1ー6 三十三個のボタン

 脇腹を何かが這っているような感覚があった。うっとうしげに目を開けてみると、目の前に磨き抜かれた靴があった。靴の表面に映り込んだアルの顔は歪んでみえた。実物とそうは変わりないだろう。

 スラックスの折り目をたどっていくと、ノーマンにたどりついた。ノーマンは靴の爪先でアルの脇腹を突き、生きているかどうかを確かめているようだった。

麻薬中毒者ジャンキーか」

 廃人のようなアルをノーマンは軽蔑するようなまなざしで見下ろしていた。

「少し急ごうか。昨日の午後便でといったのに、もうすでに二十四時間の遅れが出ている」

 ボストンに行くとは言っていないと言おうとするが、口をきくのも億劫だった。

 ノーマンはアルの足首を持ち、バスルームまで引きずって行った。バスルームにアルを押し込めるなり、ノーマンはシャワーの蛇口をひねってドアを閉めた。

 冷たい水が勢いよく流れだし、服を着たままのアルの体を打ちすえた。湯加減の調節などされなかったものだから、すぐに熱湯になり、バスルーム中にたちまち湯気が満ちた。冷たさも熱さも、感覚の麻痺したアルには何ほどのものでもない。

 アルは、排水溝にすいよせられていく血のいくすじもの流れをぼんやりとみつめていた。

 その血はアルのものではない。血まみれのシーツでのたうちまわったせいでついたトムじいの血だ。乾いていたはずの血は水分を得て、再び艶を取り戻していた。

 トムじいの血はやがて下水へと流れこみ、汚水処理を経てメキシコ湾へと流されていく。

 彼の犯した罪はアルの内にとどまったままだ。罪喰いの儀式によって自らの内にとりこんだ罪は容赦なくアルの体を痛めつけ、アルを内側から蝕んでいく。ヘロインでハイにでもなっていなければとても耐えられる痛みではない。

 アルの肘の内側は注射のしすぎで青黒く変色していた。ときたま、人の顔にみえる時がある。罪の顔だ。人の目にも触れさせたくなく、アル自身も自分が負った罪の顔を見るに耐えず、アルは長袖のシャツを着る。

 トムじいの血がついたシャツは重くアルの肌にはりついてきた。服の上から石鹸をこすりつける。石鹸も赤く染まっていく。血を洗い流そうとしているのか、石鹸を赤く染めようとしているのかわからない。

 “洗濯”し終えたシャツも下着もはぎとり、裸になる。肌にまで浸透してきた血を石鹸でこそぎとる。血は洗い流せても、喰った罪は洗い流せない。わかっていながら、アルは石鹸で肌をこすり続けた。

 排水溝に吸い込まれていく水がようやく透明度を取り戻すようになって、アルは蛇口を閉めた。

 水音が途絶えた瞬間、アルの耳にノーマンの声が飛び込んできた。押し殺したような低い声で、よくは聞き取れない。どうやら携帯電話で誰かと話をしているらしい。 “ファインだいじょうぶ”“エル”という単語がもれきこえてきた。

 バスルームのドアを開けると、ノーマンが携帯電話をスーツの内ポケットにしまいこむ場面に出くわした。ノーマンは何食わぬ顔でスーツのボタンをとめてみせたが、アルはホルターとそこにしまわれていた銃とをめざとく目撃していた。ノーマンに抱きかかえられるようにしてバスルームに放り込まれた時、アルは脇に固い感触を得ていた。その時はぼんやりとして何も考えられなかったが、ノーマンの拳銃があたっていたのだ。どうやらノーマンはただの弁護士ではないらしい。

 咄嗟に身構えたが、裸ではどうしようもない。アルは髪の先から水をしたたらせて立ち尽くしていた。

「それを着てもらいたい」

 ノーマンが視線をやったサイドテーブルの上に、黒い洋服が折りたたまれて置いてあった。広げてみると、全身を覆えるほど裾が長い。マントのようなスタイルで裾が広がり、首元から裾まで大量のボタンが直線状にぬいつけられてある。

 その洋服の正体を知るアルは当惑し、服をサイドテーブルに投げ捨てた。

「これが何か、お宅は知っているのか」

「知っている。神父の普段着だ。カソックというのだろう」

「僕は神父ではない」

「神父のふりをしてもらう必要があるのでね」

 なぜそうする必要があるのかを尋ねる以前に、カソックを身につけること事体にアルは抵抗があった。神父になりそこねた身、呪われた身であるのだから、神父の平服に袖を通す気にはならない。ただの洋服ではあるだろうが、身にまとったとたん、教会を裏切ったアルを断罪するかのように、火がつくのではないかという恐怖心が湧いてくる。

「着てもらおうか」

 感情を押し殺してはいるが、ノーマンの声には有無を言わせぬ威圧感があった。ノーと言えば、胸のホルターから銃を取り出して脅かしてでも着せようとするのだろう。

 業火と銃、どちらにしても傷つくのはまぬかれないとみえる。不死身だが、病気もすれば怪我もする。人には時間がないが、アルには完治するまでにかかる時間がたっぷりとある。完治するまでの間、痛みに苦しまなければならないが。

 ならば神の放った火で焼け死ぬかと覚悟を決めて、アルはカソックに袖を通した。

 火はつかなかった。アルの身には何事も起こらなかった。神の火でなら「死」という安息が得られるかとなかば期待していたアルは、苦痛に顔をゆがめた。神は結局、自分だけは赦してはくれないのだ。

「ボタンがいくつあるか、お宅は知っているか」

 すっかり湯冷めて冷たくなった指先でボタンをはめていきながら、アルは尋ねた。

「知らないね。興味もない」とノーマンは腕時計を確かめた。

「三十三個だ」

 「興味ない」という言葉と裏腹にノーマンの視線がボタンの数を数えていた。

「このカソックの丈にあわせて三十三個になったというわけじゃない。どんな丈のカソックでもボタンの数は三十三と決まっている」

「中途半端な数字だな」

「イエスの生涯、三十三歳にちなんでいるんだ」

「三十三。若いな……」

 ノーマンが呟いた。

 アルがすっかりボタンをはめ終えた時、ノーマンは再び「若いな」と呟いた。

「どうにもうさんくさい。神父にみえない。若すぎるのか」

「童顔で悪かったな」

「童顔……ねえ」

 ノーマンの口ぶりには含みがあった。

「あなたを探していた時、いろいろな人に話を聞いてまわったよ。金髪に青い目、背の高い二十歳そこそこの若い男だと、全員口を揃えて言った。まあ、その通りだったんだが――」

 ノーマンの視線がアルの顔をパーツからパーツへとじっくりなめまわす。

「最近会った人間の証言が二十歳ぐらいの若い男っていうのなら、わかる。だが、二、三十年前に見かけたという人間が二十歳ぐらいだったというのなら、今は四、五十になっているはずだ。だが、あなたは若い。目撃者が言った通り、二十歳そこそこにしか見えない。童顔って言ったって、年を取ればそれなりの顔になるものだ。アンチエイジングなんてものの仕業じゃない。あなたの若さには悪いものが関わっているような気がする――。彼らは、あなたは人間ではないのではないかと言っていた……」

「ある意味、正解だな」

「何者なのだ?」

「ゾンビだ」

「ブードゥーか」

 ノーマンは口元を曲げて皮肉な笑みを浮かべてみせた。

 人の罪を喰って永遠に生き続けている人間が自分以外にもいるとアルは知っている。彼はゾンビとは呼ばれていない。違う名で呼ばれている。見た目はアルと同じように、最初に罪喰いをした三十代のままだろう。当時の彼を描いた絵を見る限り、三十代前半の男性が描かれている。

「まあ、童顔であろうと、ゾンビであろうとなかろうと、どうにかなるだろう」

「どうにもならない。さっきも言ったが、僕は神父ではない。どう振る舞ったら神父らしく見えるかもわからない。第一、芝居は下手だ」

「オスカーを獲ろうっていうんじゃないんだ。神父の格好で、『仕事』をしてくれさえすればいい」

「その話だが、『仕事』を引き受けるとは言っていない」

「金額に不満があるのなら、依頼主に直接言ってくれ」

「金の問題ではない」

「なら、何だ」

 躊躇したものの、アルは正直に答えた。

「女からの依頼は受けない」

 ノーマンは呆れていた。嘲笑のまじったため息を漏らすなり、

「断る余地はない」

 ノーマンは懐から銃を取り出した。

 背中に銃を突き付けられ、アルは部屋を出た。もう二度とこの部屋に戻ることはないだろう。

 バーは相変わらず、ひどい有様だった。ケンカの後始末がまだだった上に、トムじいを運び入れた連中が乱雑さに拍車をかけていた。

 グラスの破片を踏みしだきながら、アルはバーのカウンターを見やった。入り口から一番遠い席がエヴァの定位置だった。彼女はツールに浅く腰掛け、形のいい脚を組んでバンドに聴き入り、酒の入ったグラスを傾ける。今頃はトムじいの葬式やら何から後始末をあれこれ取り仕切っているだろう。

 天国だったのにな、とアルは「天国」に別れを告げた。

 ニューオリンズの街に別れを告げたその数十分後、アルはプライベートジェットの機上の人となった。数時間後には冷たく乾いた秋風の吹き付けるボストンの地に降り立っていた。

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