2―4 疑心暗鬼の舞踏

肺がんと診断したものの、その発生に疑いをもったドイル医師は秘かに毒物検査を行った。その結果、ジョンストンはヒ素中毒だと判明した。

 慢性的にヒ素を摂取し続けていると皮膚がんや肺がんといったがんが発生しやすくなる。ジョンストンの場合は肺がんが発生した。肺がんの原因がヒ素中毒だとわかって残念だとドイル医師は述べた。

「故意に毒を盛られたのではなくて、どこかで偶発的にヒ素にさらされてしまったとは考えられませんの? たとえば飲み水ですとか。どこにヒ素が含まれているか、私、よく存知ませんけれど」

 夫人が“飲み水”と言った瞬間、ウイスキーをロックで飲んでいたライアンの顔がこわばった。氷は水の結晶体だ。客間に集まっている人間のなかで、ライアンの他に“水”を口にしたのは、ロックが好みらしい夫人だけだ。ドイル医師、アルは飲み物を口にしていない。ノーマンはストレート派だ。

「偶発的というのなら、あなたもこの邸で働く誰も彼も、ジョンストンさんのような症状が出ていないといけない。だが、あなたは健康で、香るユリのように美しい」

 ドイル医師に美しいと言われた夫人はほんのりと頬を赤らめていた。その様子がまさに咲き誇る大輪のユリのように麗しかった。

「毒を盛っていたのは、あなたじゃないんですか」

 ライアンの一言はその場を凍りつかせた。彼の視線は夫人を射ていた。もともと色白な夫人の顔が血の気を失ってますます白くなっていた。

「誰だってそう思うだろうに。あなたのように若くて美しい女性が、あんなおいぼれと結婚したのは遺産目当てだろう? 死ぬのが待っていられなくなったんで、毒を盛った。そんなところじゃないのか?」

「毒を盛るだなんて、そんなことするわけありませんわ! 第一、お互いの資産を守るという意味で婚前契約を交わしています。そうすることが結婚承諾の条件だったのではありませんか。あなたの出された条件ですわ」

 唇を震わせながら、しかし力強い声音で夫人は言い切った。

「じゃあ、遺産はいらないと?」

「私のものにはなりませんもの」

「あなたのものになるとしても?」

「そんなこと、あるわけありませんわ。婚前契約が――」

「おやじは、財産の一部をあなたに譲るという遺言状を書いたんだ。そこにいるノーマン弁護士に依頼してだ」ライアンはノーマンを指さした。

「あなたは、おやじの遺言状についてノーマンから聞いて知った。寝物語にでも聞いたんじゃないのか?」

 夫人とのあらぬ関係を疑われたノーマンの顔がひきつった。

「僕はそんな遺言状を認めるわけにはいかないと忠告しに急いでやって来たわけだけど、案の定、来てみたら、実は毒を盛られていたっていう話じゃないか。毒を盛られ始めたのは遺言状を書いた直後なんじゃないのか」

 医者なら調べればわかるだろうと言わんばかりにライアンはドイル医師の顔をみやった。

「ジョンストンさんが遺言状を書いたことと、その内容を、あなたはどうやって知ったというのです?」

 ドイル医師に詰め寄られて、ライアンはしどろもどろになった。うまい言い訳を考えようとする間、ブルーグレーの目が宙を泳いでいた。

「ジョンストンさんが殺害され、夫人が容疑者として逮捕されたら、夫人は相続権を失う。夫婦に子供はいないから、遺産はすべてあなたのものになる。夫人へ嫌疑を向けようとして、実はあなた自身が毒を盛っているとも考えられる」

「そ、そんな。僕がどうやって毒を盛り続けられたっていうんです? ここに住んではいないっていうのに」

 放ったはずの矢が自分にむかって戻ってきたものだから、ライアンは真っ青になっていた。

「手段はない。でも動機がある。金だ。動機さえあれば、手段はどうとでも整えようとするものだ。そうは思いませんか、神父ファーザー

「え? ええ、まあ、そうですね」

「金だけではない。色も動機になる」

 ドイル医師は夫人に目をやり、次にノーマンに視線を移した。

「失礼しますわ」

 ノーマンとの関係をドイル医師にまで疑われ、いたたまれなくなった夫人がフレンチウィンドウから庭へと飛び出していった。

 夫人の後を追いかけようとしてノーマンが腰を浮かせかけた。ノーマンはためらっていた。いましがた関係を疑われたばかりだというのに、夫人を追いかけていけば疑惑を裏付けてしまいかねないと懸念したらしい。

「どうも、夫人は気分を害されたようですな」

 夫人の気分を損ねた張本人のドイル医師がアルを見やった。その目が夫人に謝ってこいと言っていた。何故自分が行かなくてはならないのだという不満を抱きつつ、外の空気を吸いたかったアルはゆっくりとした足取りで夫人の後を追った。



 夫人は湖に面したベンチに腰掛けていた。石造りのベンチに姿勢よく腰掛ける夫人は両手を膝の上にそろえて湖をみつめていた。

 風がそよぐたび湖面には銀の漣がたった。その都度映り込んだ対岸の紅葉がかき乱されていた。

 アルは夫人のかたわらに腰を下ろした。客間を出ていった時の興奮はようやく収まったらしく、夫人は優雅さを取り戻していた。

「きれいでしょう。私、ここからの眺めが一番好きですわ。春の緑もきれいですが、やはり秋の紅葉が一番美しいと思いますの」

「僕もそう思います」

「神父さまも―」と言いかけて、夫人は口を押えた。アルに、神父と呼びかけないでくれと言われたのを思い出したらしく、苦笑いを浮かべた。

「私が主人を殺そうとしていると思っていらっしゃいますの?」

 天使のような美しい外見の人間でも悪魔のような所業を成すとアルは知っている。アルは夫人の味方をして、否定の言葉をかけてやることができなかった。

「ドイル医師は、あなたの義理の息子を疑っていましたが」

「ライアン、あの人に主人を殺して私に疑いをかけるようなことができるとは思えませんけども……。卑屈な人間ですが、小心者ですから。でも、お金に困っているのは確かです。主人の前の奥様の連れ子なんです。今はニューヨークに住んでいて、主人のつてて紹介してもらった会社のいくつかで取締役をしていますけど、浪費癖がひどくて、いつも主人に泣きついてくるんです。今回の訪問も、またお金の無心だろうと思っていたのですけど……」

 ジョンストンの遺言状で自分の取り分が減ると知って慌てて駆けつけたという理由は、ライアン本人によって暴露されていた。

「主人と結婚した時、あの人には遺産目当てだと散々言われて反対されました。ですから、婚前契約を交わしました。私には守るほどの財産もありませんでしたけど、それが結婚の条件でしたから。遺言状については本当に何も知りませんでしたわ。ノーマンさんとは顧問弁護士としてのお付き合いしかありません」

 夫人はきっぱりとノーマンとの関係を否定してみせた。夫人にその気がなくとも、ノーマンは別だろう。女ざかりの夫人を目の前にして平然としていられる男はそうはいまい。まして夫人はとびきりの美人だ。一線を引くような女には、たとえそれが人妻であろうと、男は逃げる獲物を追う気持ちでかえって惹かれていく。アル自身が身にしみて知る男の性を夫人は知らなさ過ぎる。

「主人とは、教会のボランティアをしていて知り合いました。私、フォーブスの長者番付に載っている方を上から順番に訪ねていって寄付をお願いしてましたの。お金をお持ちの方は社会的責務も立派に果たしてくださいと申しあげまして。今思うと若かったのですわ」

「あなたのように若くて美しい女性に寄付を懇願されて断ることのできる人間はいませんよ」

「女の武器を使ったかのような言い方をなさるのですね」

「実際、美は武器です。時に人を破滅させるほどの恐ろしいものです……」

 夫人の形のいい唇が何かを言いかけたが、言葉は発せられなかった。

「金の亡者などと世間では言われているようですが、主人はそんな人間ではありません。お金は大事ですわ。主人はお金の大切さを人一倍よく知っているのでつい厳しくなるようですけど、守銭奴というのとは違います。そうでなければ、若い娘に頼まれたからといって大金を簡単に寄付などできませんもの。お金で出来ることが何かをよく知っていて、無駄なことには使いたくないだけなんです。結婚してから私もお金の作り方を学びました。漫然と人の好意に頼るだけではダメですから、信託という形で一定のお金が慈善団体にいくようにしています。主人の資産の一部を信託資産にしていますが、私が結婚してからつくった資産も含まれますのよ。ボランティアをしていたときのつてで、みなさま、いろいろとよくしてくださって、結構なものになりました。信託の運営は、私を母親がわりに面倒みてくださったシスターにお願いしています。私の資産はすべて慈善団体のための信託財産となっていますから、私が死んだら、私の資産はすべて彼女のものになります」

「つまりは教会のものに、ということですね」

「ええ。孤児だった私は教会に育てていただきました。そのお礼とでもいうのでしょうか」

 背後に人の気配を感じ、アルは振り返った。ノーマンが芝生を歩いてベンチにむかってきていた。足取りはゆっくりしているが、腰から上が前のめりの姿勢である。一刻も早く夫人のそばに行きたいがアルを気にしているといった様子だった。

 ジョンストンの遺言状について、少なくともノーマンはその内容に通じていた。遺産の一部が夫人に渡ると知れば、ジョンストンを殺し、夫人も手にいれる、ついでに夫人が手にするだろうジョンストンの莫大な財産も手にいれる計画を思いついても不思議はない。

 動機さえあれば、手段はどうとでも整えようとするものだ――

 ドイル医師の言葉がふと思い出された。

 顧問弁護士としてノーマンは日頃からジョンストン家に出入りしている。手段はどうとでも得られる。動機は夫人だとしたら――

「ジョンストン夫人――」

 ノーマンには気をつけてと忠告しようと呼びかけたアルを、夫人の笑顔がさえぎった。

「どうぞ、“エル”と呼んでください」

 ファーストネームのニックネームを告げた時の夫人は無邪気な笑顔を浮かべていた。

「“エル”? ジョンストンさんはギャビーとあなたを呼んでいましたが」

「主人はギャビーと。でもそう呼ばれるのは好きではないので、私、親しくなった方には“エル”と呼んでいただいてますの」

「ガブリエル……受胎告知の天使ですね」

「私が教会の前に捨てられていた日が九月二十九日、聖ガブリエルの日だったのでシスターがそう名付けてくださったのです」

 聖母マリアにイエスの受胎を告げた天使ガブリエル。絵画などには、男とも女ともつかない顔立ちで描かれている。アルの目の前にいる夫人は、数々の受胎告知の絵画に描かれてきたどの大天使ガブリエルに勝るとも劣らない美しさだった。

 それは邪まな心を起こさずにはいられないほどの美だった。

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