にそうだと騒いでいると聞いたのでね」

 ドイル医師はジョンストンのかかりつけの医者だった。医者らしく、清潔な身なりの壮年の紳士である。そのドイル医師はとんでもない爆弾をもってジョンストン家を訪れたのだった。

「グッドニュース。ジョンストンさん、あなたは死なない。バッドニュース、誰かがあなたを殺そうとしている」

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