第2章 ボストン
2-1 美しき人妻
ボストンの街並みは入植当時の面影を湛えていた。アルは友人に会うような懐かしさを感じた。ボストンは、新大陸アメリカに渡ってきたアルが真っ先に踏んだ土地だ。混乱と紙一重の活力にあふれていた街は、今やどっしりと構えて落ち着き払っている。お前は年を取ったなとアルは胸の内で呼びかけた。
感傷に浸るアルを乗せ、車はボストン郊外を目指す。
目的地であるジョンストン邸は山間にあった。山道脇にどっしりと構えられているゲートを通過、車窓に紅葉を映して走ること十分、ようやく車はジョンストン邸の建物にたどりついた。古のヨーロッパ貴族の離宮を思い起こさせる豪奢な佇まいの邸宅だ。円柱をほどこした玄関ポーチはギリシャ神殿を彷彿とさせる。
中央に噴水をあつらえたロータリーを半周し、車は車寄せへと進入していった。
玄関には年老いた執事が出迎えに立っていた。先に車を降りたノーマンは執事には目もくれず、建物の中へと駆けこんでいった。
執事もまたノーマンを気にかける様子もなかった。アルには丁寧に挨拶をし、執事はアルを客間へと案内した。
外見に違わず、内部もまた豪奢な造りだった。天井にはクリスタルの豪華なシャンデリア、家具はロココ調の物でそろえられている。圧巻なのは、窓からの景色だった。フレンチウィンドウの先には緑の芝が、その先には午後の光を受けて輝く湖がひろがっている。湖には紅葉する木々が映り込んでいた。窓からの景色だが、まるで客間にあつらえられた一枚の美しい絵画のようだ。
ノーマンは客間にいた。まるでこの邸宅の主人であるかのように、ノーマンは手慣れた仕草でワゴンからグラスを取り、デカンタからウイスキーを注いで一気にあおった。
グラスを手にノーマンは客間の隅から隅へと行ったり来たりし、落ち着きがなかった。ちょっとしたボールルームほどの広さはある客間を、ノーマンは延々と彷徨い続けた。目の前に壁が迫って方向を変えるだけで、まるで壁にあたった反動で別の方向へと動いていくボールのように、止まることを知らない。
華やかな家具の間に黒一色のカソック姿でぽつねんと立ち尽くしているアルの姿が目に入らないはずはない。ノーマンは、アルがその場に存在していないかのように扱った。アルには目もくれない、口もきこうとしない。
ニューオリンズを出てからというもの、ノーマンは口数が少なくなった。必要な指示を出す以外、口を開こうとしない。例外は、自家用セスナの
ハリケーンが近づいているせいで風の強くなってきた中を飛ぶのは危険だと操縦士は忠告した。ノーマンは意に介さず、ボストンに向けて飛べと命令した。命より時間が惜しいらしい。結局、ノーマンの剣幕に押される形でセスナは飛び立った。機内でノーマンは押し黙ったままだった。
「遠いところをようこそお越しいただきました、
女の声がするなり、動きっぱなしのボール、ノーマンが立ち止まった。
振り向くと、握手を求めて手をさしのばした女がアルに近づいてきていた。
アルは女の手を握り返した。綿毛のようにみえたその手は握ってみると滑らかで、氷のように冷たかった。
罪喰いを頼んできたからには瀕死の人間なのだろうとばかり思っていたが、ジョンストン夫人は健康体そのものだった。
アップにしたヘアースタイルのせいで老けてみえるが、年は三十前後だろう。光り輝くブロンドの髪に、ブルーの瞳。身につけているアクセサリーはパールのみと控えめ、シンプルなデザインの藤色のワンピースと上品な装いだ。
「空の旅はいかがでした?」
「だいぶ揺れました」
「ハリケーンの中を飛んできたのです」
まるで自分が操縦してきたかのようにノーマンが誇らしげに言った。
「それは災難でしたのね。でも私どもの操縦士の腕は確かですから。昨日、お迎えにあがった時もセスナを出せたらよかったのですけど、都合がつかなかったものですから。でも今日こうしてお目にかかれて嬉しく思いますわ」
嫣然とした微笑みを浮かべつつ、夫人はワゴンに歩み寄っていった。
「神父さま、何をお飲みになさいますの?」
夫人は新しいグラスを三つ用意していた。そのうちのひとつに夫人はウイスキーを注ぎ、ノーマンに手渡した。ストレートで飲むノーマンの好みを知っているかのように自然な動作だった。
アルが断ると、「私は失礼して、いただかせてもらいますわ。飲まないとやっていられませんもの」と夫人はグラスにアイスの塊をひとつふたつ入れてウイスキーを注いだ。ロックは夫人の好みのようだ。
「主人はもう先が長くありませんの……」
酒の力を借り、夫人は吐き出すように言った。
「ですから神父さまに――」
「その神父さまというのはやめてもらえませんか。こんな格好をしていますが、僕は神父ではないんです」
何度も“神父さま”と呼びかけられ、そのたびにくすぐったい思いをしていたアルはようやく夫人をさえぎることに成功した。カソリックの僧衣、カソック姿はノーマンに強制されたのだ。
「存じておりますわ。神父のふりをしていただくことについての事情は?」
夫人はノーマンをうかがった。
「いいえ、詳しいことは奥さまからと思いまして」
夫人の青い瞳に萎縮したようにノーマンの声が小さくなった。
「そう、そうですわね」
舌のすべりをよくするかのよう、夫人は再びウィスキーを口にした。
「主人は肺がんでもう長くはありません。主人も私もカトリック信者ですの。本来でしたら、神父さまに告解を授けてもらうべきなのですが、そうもいかなくなってしまって……」
カトリック信者であれば、死の間際、司祭に告解の秘跡を授けてもらう。告解とは、罪の赦しを神に乞う行為で、司祭は信者から罪の告白を受け、神の赦しを得るための仲介役を引き受ける。告解は宗教行事なので、この儀式を執り行うことができるのは司祭などに限られ、告解をする人物も信者に限られる。信者以外、あるいは信者にふさわしくないとして破戒されたものにはこの告解の儀式は行われない。
「半年ほど前、同じ教会に通っているある女性の方が神父さまに告白なさったんです。その……女性のお嬢さまが無理やり主人と関係をもたされてしまったと。お嬢様はまだ十五歳なのだとか。主人は関係を否定しましたし、私も主人を信じていますけれども、その方がおっしゃるにはお嬢さまは妊娠されて、主人は堕胎を迫ったそうなのです。彼女は主人との関係や堕胎の罪の意識に耐えられなくなって母親に相談、母親の方が神父さまにすべて告白されたのです。それからです。主人と教会との関係が悪くなっていきました。もともと体調がすぐれなかったのですが、女性の告白があってから、主人の衰弱がひどくなりまして。教会からは足が遠のいてしまいました。そうこうしているうちに肺がんがみつかりまして。お医者さまからは長くないと言われています。ですから……」
「告解は無理でも、罪喰いならと?」
夫人はほっそりとした首を折ってうなずいた。
「そういう事情ですから、教会に頼ることができなくなってしまいました。でも、私は主人に天国へ行ってもらいたいと願っておりますの」
「罪喰いと告解はまったく別のものですが……」
「存じております。禁忌なのですよね」
天国の扉を開いてみせるという点では同じだが、至る道が異なる。告解は神の赦しを得られるのに対し、罪喰いは罪を他人に肩代わりしてもらうだけだ。神に赦されて天国の門をくぐるわけではない。
罪喰いの儀式がいつから存在しているのか、アルは知らない。アルが修道士だった頃にはすでに今の形での儀式が存在していた。告解にしろ罪喰いにしろ、天国が約束された儀式であるには違いない。
罪喰いの儀式を、教会は認めていない。教会は、赦しを与えられるのは神のみという立場でいる。そもそも、罪喰いの儀式を依頼する人間は罪を悔いあらためたわけではなく、他人に肩代わりさせようという狡さを持ち合わせているため、罪喰いは禁忌とされている。
「主人には罪喰いの儀式をするとは話しておりません。神父さまに告解を授けていただくという話をしておりますので、そのような格好をお願いしたのですわ」
「罪喰いを引き受けるとは僕は言っていないのですが」
「お引き受けいただけない理由は何ですの? お金でしたら――」
夫人はノーマンをみやった。その目が、アルを説得したのではなかったのかと責めるように冷たく冴えていた。
「お金の問題ではないんです。僕は、女性の依頼は引き受けないことにしているんです」
「それは何故ですの?」
アルは返答に戸惑った。嘘を考えるのは苦手だ。かといって、愛した女に裏切られたからだという本当の理由を述べるのもためらわれる。アルが愛した女は、別の男に恋をして、その男を堕獄から救うためにアルに罪喰いをさせた。夫人は愛する夫を堕獄から救おうとアルに罪喰いを依頼している。なりふりかまわぬ夫人の姿にかつて愛した女の姿が重なった。
「信条としか申し上げられません。ただ……」
「ただ?」
「お話を伺っていると、罪喰いが必要な人間はご主人です。もしご主人が罪喰いをしたいというのなら、引き受けましょう」
「したくないと言ったら?」
「本人の意思なしには罪喰いは行えません」
夫人は軽く目を伏せて考え込んだ。夫人が考えこんでいる間中、ノーマンは固唾をのんで夫人の美しい横顔をうかがっていた。
「わかりました。主人に会っていただきます。ただし、条件がひとつございます」
夫人の青い瞳がアルを真っ直ぐに射た。
「神父としての芝居は続けてください」
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